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宝石のひとみ

自分とおなじくらい他人もすばらしい、と期待するのは、筋ちがいというものさ。


ワイルド
「幸福な王子」

栄誉とは

神聖とか、栄光とか、犠牲とかいう言葉や、むなしいといった表現には、いつもぼくは当惑した。
ときどき、呼んでもきこえないような雨の中に立って、ただ叫び声しか聞こえない時に、そうした言葉を耳にしたこともあるし、また、ずいぶん前のことだが、ビラはりが、他の布告の上に貼っていった布告で、そういう言葉を読んだこともあった。
しかし、ぼくは神聖なものは何も見たことがなかった。
栄光が輝くはずのものに、なんら栄光はなく、犠牲というものは、その肉を埋葬する以外の処置をとらないだけの違いで、シカゴの屠畜場のようなものだった。
たくさんの言葉が聞くに耐えないものになり、結局は地名しか威厳をもたなくなった。
番号なども同様だった。
ある日付や、場所の名前と一緒に書かれたものだけが、口に出せるものであり、何らかの意味をもっていた。
栄光、名誉、勇気、神聖などという抽象的な言葉は、村の名前、道路の番号、河の名前、連隊の番号、日付などという具体的なものと並べると、何か不潔だった。



しばしば男は一人になりたいと思い、女もまた、一人になりたいと思うもので、互いに愛しあっている場合には、互いのそうした気分を嫉妬するのが普通だ。



もし世界に、あまりに大きな勇気をもってあらわれると、世界は、彼らをやっつけるために殺さなければならない。
そして、もちろん、彼らは殺される。
世界は、だれでも一人のこらずやっつけるし、そのやっつけられた場所で強者として生き残る人間も多い。
だが、やっつけられることない人々を、世界は殺す。
善良なもの、従順なもの、勇気あるものを、わけへだてなく殺す。そのどちらにも属さない人間でも世界に殺されるのは確実と思っていい。
ただ、その場合は、とくに急がないだけのことだ。



ヘミングウェイ
「武器よさらば」

許されざる恋の行方

一般的にいって、一点非のうちどころのない貞淑な婦人というものは、よくその貞淑な生活の味気なさに疲れると、よく遠くのほうから不倫の恋をながめて、それを許すばかりか、うらやみさえするものである。



どんな環境でも、人間が慣れることのできないものはないし、とりわけ、周囲のものが自分と同じように暮らしているのを見た場合には、それはなおさらのことである。



家庭生活においてなにかを実行するためには、夫婦の間の完全な決裂か、あるいは愛情に根ざした意見の一致が絶対に必要である。
ところが、夫婦の関係があいまいで、それがどっちつかずの場合には、どんなことも実行するわけにはいかないのである。

世の中には、夫婦が互いにあきあきしながらも、永の年月をそのままの状態で暮らしている家庭がたくさんあるが、それはただ完全な決裂も一致もないからにほかならない。



《私とはなにものであるのか、なんのために私はここにいるのか、ということを知らないでは、とても生きて行くことはできない。しかも、自分はそれを知ることができないのだ。したがって、生きて行くことはできないのだ》

《無限の時間の中に、無限の物質の中に、無限の空間の中に、泡粒のようなひとつの有機体がつくりだされる。おの泡はしばらくのあいだはそのままでいて、やがて消えてしまう。その泡が___このおれなんだな》



トルストイ
「アンナ・カレーニナ」

奔放な人生に

男同士の友情は、女との愛情より堅いものだ。


「だれでも行くのさ……。押しあいへしあいの必要はないやね、席はみんなにあるんだから……。むやみに急ぐのもばからいってことよ、急いでみたって、それだけ速くも行けもしないんだから……。



ゾラ
「居酒屋」

娼婦の恋

どんな国の言葉でも、真剣に勉強してからでなくては話せないように、まず人間というものを十分に研究してからでなければ、小説の中の人物をつくることはできない、


人びとは、太陽の光線を見ることのできない盲や、自然の和音を聞くことのできない聾や、胸の思いをあらわすことのできない唖のことはあわれに思うけれど、しかし、廉恥心という偽りの口実にかこつけて、こういう心の盲や、魂の聾や、良心の唖のことはいっこうにあわれんではやらないのだ。


神は、教育によって善というものを教えられなかった女のために、彼女らをごじぶんのもとに導く二つの道をほとんどつねに作っておかれるものである。
この二つの道とは、悲しみと恋である。
これはいずれも困難な道で、彼女らが一歩そこに踏み込むと、足は血にまみれ、手は傷付けられるであろう。
しかし、それと同時に、悪徳の飾りはこれを路傍のいばらに投げすて、神の御前にまかりでても恥ずかしくない清浄の裸身で、目的の善に到着するのである。


人生の入り口に、ただ二つの道しるべを立てて、一方には《善の道》もう一方には《悪の道》としるして、そこに来た者に、《どちらかを選べ》と言うだけではなんにもならない。
キリストがしたように、途中で誘惑に負けた人びとに、第二の道から第一の道へ出られる道を教えてやらなくてはならぬ。
しかも、その道の踏出しがあまりに苦しかったり、または、とてもはいりにくいと思われるような道であってはならないのだ。


われわれがキリストよりも厳格でなければならないという理由がどこにあろう?
道心堅固な人間と見られたさにまじめくさった顔をする世間の人びとが持っているような考えを後生大事に守って、しばしば傷口から手当てをし心の傷手をなおしてくれる親切な手を待ちこがれている血まみれの魂を、にべもなく振りすててしまってもいいという理由がどこにあろう?


悪はむなしいものにすぎないのだ。
善なるものに誇りを持とう。
わけても、絶望しないようにつとめよう。

家庭に対してはもっと尊敬の念を抱き、利己主義に対してはもっと寛大な目で接してやろう。

こうしたことは、親切な老婆が自己流の薬をひとにすすめるときの言いぐさではないが、たとえ効能はないにしても、決して毒になることはないのだ。


子どもは小さいが、すでにおとなになる萌芽を持ち、頭脳は狭いが、大きな思想を宿し、目は一点にすぎないが、数里のかなたは一望のもとにおさめることができるのだ。


「こんなくだらない理屈はもうよしにして、陽気にお笑いなさいよ。世の中っておもしろいのよ。かけるめがねのぐあいで、どうにでも見えるものですものね。



デュマ・フィス
「椿姫」
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