太宰府水みくじ。

近況としては、7月半ばから新しい仕事に就きました。
何分今までとは分野が違う…いやいつも違うところに飛び込みまくってますが、勉強と経験が必要なところなのでしばらくは知識とのぶつかり合いです。知ろうと思ったことだったので大変なところもあるのですが、今年は太宰府の神の道しるべによると『学問学ぶべし』とのことなので、そういう時期なのだろうと思う方向です。
新しいことを知ることは好きなので、あとはどう落とし込みができるかどうか。そんな感じでこの一か月バタバタと過ごしていました。なによりこの一か月唐突に弁当作り初めて、今のところ毎日続いているのも自分では不思議です。スイッチが入ったように「やってみるか」って気持ちになって今に至りますが、不思議と流れが自分の中で出来てきているように思えます。今のところは。
今年の3月に前職任期満了をし、失業保険もすぐにもらえたので、併せてふわふわと仕事探しながら、何がいいかな〜と、人の少ない夕暮れの太宰府に散歩に赴いていました。4月〜7月は毎週ってくらい天満宮にふらふら行っていました。何か考えごとの時は仏神に行き着くところが習性なんだろうとな〜と感じつつ。願い事よりは「ちょっとお話聞いて」って感じでご挨拶してます。
ね。太宰府。ことに最近情報の良く入ってきた『呪術廻戦』のごじょー先生と、おっこつ先輩が菅原氏の子孫だよ設定と聞いてね、諸々の事情まことに勝手ながらの命運がかかっておりましたが、無事穏やかに過ぎ去りました。いえいえ、そう願う人もおおございましたので、ええ、一個人の淡い思いでありました。ええ。
道真公は雷さまとしても名が知れてます。天満宮で遠雷を聞いていると道真公元気だな〜なんて思いつつ、のんびりと三か月ぐらいふらふらしていました。この情勢なのでとりわけ人と出かけることもなくほぼ無く、さりとて、出かけないからといっても家でできるやりたいことが多くて、ずっとあれそれしながら過ごしていましたね。その点では自分の性分は生きやすいのかもしれないと思いました。FF10クリア宣言だけして、まだクリアしてません!はい通常運転。

電子の海を見ていると、やっぱりやりたいことをやれなくてストレスを感じてる人を見かけて、その感覚が実際自分ではあまり感じなくて、その点に温度差みたいなものを感じていました。無いなら無い方に合わせるのが苦にならない、というか、フラットな行動原理なので、何かができないとなったら別の何かをそこに入れ込む。ある意味では何かしていないとダメな性分ではあるのでしょうが、それが何と固定しているわけでない。かくいうこうやって適当に綴るのもこの一環の内。テトリスの崩すのに隙間を埋めようとするのを無意識にしているって、人に説明しましたが、そんな感じです。今ある状況からやりたいことを見つけ出していく習性があるからなのだろうと。


昔から一人で森の散策したり、知らない道を突き進んだり、何か作り始めたり、そういうことが根付いているのが今の状況にストレスを感じない要因かと。冒険好きな心はジュブナイルファンタジー飼ってるので。
基本的に習い事という決まったルーティンのあるものより、作って遊ぼう系を見まねて過ごしましたし、塗り絵をするなら漫画の表紙をトレスして塗ろうとかしていたり、誰に倣ったのか思い出せはしないのですが、遊び方は自分なりに考えながら遊んでいたように思えます。いい面ではあるのですが、兄弟がいて下の子というのは、程よく放っておかれるので、その間に自分でやることを見つける習性にあるのかもしれない。というか、そういう家庭だったからかか。家族としては多めの8人で暮らして、その中の一番下となると程ほどに誰かに任され、程々に目を離されるのでこうなったのかと。
兄弟の立場云々の話を時折聞くので、そのたびに思います。

以前行ったライブで『あなたが欲しいのは「問い」ですか?「答え」ですか?』という問いかけがあったのが、とても印象的で、一緒に行っていた人と答えは見事に別れました。
私は「問い」が欲しい派。答えを出すことに楽しみを見出すタイプだから、ぶっちゃけ出した答えがあっていようが間違っていようがあまり気にならないんですよね。その過程が楽しい。人によってはゼロか百、ってのもあるので、その信条の人はこの感覚が難しいのでしょう。その点で言うと研究者には向いていないと思います。大衆における正確性より、自分の中での正解かどうかが重要でしかないので、まあ、我が道を行くしかり、独裁しかりしがちなんでしょう。

いやぁ、新しく着いた仕事が大衆性を求める仕事だから、ぶっちゃけ自分の性質にあっているかどうかはさておきなんですよね。
よく診断みたいなのでも、自分で舵を握れる自営業とは、己の力でやってけ傾向の物ばかり出てくるので、誰かのための行動ができるのかどうかって言ったら、今のところ分からないですね。そうあれればいいとは思いますけど、喜んでほしいっていうのも、結局のところ「喜んでもらうと嬉しいと思う自分がいる」からってところに至るので、人の為は結局自分のためなんだろうって結論しか至らない。それがいいのかどうかはまだわかりません。やってみなければわからない。百聞は一見に如かず。一つの道を究める人はそれはそれで格好良いと思います。伝統工芸や職人している人、その筋のプロフェッショナルは憧れますが、自分はあれそれしたちだって思ってます。