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フォアグラ弁当のことで考えた

※わりとまじめな話。


昨日の夜ツイッターで「ローソンで販売予定だったフォアグラ弁当が反対団体の意見書を受けて中止になった」というニュースを見てから、ずっとフォアグラ…というか「動物愛護」と「食肉」という対立機軸論について考えていた。
わたし、実はこういうことを考えるの好きなのです!
まだ社会的に「答えの出ていない問題」だし、答えが出ていない問題の多くには、人によってスタンスを異にする必然があることが多いからです。
同じ題材を突きつけられて、人によってどう考えるか違う、ってこと以上に面白いことはないと個人的に思うのです。
食べることも大好きなので、答えの出ていない「食べ物問題」ときたら考えざるを得ない!
せっかくグルグル考えたので、わたしがどんな道筋で考えたのかをここでちょっと発表会してみます。
これを読んでくださる方にもちょっとでいいので、考えていただければ。そしてその材料に少しでもなれば幸いです。

まず、「動物の血肉を食べる」ということに関わる問題で重要になるのは問題提起している人の立場だと思います。
ここがいちばんの誤解のもとで、事実として知っておいてほしいことなのですが、一口に食べ物を「これを食べるのをやめよう!」って言ってる人の中にもいろんな人がいます。
すごく大雑把にざっくり分けてこんな感じ。

1.「肉」を食べること自体が駄目(完全菜食主義者さん)
2.野生の動物の肉を食べるのは駄目(家畜の肉はあり)
3.特定の動物の肉は駄目(イルカ、クジラ系を主張する人は多いですね)
4.野生の動物とか家畜とか分け目はつけないけど、酷い育て方して食べるのはやめよう

この「大まかな考え」のいくつかを複合している人もいます。
例えば2と4とか。野生の動物は駄目かつ酷い育て方反対。
3と4も多いですね。酷い育て方も駄目だし、クジラも駄目とか。

完全菜食主義は、とてもシンプルであまり誤解がない考え方なのでサラッといきますが、自分が生きるために生きてるものを殺すのはナシ、って考え方。
とてもストイックで、肉の美味しさを知っている人間としてはガンジーばりのまぶしさを感じます。
こうなれる人はかなりの聖人感が。
ツイッターに出ている意見をザっと見ると、「フォアグラを残酷とかいうならさ、お前菜食主義になれよ!」っていうのがとても多くて、わたしはこれがいちばんの違和感でした。
でも、さっきも言ったように「食べ物問題に何かしら反対意見を出してる人」がみんな菜食主義の立場をとっているわけじゃない。
だから、フォアグラが嫌だと言う人にお前は肉食うなと言うってことは、「ワンピース」が嫌いといった人に漫画全般読むなと言っているようなものです。「ワンピース」が嫌いだからって漫画全部嫌いとは限らないのにそりゃ殺生な、です(わたし、ワンピースにはなんのうらみもないよ!!)

…変なたとえ失礼しました。
「食べ物にケチつける奴の中にもさ、いろんな立場があるのはわかったけど、なんでそういう立場の違いってでてくるわけ?」という疑問がある方向けに、次はその立場の違いが生まれるポイントをざっくり語ってみます。

「食べるために動物をとる」って行為には大まかにわけて
・野生の動物をとってたべる
・自分で育てた動物をとってたべる
という二つの方法があります。
前者はいわゆる「漁」ってやつ。
海にいる魚をとって食べる。
「野生動物をとって食べるのはあり?なし?」
この設問を仮に「あり」にしたとしても、次に「何を、どの種類を食べる?」ということに関する問題がここには生まれます。
今回は深く語らないけど、このわけ目でもいろいろ問題があるわけです。

で、今から考える「フォアグラ」は野生にいるのをとってるんじゃなくて、食べるために育ててる鴨やらガチョウやらの臓器を加工したものです。
ので、「食べるために育てた動物」に関わる問題です。
「食べるために育てるのはあり? なし?」
ありにしたとしても、ここではその育て方どうなの?という考えの人が生まれます。
それが多くのフォアグラ反対派さんたちです。
こうして分けて考えていくと、フォアグラ反対派の人は「食べるために育てる」=「養殖」すべてに反対してるひとばかりではないっていうのは明らかですよね。
もしそういう人がいたとしても、それはいくつかの考え方を複合している人だということです。
その人が菜食主義のフォアグラ反対派だということです。
でも、誤解してはならないのは、「食べるために育てるのはいいけど、その育て方があまりにヒドイものはやめようよ」っていう人がフォアグラ反対派の多くだということ。そこを誤解している人の多くが「フォアグラ駄目っていうなら肉食うな」と言っています。
でも、それは違います。
いちばん最初に言った動物の血肉を食べることに対する考え方のタイプ4にあたる考えの人が多くを占めています。
わかりやすくまとめると「動物を食べるのはあり。食べるために育てるのはあり。でも、その育て方がひどすぎるのはやめようよ」
これが多くのフォアグラ反対派さんの立場です。
どうせ食うんだから何を甘いことを…と思う人もいそうですが、人間の感情として食べるまでの過程、生育の段階で動物をあまりに痛めつけるのはどうなの、って気持ちになっても不思議はないんじゃないかな、っていうのがわたしの個人的な考え。気持ちわからんことない。
特にフォアグラは病気にさせられてる、っていうところに嫌悪感が強い人が多いみたいです。なるほどなぁ。
このような考え方…つまり「動物から命をいただくにしても、その命をいただく過程をより苦痛の少ない健やかなものにしよう」という考え方を「アニマルウェルフェア」という概念として外国では定義しているそう。
日本ではツイッターでの極論の流布からも察せられるように、全然定着してませんが、動物先進国と呼ばれているスウェーデンやドイツではこの「アニマルアニマルウェルフェア」の考えに則って、家畜のニワトリや豚にも健やかな成育が望めるだけのスペースを確保して育てることが義務付けられています。
こういう考えの根付きつつある国々では、フォアグラは特に酷いものだとして反対されています。
フォアグラの作り方は結構ショッキングなのでわたしがここで説明するのはやめておきますが、フォアグラの作り方を知らない方で覚悟のある方は動画サイトに解説動画がたくさんあがっているので、ひとつでいいのでご覧になっていただければ。
「残酷」と言われるだけの理由がわかると思います。

長々書きましたが、個人的にこういう問題って結局は「事実をみんなが知った上で、どこで線を引くか」を決めるしかないんだろうな、と思っています。
哺乳類で線を引く、可愛いかそうでないかで線を引く…考え方の違う人のいろんな「線」が食肉の問題にはあるけど、それをひとつひとつ理解して、自分は、自分の所属するコミュニティはどこに線を引くかを国単位、コミュニティ単位で考えるしかない。
さらにいえば、線の場所はその時代に生きる人が常に考えて線を引く場所を微妙に変えていく必要もあるんじゃないかと思う次第です。
他の国との兼ね合いや、時代の変化も線の位置に影響するはずだと思うので。

個人的な意見を書かせていただきますが、せっかくメディアにとりあげられたのに、何も調べず、表面の情報だけなぞっただけの知識・感覚だけで「なに甘ったれたこと言ってんだよwww所詮この世は弱肉強食。残酷とか甘え」って断じてしまうのはせっかく話題にのぼった意味がないと思います。ニュースは考えるキッカケにしてこそ価値があります。
反対派の人の声にも耳を傾けた上で、ひとりひとり自分はフォアグラに対してどう考えるか、是非考えてみてください。
「正解」はない問題ではありますが、わたしたちの暮らすこの日本という国単位で、フォアグラ…ひいては「食肉」にまつわる問題をどう考えるか。フォアグラだけじゃなくてクジラやイルカのことが諸外国との軋轢を生んでいる今だからこそ、よくよく考えて「日本なりの答え」を出す時期はきっときているんだと思います。
正解はなくても答えなきゃいけないときって、あるよね。
食べることってなんでこんなにむつかしくて、大切なんだろう。
昨日はそんなことを考えました。

私が純閲だった頃 (突発こらむ)


突発思い出こらむ

「私が純閲だった頃」 ※くらめ。欝気味中二の気分反映されてます。



今ではこのブログと小説を書いているサイトとツイッタと…といろいろとオンで活動していて、曲がりなりにも「管理人」という立場を演じて数年経った私ですが、そんな私にもまだうら若き頃があり その時は携帯はパケ放題ですらなく、小説を自分が書けるとはつゆとも思っておらず、趣味で人様の書いた二次創作やらを読んでいた、そんな時代がありました。


当時の私はとある三次元バンドに熱を燃やしており、そのバンド全員をHOMO化し、バンド内カプを作り上げた小説に大層ご執心で、その手の小説を扱ったサイトをとにかくクルーズしていた。


そんなとき出会った神サイトがAさん(もちろん仮名)のサイト。


Aさんは私より少しばかり年上で、穏やかな人柄(日記等から察するに)


ジャンル内でも中堅といった立場で、管理人同士の友達も多く、お互いにコメントしあい、私信を飛ばしあい、バトンを回しあう友人が私の確認できるだけでも5〜6人はいた。


とにかく「ネト充」という言葉がピッタリな方だった(そんな言葉は当時なかったけどね!)


私はロム心に彼女に憧れた。


作品が素敵で、穏やかな人柄。


皆に好かれていて……とにかく、ネットで見る彼女はいつも楽しげだった。


私は彼女の作品が好きなことがが高じて、いつの間にか彼女自身を羨ましいと思うようになっていた。


そして、できるなら 彼女の記憶の端っこに 私も入りたいな と思っていた。


ファンのひとりとしてでいいから。



そんなある日、彼女が某バンドナマモノ同人小説の新作をアップした。


その小説はバンドのボーカルで女王様気質なYさんが花魁、ベーシストのK氏がY氏の客、というパラレルシチュエーションの連作の一作目。


記憶が定かでないのでハッキリとどんな作品だったのか言えないのですが、私はとにかく感動し 携帯を前に鼻息を荒くした。


この気持ちをどうにかして彼女に伝えたい…!


そして私は決意した。


彼女に、感想を、送る。


いつも見ていたことを、大好きなあの作品のことを、新作の感想を彼女に伝えるんだ!


私は三日三晩考えて彼女に送る感想の文面を考えた。


きちんと敬語を使い、絵文字は使わない。


彼女はほんのちょっぴりの顔文字を穏やかに使う人だったので 最後の「これからも応援しています」のあとに(^-^)の顔文字だけ使った。


ちょっとシンプル気味かもしれないけど、初めての感想だし なんやかんや言って結構長文になってしまったので顔文字はあまり使わないほうが気持ちが伝わるだろう。


私は震える指でメールフォームからメールを送った。


時間は夜の八時。


このくらいがベストだとマナーサイトなるもので読んだので私は20時00分に送信した(馬鹿正直だったんです)


私はやりきった達成感と膨らむ期待で胸がいっぱいだった。


彼女はサイト内に「レスページ」なるものを作って拍手やメールフォームからのメッセージに返信をしていた。


きっと私のメッセージにも彼女は返事を書いてくれる。


私はそう思った。


しかし、私がメールを送ってから3日が経っても私のメールに彼女が返信をくれることはなかった。


彼女は相変わらず日記を書き、サイト管理人同士でどこで行われているのかはわからないがチャットを楽しんでいた。


作品は更新されてはいなかったけど、そんなに速筆な方ではなかったのでそれは多分 普通のことだ。


私は何か失礼なことをしただろうか、と悩んだ。


そして彼女がメッセージにレスしているページを隅から隅まで読んだ。


…やっと気づく。


彼女がメッセージに返事を書いている人たちは皆 日記を書いているか小説を書いているかメルマガを発行してる人だった。


彼女は非管理人の一般読者が嫌いなのか、一般読者は空気と思っているのか…その辺りは定かではないが とにかく「サイトを持っていない人間には返信する価値もない」と思っていることに私はようやく気づいた。


考えてみればおかしい。


あんな素敵な作品を書く方なのに返信ページはみんな彼女の友達、知り合いの管理人で埋まっているなんて。


私の他にも非管理人の誰かからなんらかのメッセージがあったはずだ。


それに対する返信はどこを探しても見つからないなんて、おかしい。


それから一ヶ月くらい私は彼女のサイトに行かなかった。


とにかくショックだったのだ。


彼女のサイトどころか、あんなに好きだった某バンドのナマモノサイトはどれも見る気がしなくなってしまっていた。


そんな風に一ヶ月が経った頃に私は再び、一縷の望みを託すようにレスページを開いた。


けれど、どこにも私への返信はなかった。


最新の返信は前日に拍手から送られたらしいものだった。


あんなに彼女を素敵な人だと思っていた自分が馬鹿みたいで、とにかくくやしかった。


自分のサイトを持っている管理人同士とサイトを持っていないけどサイトめぐりが好きで、ロムっている人とどうしてそんな差別をするんだろう 


私はサイトを持っていないけど、彼女の作品が好きで応援しているという気持ちには管理人仲間の人と変わりないと思う。


今思えば 彼女のサイトは私なんかの感想などなくても十分盛り上がってにぎわっていたから 私なんかの感想はいらなかったんだろうけど、いらないならなんで拍手を置いているのか。メールフォームを設置しているのか。


彼女と管理人仲間さんたちはお互い本アドを知っているみたいだし、感想はいらないならそんなもの置かなくていいのに。


いや、置くなとは言わないけどせめて書いておくべきだと思う。


「サイト管理人でない方からのメッセージには返信しません」と。


…まーなにがいいたいかと言うと、私はとにかく傷ついた。


えーもう、サイト管理人なんて嫌いだぁぁぁ!と夕日に背を向け走り出したいくらいに傷ついた。



もうサイトという存在自体苦手になるくらいのトラウマを受けたのですが、まーなんで人生そうなるのかよくわかりませんが、性懲りもなく私はネットの世界に舞い戻ったわけです。


今度は管理人として。


そんな今、思うことがあります。


「サイトを持っていない、純粋な閲覧者さんを大切にしよう」


サイトをやっていると、明らかに「自分のサイトの宣伝目当ての擦り寄り」をする管理人というのが一度は現れて感想と混ぜ込んだ自サイト宣伝をかましてきます。


もちろん心の中でイラついたりしますが、でもそういうまだ青い人がいることを私は仕方ないと思う。


誰でも皆最初は初心者だし。


初心者は手っ取り早くちやほやされたいと思ってしまうもの。


感想を送ると義理でもなんでも感想返しといえばいいんでしょうか?


感想を書き返してくれるものですから、宣伝混じりの感想を投下したくなる気持ち わからなくはない(それを自分がする、しないは別のお話ですけどね) 


なにがいいたいのかと言うと、管理人同士の交流にはもちろん素敵な「お互いがお互いの書いたものが好きでコメントしあう」という理想的な関係図がある一方で、少々歪んだ…「自分のところにコメントが欲しいがゆえの感想コメント」というものも存在する。


でも、サイトを持たない純粋な閲覧者さんはそういうことはない。


お互いの書いたものにコメントしあうことはできなくて、閲覧者さん側が感想をくれる→返信というかたちでしか交流ができなくて 相手がどんな日常を送っているのかとか、どうしても不透明な部分はあるけれど、だからこそ自分の書いたものが好き、と言ってくれる相手の気持ちに他意がないことがわかる。


このお世辞あふれるネットの世界で、それはかけがえのないものだと思うのだ。



**********************



私がまだ純閲覧者だった頃、私は「純閲覧者からの言葉なんて管理人様方から見たらクソ嬉しくもない戯言だったのだわ」と絶望した。


でも、今はそうは思わない。


純閲覧者さんからの一言こそ管理人を奮い立たせてくれる金言です。


管理人のお友達と同じくらい、もしかしたらそれ以上に、純閲覧者さんの一生懸命な感想は管理人を支えてくれます。


少なくとも、私はそう思う。


私が閲覧者だった頃。


憧れていた管理人さんに感想を送ったら私にだけ返事が返ってこない、というトラウマをうえつけられた。


でも、今はそれも今の自分を作る血肉になってくれているように思います。


人のフリ見て我がふり直せ。


心を広く持って、くだらない悪意や虚栄心を持った初心者の愚行は流すスキルを。


同時に、本当に嬉しい言葉をくれる人には感謝と愛を。


私がここ数年の管理人ライフで学んだことはこんな感じ。


100パーセント実践できているとは言えませんが、少なくともこうあれるように、という気持ちはある。





ネットの世界を冷たくするのも温かくするのも自分次第。


少なくとも、私に話しかけてくれた方に「ネットは冷たい」なんてトラウマを植えつけないようにしたいな、と思う。


まとめると、純閲さん、らぶ!ってことです笑










条例について考えてみた



殆どの方がご存知かと思いますが、例の条例…東京都青少年健全育成条例がついに可決してしまいました。


ご存知ない方は毎日新聞のニュースを引用してみたので少し読んでみていただけるといいかなと思います。



****引用*****

過激な性的描写がある漫画の販売規制を強化する東京都青少年健全育成条例の改正案は、15日の都議会本会議で、民主、自民、公明3会派の賛成多数により可決、成立した。「作者が表現した芸術性、社会性などを酌み取り、慎重な運用を」との付帯決議で都に配慮を求めた。共産と生活者ネットワークの両会派は反対した。漫画家や出版業界は「表現の自由を侵害する」と反発を強めており、議論は続きそうだ。

 改正条例は、業界に求める自主規制は来年4月1日から、18歳未満への販売を禁止する不健全図書指定は同7月1日以降の発行分から適用される。従来は、性交シーンや性器を露骨に描き、強い性的興奮を与える漫画が、成人マーク(18歳以上対象)や不健全指定の対象だった。

 改正により、強姦(ごうかん)など刑罰法規に触れる性的な行為を「不当に賛美または誇張」した漫画が追加される。

 石原慎太郎知事は本会議終了後、報道陣に「日本人の良識だ。子供にあんなものを見せられるのか」と述べ、規制強化の必要性を強調した。


****引用ここまで****


まず、都知事の言葉は本当にショックでした。

あの人は一応小説を書かれる方だったはず。

表現をする人間であるのに、どうしてそういう考えを持ってしまうに至ったのか…理解に苦しんだ、というのが今回の一連の動きを見ていた私の正直な感想です。

表現にはいろんなものがあります。

くだらないもの、間違ったもの、極端なもの、特殊なもの。

でもそれらはあくまでフィクション。作り事です。

規制対象に「強姦」が加えられたそうですが、犯罪行為を描いた作品であっても、それはあくまでフィクションの中の出来事。

それを見て、「強姦してみたい」と思うような子供を育てているなら、それは作品でなくて子供がおかしい。

犯罪行為を描いた作品が人の心に悪影響を与える、ということがこの条例の大前提らしいですが、その根拠はどこにあるのでしょう?

私は大学でそういうことを研究していて、様々な論文を読んだのですが それらの論文が主張する結論をまとめると、「むしろ社会的に悪とされる表現や行為を描いたフィクションを見ることを抑圧する環境が社会悪への異常な執着・憧れ・誤った考えを生み、偏った考えを助長させる」ということでした。

つまり、「これは見ちゃいけません!」と蓋をすることが、むしろ子供にとって有害なのです。

私の個人的な意見で恐縮ですが、子供を正しい道に導きたいと考えるならば、作品について親が子供と一緒に考えることが一番の早道ではないかと私は考えます。

私は自分の母と漫画や小説、ドラマなどについてたくさんのことを語りあって育ちました。

人を好きになるということ、生きているということ 

表現の中の、フィクションの人物を通していろんな人生を垣間見る。

母は幾度となくフィクションの人々の人生について、自分なりの考えを語ってきかせてくれました。

私はそのときに母が言った言葉のひとつひとつをよく覚えています。

書かれていることを鵜呑みにする、正しいと思い込むのではなくて、それらを「見て、考える。判断する。自分の中の真実を探る」

それが創作に触れる上で一番大切なことだと、母の言葉を聞きながら自然と知りました。

今の時代は情報に溢れています。

沢山あふれて、もはや飽和状態です。

だからこそ、子供だからという理由で目隠しをすることがとても危険だと思うのです。

18歳になった瞬間、極端な情報を判断できない子供のまま「大人」にされた人間が溢れる情報に触れるようになる方が、子供が残酷なものを見ることよりよっぽど危険です。

18歳はもう大人ですから、誰も情報の扱い方を教えてくれません。

子供に見せたくない、なんていうのは大人のエゴです。

子供をまっさらな人間にして、自己満足したいだけです。

子供に天使でいて欲しい大人の勝手な押し付けです。

でも、子供はいつか大人になります。

そのための準備を、少しずつしなければいけません。

大人になるということは、いろんなことを知ることです。

知った上で、判断することです。

人の意見を聞き、自分の意見を持つことです。

大人が「これは良作」と思うものだけ子供に見せるのでは、子供達はものごとを自分で判断できない人間になってしまいます。

当たり前ですよね。「いいもの」しか見たことがないのに、どうして悪いものを判断できるんでしょう。

いいものと悪いもの、どちらも見たことがあるから判断できるんです。

美味しいものを知らない人は不味いものでも不味いと思わない、というのと一緒です。

食べたことのないものの味を知ることは出来ません。

子供は大人が思うより、ずっと賢い存在です。

守ってやる、なんてエゴです。

子供とひとりの人間として向き合うことが子供を育てる上で一番大切なことなのではないでしょうか。

今の大人は、自分の底の浅さを隠すために子供を貶めているように私には映ります。

子供に、自分の馬鹿さ加減を指摘されるのが怖いのです。

子供の目は、とても真摯でときに残酷です。

子供の親でいたいのなら、彼らに笑われないような人間でいる必要があります。

東京都青少年健全育成条例

そんなもので子供たちを守ろう、なんて思っているようでは子供のほうに笑われてしまうんじゃないでしょうか。



9歳の子が思う「健全育成条例」とても素直で、核心をついた意見ですのでよろしければ↓

togetter.com



この条例を作ったひと、賛成したひとには 健全に子供を育てるということについて、今一度考えて欲しいと思います。

お星さまにお願い!



エムブロさん公式の話題に「お星さまにお願い」という七夕企画が立ち上げられたみたいなので、私も便乗(笑)



もうすぐ七夕なんですねー


私も小さい時には短冊に願いを書いたりしましたv


笹の葉〜♪の歌も好きです。


綺麗な歌だなぁ、といつも思います。童謡って素朴だけど優しい響きがあって、癒されますよね。



まぁ、それはそうと七夕といえば願いごと。



小さい頃は「アイスクリーム屋さんになりたい」とか書いた覚えがありますが、今私が願いを書くとしたら「無病息災、家内安全」(笑)


歳をとるごとに願いがなくなっていくなぁ。


お金は欲しいけど、そういう願いを七夕にしてもなぁ、と思うと…。


夢がいっぱいあった小さな頃が懐かしい、としんみりしてしまった夕方でした。

蒼きサムライたち



今までなにも書いたことがなかったのですが、ずっとワールドカップを応援していました。


どんな逆境でも、ただ前だけを見て走り続けた今回の日本代表が大好きです。


私がまともに観戦しているワールドカップは3大会くらいしかありませんが、今までで一番好きな代表チームになりました。


普段は野球派の私も眠気を我慢して応援したくなったのは、今回の代表メンバーだったから。


岡田監督並びに、選手の皆さん、ワールドカップに関わった方々、本当にお疲れ様でした!


素晴らしい試合をありがとうございました。



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