こんばんは、彼方です( ´ ▽ ` )ノ
人は癒されてくるとどんどん記憶の層の下にある感情が出てくるらしいですが、
今の私は10歳だった時くらいまで遡っております。
アダルトチルドレンの治療は“理解あるパートナー”や“良き理解者”との巡り合いによって、劇的に進む事もあるようですが、諦めました(^-^;)
今日はハンドメイド。
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これも途中経過ですが、レース地のカーディガンを縫っています。
Amazonさんのベストセラーにず〜〜っと“ハトロン紙”がいます。
皆さん、ソーイングの季節なのだなぁと思っておりますよ〜〜(*゚Д゚*)
レース地のカーディガン、特に合わせ易い生成りの色は1つあると“きちんと感”が出て、便利だなぁと思っていて、
昔お世話になっていた高橋恵美子先生の手縫い本を読みながら、縫っています。
画像は丁度、お腹に当たる辺りです。
半円形を描いているのですね( *´艸`)
昔から私には「話してみなさいよ」とか「悩み聞いてあげるわ」という大人の女性が後を経ちません。
しかし、最近はそれを諦めています。
「父から首を絞められました。毎日です」
「外に閉め出されました。毎日です」
「お前を育てるのは失敗したと言われました。まだ私が10歳の時です」
などなど、話しても「お父様にも事情があったのよ〜」と返ってきたりして、「事情があれば、我が子の首を絞めても良いものですか?」「事情があれば育てるの失敗とかわざわざ伝えても良いのでしょうか?」と返してきました。
そして、私は父の赤ちゃんの頃の写真を見て、まだ無垢だった頃の父を知りました。
先の彼女にそう伝えたら「そうでしょ!もっと早く写真見れば良かったのに!お父様悪くないでしょ!」と。
…私の悩みを聴く、とわざわざ出てくる人はそうした人ばかりです。この人と会うのは止めました。
何故、親の暴力や暴言を、それより遥かに人生経験の浅い子どもが許さなければならないのだろう、と思っています。
ここ数日、その事をずっと考えています。
そして思いました。
人は、誰かがこっ酷い虐待をされたとか、しぬ寸前まで責められたとか、そんな話を聴かされて、
それに共感出来るだけの、優しさ(という名の強さ)を持っていないし、それを受け止めるだけの人生経験も持ち合わせていない、
案外とそれが普通の人なのかもしれないな、と思いました。
私は父が亡くなってそろそろ20年が経過しますが「生きていてくれたらなぁ」とか「いまも生きていたらこんな話をしただろうなぁ」とか、全然出てきません。
父が亡くなったと聞いて、安堵した気持ちを忘れられません。
反面、祖父母は生きていて欲しかったな、と今も思います。
人は心に良心があると、親世代であれば自分を責められたように感じるかもしれませんし、子ども世代であれば私が親を理解していないように映るかも、しれません。
だから、もう誰かに解って貰うのは諦めよう、と思いました。
皆さん、いい人過ぎて、私の父や家族のような極悪非道を理解出来ない、というか、共感するだけでつらい、と思います。
だから、諦めています。
いつも来て下さる方々、拍手を下さる方々、ありがとうございます(*´∀人)
ではまた(≧▽≦)ノ
話題:縫い物
人は人とは解り合えず、理解しようという心を閉ざしている人とは尚更だと思います。
お釈迦様の諦念というのを持っていたようです。
マリア様もでしょうか。
諦めたら、もう誰にも相談しなくはなりましたよ(*≧ω≦)
聞いてあげる星人も出てこなくなりました。