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日本国内で韓国人が犯した10大強姦事件


話題:隣国・韓国





■日本国内で韓国人が犯した10大強姦事件■


日本国内で韓国人が犯した10大強姦事件です。
下記はコチラからの転載です。
blog.livedoor.jp




1.「聖神中央教会連続小学生強姦事件」
永田保こと金保
(少女を強姦するためのカルト宗教を使って保護者とその子供を洗脳、小学生数十人を「拒否すると地獄に落ちる」と脅して強姦)


2.「摂理連続強姦事件」
鄭明析
(日本人を強姦するために全国約80箇所に教会を設置、大学でサークル活動と偽って勧誘し数百人の女性をレイプ、小学生も強姦していた)


3.「国際福音キリスト教会連続強姦事件」
卞在昌
(強姦するためにカルト教団を利用し「私と一つになることは神と一つになることだ」と多数の女性を強姦)


4.「フジテレビ社員成りすまし140人連続少女強姦事件」
李昇一
(日本テレビ系の人気番組「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで」のスタッフを名乗り、「タレントに会わせてやる」と若い女性に近づき、強い酒を飲ませ約140人の女子中高生を強姦)


5.「カナヤマン少女連続強姦事件」
金山昇一
(少女を強姦する目的で偽の芸能事務所を設立、多数の芸能界志望少女を芸能人にすると嘘をつき強姦しその模様を撮影、映像はネット上にばら撒かれ永遠に回収は不可能)


6.「ルーシー・ブラックマンら連続強姦殺人事件」
織原城二こと金聖鐘
(薬物を飲ませて少なくとも女性10人以上を暴行、うち英国人ルーシー・ブラックマンさんら2人を殺した、親は賭博成金)


7.「大阪市女性2人キャリーバッグ拉致強姦強盗事件」
山元平和こと金平和
(多数の女性をバッグに押し込み拉致して強盗強姦、10〜18年に大阪、神戸両市内で計21件の犯行を繰り返した)


8.「浜松連続強姦強盗事件」
李正遠
(浜松市内の家に侵入し、15歳の女子高生をはじめ中にいた女性など8人に強姦傷害、窃盗などの罪に問われあわせて11 の事件で起訴 )


9.「目白一人暮らし女性連続強姦強盗事件」
宋治悦
(目白通り沿いに住む一人暮らしの女性19人を強姦し金を奪った。銀行の防犯カメラの様子がテレビ局でも報道されたが、韓国人とわかると報道はなくなった。)


10.「逃亡韓国人による200名連続強姦事件」
金允植
(韓国内の強姦事件で指名手配直前に逃亡目的で来日(98年9月)。大阪で夫が出勤後の民家を狙い主婦を連続強姦。2年間で被害者約200名)





以上で転載を終わります。

まともに機能していない日本のメディアは、特定アジアの在日の犯罪だと名前を伏せたり、本名ではなく通名で報道したりとかやりたい放題です。
時には平気で報道しないなんてケースまで存在します。
本当に嘆かわしい限りですね‥‥

日本国内での性犯罪は韓国人&在日韓国人が飛び抜けいます。
というか日本だけでなく世界的に見てもフィリピンでのコピノ、ベトナムでのライタイハン、キリバスでのコレコレアと枚挙にいとまがありません。

レイプ大国韓国が巻き起こす性犯罪による被害が後を絶ちません。
女性の方は絶対に韓国人に気を許してはいけませんよ。



これはあくまで僕の個人的見解なんですが、日本は性犯罪の量刑がハッキリ言って軽すぎると思います。

被害者の肉体的精神的負担を考えたら、強姦の犯人は死刑が無理なら、せめて例外なく去勢するくらいやってもらいたいもんです。

今もインドで歌われている「日本兵を讃える歌」


話題:親日国




■今もインドで歌われている「日本兵を讃える歌」■


くればのひとり語りからのさんからの転載です。
sahashipesu.blog.fc2.com




【親日国インド】

インドのマパオという村では、日本兵を讃える歌が、戦後も長きに渡って歌い継がれてきました。

歌を作ったのは村の女性。

動画にも出演されています。

インド独立のため戦う日本兵士の勇敢さを讃え、歌にしたそうです。

四番の歌詞に、こうあります。

「広島に悲報 勇者の胸をつらぬき 涙して去れる 日本の兵士よ なべて無事なる帰国を われ祈りてやまず」

インド国会では、毎年会期中の場合、8月6日に広島、長崎の原爆の犠牲者に対して黙祷を行っているそうです。

また、昭和天皇崩御の際、インドは異例の3日間の 喪に服したそうです(日本は2日間)。

また、 大東亜戦争後の極東軍事裁判(東京裁判)においてインド代表判事パール判事はイギリスやアメリカが無罪なら、日本も無罪であるとして、日本無罪論を発表しました。
↓↓↓↓
詳しくはこちら
mblg.tv


加えて国会演説の際、インド初代首相ネルーは「彼ら(日本)は謝罪が必要なことなど我々には何一つしていない。それ故に、インドは(サンフランシスコ)講和会議には参加しない。講和条約にも調印しない」と述べた。


1952年4月国交樹立、同年6月平和条約締結。


今もインドで歌われている日本兵を讃える歌



「日本兵士を讃える歌」


祖父の時代より
今日の日まで
美しきマパオの村よ
いい知れぬ喜びと平和
永遠にわすれまじ

美しきマパオの丘に
日本兵来たり
戦えり
インパールの街目指して
願い果たせず
空しく去れり

日本兵
マパオの丘に来る
それは4日の火曜日
1944年のことなりき
我は忘れじ4月のあの日

罪無き民も散り散りに
西に東に追いやられ
再び神の恵み受け
集まり住まん
この地マパオに

広島の悲報
勇者の胸をつなぬき
涙して去れる
日本の兵士よ
なべて無事なる帰国を
われ祈りてやまず





以上で転載終わりです。

インドの友情は素晴らしいですね♪
胸が熱くなりました。

日本の反日マスコミの報道だけを見ていると、日本はまるでアジア中や世界中で嫌われているかのように錯覚しがちですが、もちろん実情は異なります。

特定アジア等の一部の国を除いて、世界中に親日国家は本当にたくさん存在しています。

日本に親しみを持ってくれている人達が大勢いる事を知って下さい。

台湾の癒やしの力は凄い


話題:親日国





■台湾の癒やしの力は凄い■



旅行先で財布を落として帰国。ガッカリしたままののある日、自宅に国際郵便が。差出人は……


オレじゃなくて、いやね、ウチの母親なんですよ。母親が台湾に旅行するってんで、お守り持たせた訳ですわ。
母親の入ってる団体の慰安旅行だから別にそんな危ないわけじゃないんですけど、ウチの母親飛行機乗ったことないイナカモンなんで、怖がったから持たせたんです。
お守りっていっても、翡翠の玉(漏れが山で拾ってきて磨いてキーホルダーに加工したやつ)なんですけどね。

で、無事帰ってきたおかんがなんか暗い顔してんの。
どうしたの、楽しくなかったのか?ってきくと「財布落とした」って。
台北かどっかのタクシーの車内にうっかり忘れてきたみたいだ、って言うんですよ。

財布はともかく、漏れに貰った翡翠の玉を入れてたのが申し訳ない、ってなんかもう死にそうな顔であほだなあ、おかんが無事で帰ってきたんだからじゅうぶんなんだっつーの、って言ってもまだ立ち直れないの。

んで、そんなことがあって帰国から10日くらいたった日にね、国際郵便が届いたんですわ。

差出人は台湾のヒト。
なんじゃこりゃ、とおもって母親が開けると、そこには落とした財布が入ってたのね。

ついてた手紙には「私はタクシーの運転手だが、台北の駅であなたたちを降ろしたあとに財布を見つけた。 追いかけて返そうと思ったが、もう見つからなかったので失礼と思ったが財布の中身を見させてもらった。
運転免許証を見つけたのでその住所にこの財布を送ります。
私は日本語が読めないが、祖父が日本語の読み書きが出来るので代筆してもらいました」とかあったんですよ。

もうね、アホかと。行きずりの外国人のサイフですよ?ネコババしてもばれないのに、律儀に送り返すって、どういう人たちなのかと。

おまけに、入れてたNT$も全額そのまま。
で、封筒には別の包みも入ってて、それには「財布を落としてしまってはお土産が買えなかったのではないか。
とても美しい翡翠の玉が入っていたのであなたは石が好きな人なのだろう。お土産代わりにこれを贈ります。
どうか台湾にまたいらしてください」とかいう手紙と翡翠のブレスレットが入ってたんですよ。

もうね、なんつー人かと。ちょっと書いてて涙出てきちゃうくらい、イイ人じゃないかと。

こんないい香具師がいる国だったらこんどは漏れも行ってみたいなと思ったわけでした。





以上はこちらからの転載でした。
sp.logsoku.com



世界でも有数の親日国である台湾に相応しい素晴らしいエピソードですね。
本当に有り難い限りです。


別に「台湾人の全てが日本が好きで悪い人など居ない」とまで主張する気はありませんが、こういったエピソードが特亜のような反日国家よりも比較にならぬ程多くなるのも事実であり、日本に剥き出しの敵意を向ける国よりも、日本への親愛の念を向けてくれる親日国に親しみを感じるのは、人間として至極当然ですよね♪
(´∀`)





 _ _ ∩
( ゚∀゚)彡 ありがと♪
 ⊂彡  台湾♪


 _ _ ∩
( ゚∀゚)彡 台湾♪
 ⊂彡  最高♪

ブータン国王夫妻を侮辱するフジテレビの放送免許を剥奪すべき


話題:嫌いな芸能人





■ブータン国王夫妻を侮辱するフジテレビの放送免許を剥奪すべき■


フジテレビのものまね番組がやりすぎ? 劇団ひとりとAKB48のブータン国王夫妻のものまねがひどい






28日にフジテレビで放送された「笑っていいとも! 年忘れ特大号2011」。
番組内でタレントがものまねを披露するコーナーがあり、そこで劇団ひとりさんとAKB48の秋元才加さんがブータン国王夫妻に扮して登場した。


これが、やりすぎではないかと問題になっている。
二人は、変顔を披露したり、鼻に指を入れるなど、国王夫妻をおちょくるかのような姿を見せた。

ブータン国王夫妻は被災地を訪問するなど親日家で人気があるため、ネットでは「さすがに失礼」という声が多く飛び交っている。

ものまね番組で話題の人を取り上げることは多く、バラエティ故にネタとして扱うという事情もあったのだろう。
だが、ブータン国王夫妻のやってもいない行動をおもしろおかしく取り上げるという今回のものまねは、視聴者にも不快な思いをさせたようだ。

また「日本人がブータン国王夫妻をバカにしていると思われては困る」という思いが正直なところだろう。 フジテレビはどういった対応をするのだろうか。
ニュースソース
kadench.jp



好意的に真似するというならまだしも、変顔して鼻ほじるとか完全に馬鹿にしてるな‥‥

東日本大震災の翌日に国王主催の「供養祭」を挙行し、18日には義援金100万ドルを日本に贈り、震災後初の国賓として来日し被災地の福島に僧侶を連れてお祈りをして、新婚旅行も日本で行ない、日本国会史上に残る日本への友情を語る名演説をなさったブータン国王ジグミ・ケサル陛下に対してこの無礼さはどうだ‥‥

海外の国賓を貶めるってどういう神経してるんだ?
政治家への風刺とは訳が違うんだぞ!
国王を侮辱しているんだぞ!!

未だに謝罪すら無いとは何だ!
ハッキリ言って普通に国際問題だし、下手すりゃ戦争に発展してもおかしくないくらいの案件なんだぞ。

こんなクソテレビ局のせいで、ブータンの人達に「日本人てこんなもんなのか?」って思われるだろうが!

毎日毎日、おびただしい数の韓流ドラマを流し韓国賛美しては韓国政府や朝鮮企業から多額の金をもらい、日本国民には韓流ドラマやK-POPを押し付ける。
返す刀で日本の悪口をでっちあげ、反日報道をしてはまた韓国朝鮮連中から金をもらう、フジテレビ放送局員のクズども日本の敵だろ、恥を知れ!



放送倫理/日本民間放送連盟 放送基準より抜粋

1章 人権

(2)個人・団体の名誉を傷つけるような取り扱いはしない。

(5)人種・性別・職業・境遇・信条などによって取り扱いを差別しない

2章 法と政治

(9)国際親善を害するおそれのある問題は、その取り扱いに注意する。

(10)人種・民族・国民に関することを取り扱う時は、その感情を尊重しなければならない。

(11)政治に関しては公正な立場を守り、一党一派に偏らないように注意する。

(12)選挙事前運動の疑いがあるものは取り扱わない。

(13)政治・経済問題等に関する意見は、その責任の所在を明らかにする必要がある。

(14)政治・経済に混乱を与えるおそれのある問題は慎重に取り扱う。



今回の件は全部アウトだろ‥‥



今回の件はブータン国王ジグミ・ケサル陛下の善意と崇高な精神を汚す最低の行為である!!

フジテレビと劇団ひとりと秋元才加はブータンに行って、国王夫妻とブータン国民に直接謝罪してこい!!

そして総務省はフジテレビの放送免許を剥奪しろ!!

ブータンが親日国家なのはこの人のおかげ


話題:農業




転載元
mblg.tv


■ブータンが親日国家なのはこの人のおかげ■



西岡京治(にしおかけいじ)


ブータンで最も尊敬された日本人

国際協力事業のモデルとなる

身の丈にあった開発を

神秘の国ブータンで、一人の日本人が28年間、農業技術指導を行った。
農作物の生産力を飛躍的に増大させ、若いリーダーの育成に成功した。
一人の日本人の「無私の貢献」がブータンの未来を拓いた。
ブータンを愛し、ブータンのために生き、ブータンのために死んだ西岡京治は、日本人の誇りである。


【神秘の国ブータンで農業指導】
西岡京治は隠れた偉人である。
日本人で彼を知っている者は、ほとんどいない。 しかし、ヒマラヤの小国ブータンでは、最も有名な日本人である。
彼はこのブータンに渡り、28年間という長期間、この国で農業指導に携わってきた。
日本の国際協力事業の最も成功した例として西岡京治は記録されている。

そもそも、日本人はブータンという国そのものをほとんど知らない。 神秘の国なのである。
人口は100万人程度で、国民の大半は農業で生計を立てている。
しかし、国土の大半は山と谷であるため、田畑に使える土地は1割程度。 農業自給率が極めて低く、60パーセント程であった。
西岡はこうしたブータンの問題に真っ正面から取り組んで、28年間ブータンの農業指導に自分の人生を捧げたのである。


【恩師中尾佐助の推薦】
西岡京治がブータンと関わりを持ち始めるきっかけは、恩師中尾佐助助教授との出会いからはじまる。
西岡は大阪府立農学部の学生で、中尾はその助教授であった。
彼はかねてから、ヒマラヤ地方の植物の生態に関心を持っており、1958年、日本人としてはじめて、ブータン政府の正式な招きを受け手入国した。

この時、中尾はブータンのドルジ首相から、農業専門家を派遣してほしいとの依頼を受けた。
ブータンの農業指導にあたるには、ブータンの人々の生活に溶け込んで、「あの人の言うことなら間違いない」という信頼を受けなければならない。
中尾は西岡を推薦することにした。 穏やかで謙譲、友誼に厚く、誠実で努力家である西岡は、根気と忍耐が予想されるブータンの生活に最適な人材と中尾は考えたのである。

ブータン派遣の話を聞いた西岡の心は踊った。
58年に西北ネパール学術探検隊(川喜田二郎隊長)に参加し、ヒマラヤに魅せられていたからであり、そこに住む人々の貧しさに心を痛め、彼らの生活を少しでも豊かにできないものかと考えていたからだ。
1964年2月、海外技術協力事業団(現・国際協力事業団)から正式な派遣決定の通知が届いた。 待ちに待った通知であった。


【ブータン到着】
1964年4月23日、西岡は新妻里子を伴いブータンに向かって飛び立った。
目的地はブータンのパロである。
パロはパロ県の中心の町で、西岡が20数年間住み着いて農業指導した町である。

西岡は、さっそく開発庁農業局の事務所に出向いた。 そこで最初の壁に直面することになる。
この事務所の局長も職員もインド政府から派遣されたインド人で、全て彼らが取り仕切っていた。 西岡は歓迎されてはいなかった。

局長は、ブータンの農業事情を一番よく知っているのは、自分たちインド人で、海の向こうの日本人に何がわかるかと言わんばかりの態度であった。
こうした冷たい歓迎を受けながらも、到着早々、それにめげるわけにはいかない。
彼らを納得させるには、実際に試験栽培で見せるしかない。
ところが、ブータンにはまともな試験農場が一つもないのである。
彼の最初の仕事は、政府に働きかけて試験農場の土地を提供してもらうことであった。


【試験農場での野菜栽培】
政府が提供した最初の試験農場は、2百平方メートル程の小さなものであったが、とにかくここから始めるしかない。
政府はまた3人の少年を実習生として付けてくれた。 まだ12.3歳の少年たちである。
彼らが、後にブータン農業を担う人材に成長する。

西岡がまず最初に彼らに教えたのは、大根の栽培である。 種は日本から持ち込んでいた。
畑の耕し、種のまき方、土のかけ方、一つ一つを丁寧に少年たちに実演して見せてあげた。
大根は夜と昼の寒暖の差が大きい程、よく育つ。
7月末には、それまでブータンで見たことのない大きな大根が育っていた。
1年目の出だしは、まずまずの成果と言えよう。

2年目には、試験農場を水はけの良い高台に移してもらった。 広さも3倍になる。
この頃になると、試験農場の噂が広まり、知事や国会議員がつぎつぎに試験農場を訪問するようになっていた。
その一人の助言で、試験農場で栽培された野菜を国会議事堂の前で展示してみた。
これが大評判となり、訪問客も増えていった。

2年の任期が切れようとする頃、西岡は悩んでいた。
ようやくブータンの農業がわかりかけてきた。
ここで帰国してしまえば、当初の目的を果たせないし、この2年間の無駄になる。

こんな気持ちで悶々としている頃、国王から任期延長の話が飛び込まきた。
願ってもないことである。
この2年の努力を国王が評価してくれたのだ。
さらに、国王から広い農場用地を提供するという申し出もあった。
彼は、「ブータンに来て、これほど嬉しいことはなかった」と語っている。

彼のブータンにかける意気込みは生半可なものではなかったのである。
この時作られた農場が、ブータンの近代化を担っていくパロ農場である。


【稲の増産】
1971年は、ブータン農業史において画期的な年となった。
パロ農場以外の農家の田圃で初めて「並木植え」の田植えが行われた。
並木植えとは、縦と横の一定間隔で苗を植える方法で、日本では昔から行われていた。
しかし、ブータンでは勝手気ままな植え方をしているため、手押しの除草機が使えないし、苗と苗の間の風通しも悪く、生育によくなかった。

西岡は、これをなんとか改めようとしたが、昔からの農法を変えるのは簡単なことではない。
まだ一部とはいえ、初めてそれを実行する農家が現われたのである。
しかし、収穫量がもし上がらなければ信頼は一気に失われる。 西岡は祈るような気持ちで稲の生育を見守った。

結果は、並木植えに変えただけで、40%の増産。
西岡は胸を撫で下ろした。
パロ盆地では、数年のうちに約半数の農家が並木植えに変わり、現在ではパロ盆地の8割は並木植えになっている。
その効果を誰もが認めたからである。


【シェムガン県の開発】
1976年から80年までの4年間、国王直々の立案によるシェムガン県の開発プロジェクトに責任者として携わることになる。
このシェムガン県は、貧しいブータンの中でも極貧地域で、中央から忘れられた土地と言われていた。
人々は昔からの焼畑農法に頼っていた。
収穫量が下がると新しい土地に移住して、また森を焼き畑を作る。 それを繰り返す生活だった。

西岡はここに10人のスタッフと一緒に乗り込んだ。
一番困難であったのは、この地域の人々を説得することであった。
西岡の粘り強い説得が続いた。
村人との話し合いは、800回に及んだという。

中尾佐助が見込んだ通り、実直で忍耐強い彼の性格がここにおいて生かされた。
西岡の考えは、「身の丈にあった開発」である。
いたずらに莫大な費用をかけるのはよくない。 自分達のやれることは極力自分たちの手で行なう。 最小の費用で最大の効果。
西岡の信念である。

古い壊れかけたつり橋をつけ変えるにしても、コンクリート製の橋を作るのではなく、耐久性に優れたワイヤーロープ製のつり橋を作ることにした。
費用も安くつくし、地元のつり橋架橋技術も生かされる。 これで17本のつり橋が新しく作り変えられた。
水田に水路を引くにも、塩化ビニール製のパイプや竹を利用した。 合計360本もの水路が完成したという。

彼らの手で新たに作られた道路は、全長300キロメートルにも達した。
この開発期間で彼らがシェムガン県に開いた水田は60ヘクタールに及んだ。
それまで水田は1・2ヘクタールしかなかったので、なんと50倍に拡大した。

極貧地域は驚くべき変化を遂げた。
生活が安定した。
子供たちが学ぶ学校もできた。
診療所もでき医者も定期的に来てくれる。
何よりも、定住地ができたことは大きい。
村人は口々に西岡にお礼を言った。
「はじめに西岡さんが言ってくれた通りになった。 お礼をいいます」と。
別れの時、村人の多くは涙で西岡を見送った。


【「ダショー」の称号】
1980年、西岡は長年のブータン農業への貢献を評価されて、国王から「ダショー」の称号を受けた。
ダショーとは英語のベストを意味し、「最高に優れた人」という意味である。
これは県知事や最高裁判所の判事クラスしかもらえない称号で、ブータンで最も栄誉あることであった。
この時、すでに16年の歳月が過ぎていた。
76年にシェムガン県の開発に携わるとき、妻の里子は7歳になる娘の教育も考えて、帰国しているので、この4年間は全くの単身での生活だった。
それから12年間、西岡のブータン生活が続いた。

1992年3月21日、日本にいる妻のもとに一本の国際電話が入った。 ブータンからであった。
電話の主はうわずった絞り出すような声で「ダショー・ニシオカが亡くなられました。 昨晩、病院に入院したところ、病状が急変しまして……」。

突然の訃報に動転しながらも、「葬式はどうなさいますか」との質問に、里子はとっさに「パロでお願いします。 ブータンの葬式のしかたでお願いします」と答えた。
ブータンで28年間、ブータン人になりきって、ブータンのために死んだ夫である。 そう願っていると彼女は確信した。

西岡の葬儀は、妻と娘の到着を待って3月26日に行われた。
農業大臣が葬儀委員長を務める国葬であった。
ラマ教の僧侶の読経が絶えまなく続き、ブータンの山々にこだました。
パロ盆地が見渡せる丘に作られた葬儀場で、遺体はしめやかに荼毘にふされた。
彼を慕う5千人に及ぶ人々が、ブータン全土から弔問に集まった。ブータンでこれまで誰も経験したことのないほど立派で盛大な葬式であった。
ブータンは国をあげて、西岡に感謝の心を捧げたのである。

西岡はブータンの土地に今なお眠っている。
そこは、パロの人々と収穫の喜びを分かち合った土地である。
西岡の心の中にブータンが常にあったように、ブータンの人々の記憶の中に今でも西岡京治は生きている。








西岡京治さんの業績は本当に素晴らしいですね!

日教組は自虐史観にまみれたネジ曲がった歴史を教えるのではなく、西岡京治さんのような偉人の業績を子供達に教えるべきだと強く思います。


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