神聖とか、栄光とか、犠牲とかいう言葉や、むなしいといった表現には、いつもぼくは当惑した。
ときどき、呼んでもきこえないような雨の中に立って、ただ叫び声しか聞こえない時に、そうした言葉を耳にしたこともあるし、また、ずいぶん前のことだが、ビラはりが、他の布告の上に貼っていった布告で、そういう言葉を読んだこともあった。
しかし、ぼくは神聖なものは何も見たことがなかった。
栄光が輝くはずのものに、なんら栄光はなく、犠牲というものは、その肉を埋葬する以外の処置をとらないだけの違いで、シカゴの屠畜場のようなものだった。
たくさんの言葉が聞くに耐えないものになり、結局は地名しか威厳をもたなくなった。
番号なども同様だった。
ある日付や、場所の名前と一緒に書かれたものだけが、口に出せるものであり、何らかの意味をもっていた。
栄光、名誉、勇気、神聖などという抽象的な言葉は、村の名前、道路の番号、河の名前、連隊の番号、日付などという具体的なものと並べると、何か不潔だった。



しばしば男は一人になりたいと思い、女もまた、一人になりたいと思うもので、互いに愛しあっている場合には、互いのそうした気分を嫉妬するのが普通だ。



もし世界に、あまりに大きな勇気をもってあらわれると、世界は、彼らをやっつけるために殺さなければならない。
そして、もちろん、彼らは殺される。
世界は、だれでも一人のこらずやっつけるし、そのやっつけられた場所で強者として生き残る人間も多い。
だが、やっつけられることない人々を、世界は殺す。
善良なもの、従順なもの、勇気あるものを、わけへだてなく殺す。そのどちらにも属さない人間でも世界に殺されるのは確実と思っていい。
ただ、その場合は、とくに急がないだけのことだ。



ヘミングウェイ
「武器よさらば」