小学一年生の図工

思い出話。

小学一年生のころの担任は、女性で、当時は知らなかったし気にもしなかったが、後から母に聞いた話だと、新任の先生だったらしい。
新任の女性の先生となると優しそうなイメージがあるが、かなり厳しい先生だった。小学校って厳しいところなんだなと思った。でも一年生の俺たちは、“覚悟”をキメてやって来てるわけだから、初めての担任がそんなに厳しくても「これが小学校の普通なんだ!」と思ったからつらくはなかった。

給食は残すことが許されなかった。苦手なものがあり、どうしても食べられなくても、給食時間が終わっても、昼休みになっても、5時間目の授業が始まっても、掃除の時間になっても、放課後になっても、食べきるまで絶対に食器を下げさせてもらえなかった。たびたびその罰に涙したが、それもまだ「小学生ってこうなんだ、頑張らなきゃいけないな」という気持ちがあった。

しかし、完全に心折れてしまった出来事がある。
夏休み前後くらいの、図工の授業だった。
校内にあるものや風景の絵を描こうという授業だった。それまでの図工の授業は何してたんだか思い出せないが、絵の具を使って画用紙に絵を描くことは、小学校に入ってからはこの授業が初めてだった。絵の具や画用紙を使ったお絵描きは幼稚園でもやっていたので初めてではないし、僕は幼稚園児のころはお絵描きが好きだったので嬉しかった。
幼稚園のころは、友達にも親にも絵が上手だねと褒められてきた。園で描いてきた、友達と山みたいなところで直立で立って手を真横に広げている絵を、父は額縁に入れて玄関に飾った。僕はそれが誇らしいことだと思った。

話を戻すと僕はそれほど絵が好きだったし得意だと思っていたので、嬉々としてウサギ小屋のうさぎをスケッチしてきた。

漫画みたいなニコニコ顔ではないが、頭部と体の境界にはハッキリと線が引かれ、脚のあたりも、幼児が描いた動物らしく4つの丸い突起物がモコモコついてる感じの体に描いた。皆さんが思い浮かべる「幼児が描いたうさぎの絵(体つき)」を想像していただけたらそんな感じの絵だったのを、僕の担任は許さなかった。

かなり怖い声で、「ほんとにウサギこんなだった?!」と聞いた。僕は戸惑って、「こんなだった…」と言ったが、「違うでしょ!よく見てきなさい!」とまた外に出された。
何度も下書きのスケッチを書き直しされて、消しゴムのかけすぎでところどころ画用紙が剥げるくらいだった。
他の子はこんなに怒られていないし、やり直しもさせられていない。今思い返しても、他の子の絵もゴリゴリの「幼児が描いた絵」だったのに、なぜ僕だけこんなに突っかかられたのかわからない。
僕はいよいよ号泣して、先生に、本物のうさぎと自分の描いたうさぎの何が違うのかわからないと言った。
そしたらようやく、「本当のうさぎの頭と体はこんなふうに分かれていない、頭部と体はなだらかにつながっている、脚もこんなモコモコではない、口はωじゃない」のようなアドバイスをいただき、先生が、僕にえんぴつを握らせたまま上から手を取ってうさぎの絵を描いた。
こんなの、僕が描いたとは言えない絵だが、確かに「本物のうさぎ」みたいになったので、僕は先生に色塗りの許可をもらえた。

色塗りの時も悶着があった。
僕はうさぎをピンク色に塗ってしまったので、また「本当のうさぎはピンクじゃないでしょ!何色なの!?見てきなさい!」と怒られた。
「白です」と泣いた。「白だけど、白は画用紙の色だから、色塗りができない」みたいなことを言った。そしたら「白い絵の具がなんのためにあるのか、白は白で塗りなさい」とまた怒られた。

水彩絵の具だったが、水を極限に少なくしたらピンク色の上に白色が乗った。下のピンクが透けて、めちゃくちゃ良い感じになった。白はかなり厚く塗らないとピンクの上に乗らなかったので、白の絵の具はこの時に使い切った。
地面は最初黄緑色に塗った。黄緑色はきれいだし、野原にいる感じの方が可愛いと思ったからだが、また先生に、学校のうさぎは野に放してないと怒られ、黄緑の上からウサギ小屋の茶色に塗った。下の黄緑が透けてこれも良い感じにはなった。

この授業のあと、先生はみんなの絵を廊下の壁に貼った。僕の絵がダントツに上手かった。他の子の絵はいかにも幼児が描いたような絵だったが、僕の絵だけ子供が描いた絵みたいじゃなかった。うさぎの形は先生が描いたようなもんだから当然だし、色味も、他の子はカラフルだったのに僕の絵だけ、白と茶色のコントラスト!という感じだったので、逆に目立った。

僕の絵はなんかのコンテストに出された。なんかの賞を取ったが、いちばん良い賞というわけではなかった。佳作程度だったと思う。
賞をとった子供たちの作品は、絵の隅にリボンを貼られて、また別のろうかの壁に貼られた。それは授業参観日まで貼られていて、両親が多分見て、たぶん褒めたと思うけど、僕は、父が玄関に僕の絵を飾った時のような嬉しさを全く感じられなかった。

父は僕の絵や賞状や通知表をケースに入れてずっととっておくタイプの人だったが、このうさぎの絵は、学校から持ち帰った日に捨ててほしいと頼んですぐに捨てた。

あの絵のときからたぶん、憂鬱の陰が落ちている。
しかし僕の家庭環境もちょっと特殊だったし、物心ついた時からセクシャルマイノリティだったので、遅かれ早かれ何かで憂鬱の陰には追いつかれていたと思う。陰気になったのを当時の担任のせいにはしない。
先生元気かなと思う。
新任なのに、初めての担任で、しかも一年生の受け持ちは大変だっただろう。ちゃんとしなきゃ!と思って、指導に力が入ったかもしれない。でも、年々丸くなっていったかな、教師という仕事をずっと続けているかな、と思う。僕は当時の先生の年齢を追い越した今でも、本物のうさぎと自分が最初に描いたうさぎの絵のどこが違うのか、あまりはっきりとは理解出来ていない。

パーソナリティ

横文字はよく分からないけど、なんかたぶん、パーソナリティ的によくないという遊びをしている。
パーソナリティがなんなのかよくわからないけど、たぶんパーソナリティ的にあまりよくない。

なりきりアカウントとかいうやつだ。酔ってる時には余計にやらないほうがいいかもしれない。
でもなんか、アニメキャラクターとかでそういうのやってる人多いけど、どうやって自我たもってるんだろ、僕はちょっとだめそうです。

僕はアニメキャラクターじゃなくて35歳子持ちサラリーマンおじさんという微妙に現実に沿ってるような沿ってないような設定でやってるから余計に自我が混乱するのかもわからないが、元々どこかしこで似たようなことやってるから今更かもしれない。でも誰もが皆ある程度やってるかもしれない、ペルソナの付け替え。それでしかないかもしれない。

キツいよー
三十路になってやるもんじゃないだろー
でもなんかわからないけど、でも僕、なんか、まだ10代くらいなような気もする。ずっと浅瀬でパチャパチャやってたい。
そうはいかないのか。わからないけど。わからない……なにもわからないな。本当に35歳子持ちおじさんかも。どうかな?分からないけど。10代ではないかも。10代ではないのにずっとこんなメンタルなの?早く殺しとけば良かったのにね。わからないけど、もうここまできたら手遅れでしょ。生きても死んでも意味ないよ。ここまで来たら、生きても死んでも意味ないから、早くここまで来い。みんな。そう。

意味がわからなくなったらこうしていたらいいね

ほんとのはなし

今でも思い出す謎のはなし。

中学三年生のころ、国語の担当の先生に校内放送で呼び出された。クラスメイトの女子と一緒に。その女子はいわゆる一軍の陽キャで、嫌な感じの子ではないが性格が違いすぎるのでほとんど会話をしたことがなかった。その子をAさんとする。

校内放送で呼ばれるのは珍しかったが、僕とAさんはあまりに接点が無さすぎたので、なんか頼まれ事があってランダムで僕ら2人が選ばれたんだと思った。僕らは特に友達ではないので別々で職員室に行った。
僕が先で、後からAさんが職員室についたんだった気がする。
2人がそろうと、国語の先生はつい先日受けたテストの回答用紙を2枚、僕らの前に広げて置いた。
名前欄には、2枚とも僕の名前が書かれていた。

先生の話だと、テストの丸つけをしていたら僕の答案用紙が2枚あったと。そして、Aさんの答案用紙が無いとのこと。
不思議なことに、2枚とも、出席番号も氏名も名前の漢字も間違いなく僕のものだった。でも筆跡が全然違う。自分の字は自分でわかるというか、内一枚は明らかにギャルっぽい丸文字だった。先生も、「こっちがAさんのものだと思うが、一応2人に確認してほしい」と言った。

僕以上に驚いていたのはAさんで、答案用紙を見た途端、自分の字で僕の名前を書いていることに気づき、「えっ?!えっ?ええっ?!」と叫んでいた。

自分で言うとアレなんですけど、僕は中学生のころは成績が常に学年上位3位以内に入る優秀さだったので、率直に言うと、先生はカンニングを疑ったようだった。当事者2人同時に呼んで率直に言いすぎだろと今では思う。時代かな。今ではそんな対応はしないと思う。
ただ、僕とAさんの席はそこそこ離れていたし、回答の内容も違っていて、僕もAさんもいつも通りの感じの点数になったらしい。点数が違うので、字面や点数から憶測しないで事実確認のために僕らを呼んだとのこと。

この件に関しては僕は何もしていない。名前を間違えて書いたのはAさんだけだ。僕は何を答えることも、どうすることもできなかった。Aさんは終始隣で、「え、、、えー?」と言っていた。
カンニングでもなく、Aさんの反応から悪意があったわけではないともわかった先生は、急に面白がって「不思議ねぇえ、Aさんあなたなんでやしちさんの名前書いたの」と笑った。Aさんは「え、あたしにもわかりません…」と言った。
Aさんは先生の指示の元、その場で名前を書き直し、僕とAさんは教室に帰ってもよいということになった。

クラスメイトだから同じ教室に戻るのに、道中、僕らは特にこの件に関して何も言わなかった。何も会話せず、歩幅も特に合わせず、バラバラに戻った。

教室に戻ったら、Aさんは陽キャグループの子達にこの件を笑って話すだろうと思った。「こんなことがあってさー」とか言って、仲間内で大笑いして、もしかしたらこっちにも話を振られるかもしれない。嫌だなあと思った。

嫌だなあと思っていたが、Aさんは何ともない顔をしてスンと席に戻って、陽キャグループの子たちもわざわざ「何の用だったの?」とかも聞かなくて、テストの返却の際も、当たり前だけど先生はクラスのみんなの前では「こんなことがあって……」なんて言わなくて、
何事もなく、何事もなく、この件は終わった。

今でもこのことを思い出すのは僕だけなんだろうか。僕の名前を書いた張本人のAさんは、思い出す?何百人もの生徒を見てきた国語の先生は、こんなようなこと他にもあったのかな?

僕はなんだか、これは特別なことだったような気がして、何度も思い出している。

じょうほう

情報を、得るということ。

Twitterを辞めた。
イーロンが買う前からも、もう何千回何万回も「やめるぞ!!!!」て思っていたんだけど、いよいよ踏ん切りがついた。
争いの絶えない地になってしまったと思った。いつも誰かが誰かを叩き、僕がまだ学生の頃くらいまでは、学校だけじゃなくてインターネット上でも「インターネットの画面の向こうには生きたひとがいるんですよ」みたいなことよく言われていたけど、最近はその言葉も聞かないなと思った。学校では今もそう教わるかもしれないけど、僕たちにはインターネットに人が溢れていることが当たり前になりすぎたなと思う。

僕はそんなに善人ではないけれど、それにしても、人が人を裁こうとしすぎだと辟易した。相手が芸能人だからとか政治家だからとか、白人だからとかアジア人だからとか、男だからとか女だからとか、一般人だからとか関係ない。なんなら叩く対象がTwitterをしていなくても(電車内でどうのこうのだとか、ファミレスでどうのこうのだとか)、人が人を裁こうとする。
僕はそれがちょっと、もう嫌だなあと思った。嫌だなあのゲージがちょっとずつ溜まって、「もう無理だな」のラインに達したのでさよならをした。

SNSくらい、何も言わずにやめろとは思うのだ。もう三十路だし……。「Twitterやめちゃうからね!」といちいち宣言するのは女子中学生とか女子高生みたいだなとは思う(これは差別的発言)。でも15年近くやっていると、「SNSなんか」とも言いきれないのである。Twitterをやめれば長年の関係が切れる人もいるという覚悟を持つ必要があった。環境が腐っていても人との出会いはありがたい、別れはつらい。
書いてて、己が老人臭くなったと思った。みんな行き着く先は同じなのかも。それはそうか。バイバイ。

それはそれとして、もう昨日から完全にブルースカイに移行したんですよ。
そしたら全然人がいなくて。笑っちゃうくらいだった。著名なイラストレーターのイラストにも45いいねくらいしかつかない。万バズなんてとんでもない。
タイムラインはずっと止まっている。止まっていてびっくりしたけど、でもなんか、ちょっと前まではTwitterでも、深夜の2時から5時くらいは全然タイムラインが流れなくって、たまにポツリとフォロイーの誰かが呟いて、「あ、起きてる」と少しほっとしたりした。
今は深夜帯でも「おすすめタイムライン」に投稿時間に関わらず未見のツイートがずっとずっと流れてきて、別に嫌なら読まなければいいんだけど、嫌なら見るなと言われても人間ってそこにあれば見ちゃうじゃないですか。そんで、楽しくなろうが不快になろうが結果別にどっちでもいいんだけど、情報が常に流れてくるってこと自体がそれなりに不快だったのかも。と思うなどした。
ブルースカイ、全然タイムライン流れない。流れなくて、さすがに「おーい!誰かいませんか!」て大声出しちゃいそうになるけど、今は別にそれでもいいかって思ってる。暇になったら泣くかもしれないけど。

3.11の

今日は憂鬱が強いと思った。天気が悪い日が続き、同時にずっと体調も悪いから憂鬱が強くても仕方がないと思った。Twitterのタイムラインは今日も男と女が戦っているし、オスカーで人種差別がというのでアジア人と欧米人も戦っている。それも憂鬱。気が滅入る話題しかないので、憂鬱が強くても仕方がないと思った。

でも、体調不良でも、天気が悪いんでも、Twitterで見る争いでもない原因があった。テレビでも数日前から取り上げていた東北大震災の。今日は3月11日か、と思った。毎年脳裏にチラつく。
津波の映像があって、毎日ずっと地震の話で、楽しい仲間がぽぽぽぽーんしてて、不謹慎厨が湧いたり、自分の無力さを呪ったり、その呪いすらも自己満じゃないかと自分を蔑んだり。東京に修学旅行に行っていた妹と連絡が取れなくなって、仙台出身の大学の同期の子が、教室から出て行ったりして。

毎年思い出しはするが今日は特に、やけになんか色濃く思い出して気分が落ちていた。
6歳になる子供が、Eテレの震災の特番を熱心に見ていた。この子も、その番組に出ている小学生たちも、震災後生まれだ。番組に出ていた小学生の子たちは、震災後生まれだが仙台在住の子。学校の授業で、震災のことを学ばされていた。「学ばされていた」。仕方がないがそう形容するしかない。僕たちも沖縄県民として、小中学生のころは沖縄戦のことを学ばされていた。同じ地域に生まれただけで当事者と言えるのかもわからない中で、当事者意識を持てというような学びを与えられ、「先生が喜びそうな回答」を用意する…………僕らは戦後から何年も離れていたから先生たちも当事者ではなかったのでそれでも良かったかもしれない。仙台の学校の先生たちはきっとまだ当事者だ。震災を知らない小学生たちが、震災を学ばされ、「先生が喜びそうな回答」を提出されるのは、当事者として、教師として、どんな気持ちだろう。もしくは、まだ当事者である大人たちから学ぶ震災を知らない小学生たちの実際の気持ちは、どんなだろう。
少なくとも、沖縄にいる6歳児は、熱心にテレビを見ていた。そして、津波が家に入ってきて家中が浸水して溺れるのが怖いから家の中は怖い、外で暮らしたいと大騒ぎした。何も分かってない。微笑ましい気持ちと、正直、無知への少しの苛立ちがあって、厳しめに考えを改めさせた。無知ながらにも抱いた恐怖心に対する態度じゃなかったと思う。反省している。
当時も今もずっと、あの地から影響のない土地に住んでいて、何をこうもセンチメンタルになることがあるのか。直接被害のあった方々に軽蔑されても仕方ない。

嫌になった。

昔もいまも、あの時の震災は僕の嫌なところを浮き彫りにしてくるようで嫌だ。嫌なのに、勝手に思考に触れてくるからこうやって時々話題に出す。でも本当は話題にしたくない。嫌だから。被災者のひとに、センチメンタルオナニーに震災を使うなと言われても仕方がない。本当に。ごめんなさい。ごめんなさいという気持ちにもなる。昔もいまも。

そして今日みたいな日でも、Twitterで男と女が喧嘩していて、欧米人がアジア人を差別しただとかなんだとかで争っていて、本当に嫌になる。明日はせめて天気が晴れてくれたらいいのに。
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こんにちはお日柄も良く、やしちです。
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