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自分のことがよくわからない。のは、みんな同じなんだろか。
3年ぶりくらいに自転車に乗って、筋肉痛になりそうな予感がする。でも気持ちよかった。
飛び交う解釈が野暮だヤボダといって厭い、ほとんどをなんとなく感じるだけ、なんとなく消費するだけ。
それが完全に悪いとは思わないけど、自分のそれはただ、考えることを最初から放棄しているだけ。
自信が無いからにせよ、歩み寄ろうともしないとも取れるその態度は如何なものか、造り手に対する冒涜的行為なのではないか、とも思う。
それでいて真相や誰かの解釈を見たり訊いたりしてしまうことの方が、よっぽど野暮だといえるのかもしれない。
評論の文を読んで疲れたり憂鬱な気分になるのはこの為なのかもしれないと、音楽雑誌を読みながら考えた。
それでもどこかで全てにおいて傍観者でいたいと思う自分はだからいろいろなものを破綻させてしまうのかもしれない。とまた他人事みたいに考えている。
嫌なところばかりが目に付いてしまう。
何で広がって歩いているのかとか、大声で愚痴やらなにやらの不快な話をしているのかとか、電車内で輪になって話しているのかとか、意地でも降りようとしないのかとか。
それがたとえ身近な人であっても。何でこんなにも周りが見えない大人が多いんだろうと思ってしまって勝手に腹を立てて、一体自分は何様なんだろうと思ってまた腹を立てる。
そうやって、そういうところばかり見てしまう、心の狭い、幼稚な自分が浮き彫りになる。
そうやって、そういう自分が嫌だと言っている自分がさらに嫌になっていく。
とか思ってしまうこと自体が、。
ちゃんと目を向ければ、そんなことばかりでもないはず。
簡単に好き嫌いを決めすぎているのではないかという話を思い出す。
好きになる努力なんて、受容しようという努力なんて、全然できていない。
必ずそうしなければいけないわけではないけれど、それが出来ればきっともっと生きやすくなる。
『百万円と苦虫女』という映画も思い出す。
誰も自分のことを知らない土地に行きたいというのは私を含めたぶん多くの人が思うことで、主人公はそれを実行する。それで確か、自分から逃げているのだと言う。
だけど土地を転々とすればそれだけいろいろな人に関わらざるを得ないわけで、そうなるとその分、嫌でも自分をみることにもなってしまうと思う。逃れられるのは他人からだけで、自分からは逃げるどころか逆に、追いかけてしまっているような気がする。でも主人公の言うそれもわからなくもない。
結局、当たり前だけれど自分から離れることは出来なくて、こんなことを考えてしまっている時点でどうあがいても無駄。
よくわからなくなってきた。