スポンサーサイト



この広告は30日以上更新がないブログに表示されます。

在日の最大のタブー『朝鮮進駐軍』


話題:在日外国人




在日の最大のタブー『朝鮮進駐軍』



この記事はねずさんのひとりごとからの転載です。
nezu621.blog7.fc2.com


以下はYoutubeにアップされている動画にあるテキストです。
このことは日本人全員が過去の事実として知っておくべきことです。
みなさんの手による拡散を希望します。



「朝鮮進駐軍(ちょうせんしんちゅうぐん)」とは。

在日朝鮮人は日本と戦争した事実は無いにもかかわらず、終戦と同時に「朝鮮進駐軍」を自称し、日本各地において婦女暴行、暴行、略奪、警察署の襲撃、土地・建物の不法占拠、鉄道の不法乗車等、横暴の限りを尽くした。


●終戦後「朝鮮進駐軍」武装部隊が首相官邸襲撃●


「朝鮮進駐軍」部隊2000人による「首相官邸襲撃事件」が1946年起きた。
約2000人の在日朝鮮人「朝鮮進駐軍」部隊が完全武装して首相官邸に突入。
日本の警官隊は、当時武器の所持は禁じられていたため、米軍憲兵隊に応援を頼んだ。
そこで米軍憲兵隊と「朝鮮進駐軍」との間で大銃撃戦闘へと発展した。

戦後の在日朝鮮人は、なんの国際法上の地位もないにも関わらず、勝手に自分たちを「戦勝国民である朝鮮進駐軍」であると詐称し、三万人もの武装集団となって全国主要都市に出現し暴れまくった。
在日朝鮮人集団は、武装解除された日本軍の武器と軍服を盗用して武装し、勝手に「朝鮮進駐軍」と名乗り、無差別に多くの日本人市民を殺害した。

GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の記録に残っているだけでも四千人以上の殺害記録が残されている。
戦後の治安が整っていない空白を良いことに、「朝鮮進駐軍」と名乗った在日朝鮮人は、土地の不法略奪、金品略奪、強姦、銀行襲撃、殺略、警察襲撃など暴れ放題の限りを尽くした。

「朝鮮進駐軍」と名乗る暴徒たちは、個々に部隊名を名乗り、各地で縄張りを作り暴れた。

これら「朝鮮進駐軍」元締め組織が「朝鮮総聯(朝鮮総連)」、ヤクザなどになっていった。
国有地も、都心駅前一等地周辺も、軒並み不法占拠した。
そしてそのまま、パチンコ屋、飲み屋、風俗店等々が出現し、そのまま彼らの土地として登記され現在に至っている。

農家、農協倉庫を襲い、貨車を襲撃、商店街、国の食料倉庫も襲い、食料や商品を根こそぎ奪って行き、それらは全て戦後の闇市で売りさばき、暴利で財を成したのは彼らであった。
財を成した彼らは分派し、政治組織として社会主義、共産主義組織へと発展し、政界にも進んだ。


「朝鮮進駐軍」と名乗る在日朝鮮人暴徒たちは、通りすがりの市民に言いがかりをつけ集団暴行をはたらく。 無銭飲食は当たり前、白昼に目に付いた婦女子を路上で集団強姦するなど、日常茶飯事に繰り返した。

在日朝鮮人は「朝鮮進駐軍」部隊と名乗り、武装して、町をのし歩いた。
彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩した。

腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を振り回しては、手当たり次第に日本人を殺傷、暴行し、略奪の限りを尽くした。

通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難癖をつけ、無銭飲食をし、白昼の路上で婦女子にいたずらをした。
善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。
こうした不良分子は旧日本軍の陸海軍の飛行服を好んで身に着けていた。 袖には腕章をつけ、半長靴を履き、純白の絹のマフラーを首に巻き付け、肩で風を切って街をのし歩いた。

警官が駆けつけても手も足もでない。
終戦後の警官が、一切の銃器の所持が許されていなかったのをよいことにして、「俺たちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人がなにをいうか」と、丸腰警官を殴り、ド突き回し、警備用の木刀や飾りのサーベルをヘシ曲げた。


戦後当時の「朝鮮進駐軍」は今日の朝鮮総聯本部である。
今の朝鮮総聯となる「在日朝鮮人連盟中央総本部」


【昭和26年3月22日 衆議院法務委員会】
【押谷委員】
お尋ねいたしますことは、昨朝起こりました朝鮮人による米兵に対する暴行事件であります。
昨二十一日の午前三時半ごろに、浅草の千東町の朝鮮マーケット附近におきまして、六名の米兵が多数の朝鮮人に取り囲まれまして、集団的に暴力を加えられて、一名は死亡する、二名は負傷する、自動車も破壊されるというような不祥事を起こしたのでありますが、我が国の講話を前に控えて、今日日本の置かれたる国際的地位などから考え、この時期を思いまするときに、まことに遺憾しごくな事件だと考えます。

終戦後の第三国人どもは本当に酷かった。
軍の兵器を盗んで来たらしく、三八式歩兵銃や南部式拳銃で武装し、小銃には着剣して強盗強姦傷害恐喝脅迫不動産窃盗、時には殺人まで、経済犯、実力犯を中心にあらゆる悪事を重ねていた。
銀座、浅草、新宿は朝鮮人、新橋、渋谷は台湾人に支配され、政府も警察も動揺し、手を拱いていた。 戦勝国民は治外法権だったのである。
だから食管法に限らず、戦勝国民には日本法を適用出来なかった。
服部時計店や白木屋も米軍の酒歩(PX)に接収され、そこへ行けば食料に限らず物資は山ほどあった。 日本人は買えなかったが。

そうした情勢に便乗し、朝鮮人は戦勝国民だの「朝鮮進駐軍」を僭称して堂々と闇商売を行い、派手に稼いでいた。
そりゃ儲かるだろう。 警察の検問を竹槍日本刀を振り回して強行突破したのだから(さすがに銃撃戦は挑まなかった模様)。
当時は物不足で、売る方は素人でも出来た。
仕入れこそ難しかった。
彼等は日本人露天商を襲って商品を奪う。
それで警察が黙認して捕まえないのだから、こりゃあ損のしようが無い。 警察が襲撃されることしきりで、署長が叩きのめされたり、捜査主任が手錠をかけられ半殺しにされるぐらいは珍しからず。

上野で朝鮮人経営の焼肉屋へ国税局査察部が査察に行った際、大金庫を開けて手を入れた瞬間を狙って二十人ぐらいで一斉に金庫の扉を押したものだから、査察官は腕を切断されてしまった。

当時は警察署が襲撃される事が珍しくなく、第三国人の襲来によって犯人を奪還された富坂警察署襲撃事件、ついでに警官が殺された渋谷警察署事件、共産党が大群で警察署を包囲し外部との連絡を遮断「攻城戦」に出た平警察署事件等、枚挙に暇有りませんでした。

東京東部(すなはち大東京の中心地)北郊の荒川、古利根―中川、江戸川、利根川流域の牛は皆いなくなった。
当時、あの辺は畜力として農耕牛を使っていたが、深夜、不良朝鮮人が侵入して来て盗み出し、河原へひいて行って屠殺した。
牛は「モウ」と言って泣いたので皆気付いたが、銃砲刀剣で武装しているので追う訳には行かなかった。
永年愛育し、慈しんで来た牛が悲しそうに泣きながらズルズル引き出され殺されるのを傍観するのは無念で耐え難かったが、手向へば殺されるのでどうにも出来なかった。

そうして利根川水系流域一帯の牛は皆、不良朝鮮人に盗まれ、殺され、闇市で売られた。
この辺へも、新聞紙に包んだ肉塊を売りに来たものだ。
上流で屠殺した牛を、そのまま下流へ売りに来たのだろう。
かくて南関東から、牛はいなくなった。

家畜の相手ならまだしも、人間に対しても、関東以西の大都市を中心に、日本中に灰神楽が立つような勢いで数多犯罪を重ねた。


川崎・浜松・大阪・神戸などが酷かった。 その最も著しい象徴的事例に、元文部大臣、後の首相・鳩山一郎氏に対する集団暴行傷害事件がある。

翁が軽井沢の静養先から帰京しようとして信越本線の汽車に乗っていたら、例の「朝鮮進駐軍」が後から大勢、切符も買わず、鉄道員を突き飛ばし押し入って来て、「俺達は戦勝国民だ、おまえら被支配者の敗戦国民が座って支配者様を立たせるとは生意気だ、この車両は朝鮮進駐軍が接収するから全員立って他の車両へ移動しろ、愚図愚図するな!」と追い立てた。
それで鳩山氏が「我々はきちんと切符を買って座っているのにそりゃおかしい」、と一乗客として穏やかに抗議したら、たちまち大勢で飛び掛かって袋叩きにし、鳩山翁を半殺しにした。
幸いにして重体にも重傷にも至らなかったが、頭部裂傷だか顔面挫傷だか忘れたが、血に濡れ腫れ上がった痛々しい顔で帰京した。
年老いた祖父を理不尽に叩きのめされて怨まぬ孫も有るまい、いかに不出来な孫にせよ。

孫共はこれを知らんのだろう。
直後に総理大臣に成る程の大物でもかくの如し。 いわんや庶民においては土地も屋敷も物資も操も、奪い放題であった。

闇、賭博、傷害、強盗事件が多く、ことには、空襲や疎開で一時的に空いている土地が片端から強奪された。
今、朝鮮人が駅前の一等地でパチンコ屋や焼肉屋を営業しているのは、皆、あの時奪った被災者の土地だ。
それでも警察は手が出せなかった。

歴代首相大臣等が絞首刑になって行く状況で、警察ごときに何が出来よう。
ある日、警察は何月何日を以て廃止す、再び登庁するを許さず、と命ぜられれば、それ切り警察は消滅する。
七百万の大軍を擁した帝国陸海軍ですら、左様にして両総長 両大臣以下、自然廃官になった。 まことに敗戦は悲しからずや。
たまりかねた警察が密かにヤクザに頼み込み「浜松大戦争」になった訳だが、「小戦争」は日本中に頻発した。

最後の頼みの綱は連合国軍であったが、遂にはその憲兵隊でも手に負えぬ非常事態に立ち至った。
それでさすがに米軍も腹に据えかね、日本本土全域の占領を担当していた米第八軍司令官アイケルバーガー中将が、関東と言はず関西と言はず、はたまた北九州と言はず、不良朝鮮人活動地域に正規戦闘部隊の大軍を出動させ、街頭に布陣して簡易陣地を築き、重装甲車両を並べ、人の背丈程に大きな重機関銃を構えて不良朝鮮人共にピタリと狙いをつけ、ようやく鎮圧した。
我々はその火器のきらめきを間近に見た。

この時、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサー元帥の発した布告が「朝鮮人等は戦勝国民に非ず、第三国人なり」と言い声明で、これぞ「第三国人」なる語のおこりである。
これぞ「第三国人」なる語のおこりである。
だから、外国人差別用語なはずは無い。

彼等自身、マッカーサー元帥以下、一人残らず皆、外国人ではないか。
連合国軍総司令官は、日本人に対してこそ絶大な権勢を振ったが、本国や同盟国、対日理事会や極東委員会に気を使わねばならぬ外交センスの要る役職でもあった。
何人にもせよ、敗戦国民以外を、声明を発してまで差別なんぞする筈が無い。
「第三国人」の語は国際法に則って説いた技術的専門用語に過ぎない。



終戦後の朝鮮人の横暴は目に余るものであった。
東京のど真ん中、銀座の交番に於いてさえ、朝鮮人を注意した巡査が複数の朝鮮人の襲撃を受け裸にされ警棒を尻に突っ込まれると言う乱暴を受けた。
当時の日本警察は拳銃の携帯が許されておらず、朝鮮人の横暴を止められなかった為、政府はマッカーサーに請願した。
これを受けて述べたのが、マッカーサーの「朝鮮人は戦勝国ではない第三者だ」と言う三国人発言である。

1950年にGHQは日本占領を集結し、解放し、実質的に戦後は終わったとされています。
その際に朝鮮人は日本籍を剥奪され、韓国籍として朝鮮に帰れと命令しました。
不要の朝鮮学校と民団総連も廃止し解散請求しました。

すると在日朝鮮人は、なにを履き違えたか「我々は戦勝国民であり日本を統治する立場だ」と叫びだし、革命を叫んで、公共施設を不法占拠し火炎瓶や武器で武装して決起したのです。
警察も拳銃で対抗し射殺された人もでました。

警察では対処できなくなり、GHQは軍隊の動員をして戦後初の戒厳令を敷いて朝鮮人による暴動を平定しました。

この戦後初の戒厳令が敷かれた朝鮮人動乱(正式名がない)事件は、日本の歴史からスッポリ抜けています。
死人も出ている事件なのに、日本の教科書には掲載されたことはありません。(日本各地で勃発しました、栃木や浅草などは戦争状態です)

逆に朝鮮学校の教科書には差別と弾圧として掲載され教育されています。
勿論、被害者側としてであり、立ち上がったのは国籍条項と朝鮮民族学校の廃校に対する抗議としてであると述べています。
日本人として、在日朝鮮人への危機感は常に持つべきですね。

言っておくが日本国内だけではない。
朝鮮半島を、朝鮮を近代化させて、恩あるはずの我ら先人の日本人を集団で襲って、強姦強盗不動産窃盗と悪の限りを尽くしたのを皆忘れてしまったのか。
多くの日本人は、朝鮮人に襲われ、無念にも命を落とし、帰れなかった人は数知れない。

彼らの悔しさを、日本人の敵朝鮮人に参政権と言う言葉は決して出てこないはずである。
このことを誰も伝えようとはしないが、事実は決して消える物ではない。
朝鮮人の日本人に対する犯罪は、触れては成らない理由があるのか不思議な日本人達だ。


なぜ日本にだけパチンコ屋があるのか?
今から70年ほど前、日韓併合後に朝鮮人は自らの意思で日本に渡ってきた。
その後日本は第二次世界大戦で連合国(米・英・オランダ・支那・オーストラリア)と戦争に突入。
英・オランダ・支那・オーストラリアには勝ったものの米に敗北し、ポツダム宣言を受け入れ連合国に降伏した。

すると朝鮮人たちは「我々は戦勝国民」であると主張し、「朝鮮進駐軍」と名乗り、各地で暴れ始めた。

当然、日本人は朝鮮人を強く憎むようになった。
そのため、在日朝鮮人は日本名を名乗るようになった。
朝鮮名を名乗ることは自分が犯罪者だと宣言しているようなものだったからだ。

その後、朝鮮人は共産主義者と組み、マスコミを使って歴史の捏造を始めた。
「強制連行されて来た」
「土地を奪われて仕方なく来た」等など。
そして強姦・殺人犯罪を謝罪するどころか、土地を占拠し続けながら、「俺達は何にも悪い事をしていないのに差別される」
「不当な差別を受けている」などと宣伝し始めた。

「朝鮮進駐軍」を知らない若い世代の日本人たちは在日に対して、罪悪感を持つようになった。

そして在日たちは日本人から奪い取った一等地で商売を始めた。
それがパチンコである。

今でもパチンコ業界の8割が在日経営者である。
パチンコ業界は今や30兆円産業と言われている。なんとあの日本が誇る自動車産業より上なのだ。

だが自動車産業とは違いこのパチンコ業界は、日本が誇るどころか日本が恥ずべき業界なのだ。
なぜならパチンコ業界は経営者の脱税と、北朝鮮への不正送金・犯罪の温床など日本人にとって極めて不利益になる事ばかりをしている。

「日本のパチンコがある限り我が国は安泰だ」(金正日)

日本の政治家や警察にもパチンコの金が流れている。
だから「パチンコ・パチスロはギャンブルではない娯楽だ。」なとどいう、馬鹿げた論理がまかり通っているのだ。

しかし祖母や曾祖母が朝鮮人に強姦された場所で、今の奴らはパチンコやスロットを打つとは‥‥‥
これは「日本人」以前に「人間」として恥ずるべき行為ではないのか?

在日朝鮮人が経営するパチンコ屋が駅前に多いのではなくて、パチンコ関係の会社の経営者は在日朝鮮人が殆どです。
それぞれの企業の代表者を調べれば中国式(朝鮮式)の名前です。
名前が日本風であっても通名である場合もあります。

そして他の風俗店、焼肉屋などにも多いです。
なぜ強制的に連れて来られたと騙っている彼らが、差別が酷かったと騙りながらも、今のように駅前で莫大な富を生み出す違法な賭博場を開けるまでになったのでしょうか‥‥

終戦後、駅前には闇市が出来上がり商売に適した場となりました。
当時、自分達を三国人と称して、自分達には治外法権が認められていると勘違いし、日本の闇市を席巻していたのは朝鮮半島出身者達でした。

彼らは「在日朝鮮人連盟」という自治団体を結成し、その組織の力をバックにやりたい事をやりまくりました。
警察署でさえ武器を手に持ち押し入って、留置所から仲間を連れ出すことさえやってのけました。

(全ての朝鮮人がそうであったとは言いません。 しかし、同胞の不正に目を瞑っているというのは酷い事です。)

他の方も書いておられますが、悲しい事にこの勢力に対抗できるのはヤクザしかいませんでした。

この事を、今のマスコミも教科書も伝えませんが、こんな酷い話を載せる事を編集者は怖がります。
それが元で憎悪が広がりかねませんから。

そしてマスコミも教科書もこの事を書けないのは常に朝鮮系の圧力団体(朝鮮総連や韓国民団)や、政治団体からの圧力があるからです。

教科書などはいつも圧力団体の抗議にさらされていますね。
そういった事実を書くと、必ず「それは民族差別である」という方が居られます。

しかし在った事を書けば差別で、見て見ぬ振りをすれば差別ではないのでしょうか?
これは民族差別ではなく、犯罪者差別です。

日本人には民族という概念は薄く、犯罪者を嫌う、という感覚が有ると思います。
むしろ民族、民族と口やかましいのは外国人だけであったりします。

最近まで、北朝鮮の拉致はでっちあげだと言っていた人たちがいます。
マスコミは拉致事件を大きく取り上げませんでした。

同じように、パチンコの問題も嘘で塗り固められ、マスコミは沈黙したままです。

で、不法占拠に関して言えば、駅前一等地をどんどん奪っていったというわけではなく、空襲などが激しくて殆ど元の住人がいなくなった地区単位で丸ごと奪ったという例を(神戸のある地区や柏市などと評された地域のことを)よく聞きます。

なぜこういった不法占拠が既成事実化してしまうところまで放置されてしまったのかは、弱者であることを強みにして暴力や脅迫などで民闘連を推し進めた成果でしょう。

新聞でちらっと書くだけで脅迫・暴行の対象になる訳ですから、ましてや教科書なんかには残るはずもない話であります。
ぶっちゃけ、在日朝鮮人・韓国人は不幸の民でもなんでもないよ。

あいつらは元々半島で差別を受けていた白丁という奴隷階級。
日本との併合で白丁たちは解放されたけど、それでも差別が強かったためろくな職業につくことができず日本に渡ってきた。
強制連行でもなんでもない。
しかも大半が密航。

関東大震災で朝鮮人が井戸に毒を投げたとかいうデマが広がって、あいつらはいまだにそのことを恨んでギャアギャア騒いでるけど、なんの根拠もなくそういう噂が広まったまけじゃない。

朝鮮人は、震災で倒壊した建物から金品を盗みだしたりしていて、それを戻ってきた住民に問いつめられると「ココワタシノイエ!」などと開き直って家主を唖然とさせた。

それまでの東京は、家に鍵を掛けなくても泥棒なんて滅多に入らないほど治安がよかったけど、それからはみんな家に鍵を掛けるようになった。

戦後に到っては、戦勝国でもないのに(大韓民国臨時政府は国際的に正式な臨時政府と認められていませんでした。 つーか日本と韓国は当時同じ国だったからあいつらも敗戦国)「独立だ!オレたちは朝鮮進駐軍だ!」とのたまって、各地でレイプや略奪を繰り返していました。

田舎に疎開していた人たちが家に戻ってくると、いつの間にか家が朝鮮人に乗っとられていて「朝鮮勝った!おまえら負けた!この家はおれのものだ!」と言って、元の住民は、ここが自分の土地だと証明する書類も戦争でなくしてしまい、どうすることもできなかったそうです。

駅前ってパチンコ屋だの金融業者が多いじゃないですか。 あれって、大半が戦後に在日朝鮮人が不法占拠した土地なんですよ(パチンコ屋と金融業は8〜9割が在日企業)。
在日は民潭や総連など暴力団ともつながりのある組織と繋がっているため、元の地主は取り返すことができず、田舎で細々とくらしているらしいです。

さらに許せないことは、戦後の混乱しているときに、朝鮮人は神風特攻隊の飛行服を着て悪逆非道を行なっていたということです。
わざわざ国のために死んでいった人たちを貶めるためにね!

これは現在の街宣右翼と呼ばれている連中も同じで、やつらの目的は愛国心=軍国・民族主義と一般人に刷り込むことです。

考えてもみて下さい、威圧的な車に乗って軍歌を大音量で流しているような連中を普通の人が見て、こころよく思うはずがありませんよね。
彼らの大半も、日本の弱体化を狙う在日や中国人です。
あげく、最近の在日は、自分達にも参政権を寄こせとか言ってくる!

外国人に地方参政権なんかあげたら最後、韓国が領有権を主張している竹島や対馬に集団で移り住んで自治宣言→韓国領に編入されてしまいますよ!
在日が日本を愛しているわけがないんです。
いや、そもそも本当にこの国を思っているのなら、帰化して日本国籍を取ればいいじゃないですか。
民族の自尊心とやらは、帰化したくらいで無くなってしまうほど薄っぺらいものなんでしょうか?

そんなことを言ったら、元々日本人とは人種の違うアイヌ人や沖縄県民に失礼です。
テレビなんかでいかに在日が不幸な民かをやっているけど、テレビ局は多数在日が潜り込んでおり、連中は自分達のためだけにしか動かない、やつらは不利になると情に訴えるけどだまされないで。



本当に彼らが言っていることが正しいのか、自分で様々な資料をよく調べて、考えてみて!

日本を守りましょう。

ウズベキスタンの「桜番」 学校が教えてくれない日本の歴史


話題:親日国




ウズベキスタンの「桜番」 学校が教えてくれない日本の歴史


今回の記事はくれば の ひとり語りさんからの転載です。
sahashipesu.blog.fc2.com


ウズベキスタンの「桜番」
〜学校が教えてくれない日本の歴史


「戦いに敗れても日本人は、誇りを失うことなく骨身を惜しまず働いて立派な仕事を残した。 素晴らしい民族だ」
私達は以下のような内容を学校で教わりません。
与えられない為、日本人を日本人が「戦犯」と呼ぶ国、日本。
与えられない為、日本人の生き様から何かを学び取る機会も感謝する機会も弔う機会もない日本人。
どうか知ってください。


「ウズベキスタンの桜番」

中東近辺にウズベキスタンという国があります。
そのウズベキスタンの首都タシケント市に国立ナポイ劇場があります。
この建物は、戦後間もない昭和23(1948)年に、約2年の月日をかけて完成したものです。

タシケント市には、過去二度に渡り大地震が起こりました。
その際、市内の建造物は、ほとんどが倒壊しました。
しかし、二度の大地震に、ナポイ劇場はビクともしなかった。
タシケントのウズベキスタン人たちは、そんな劇場を眺め次のように言いました。

「戦いに敗れても日本人は誇りを失うことなく骨身を惜しまず働いて立派な仕事を残した。 素晴らしい民族だ」

もうお分かりいただけたでしょうか?
ナポイ劇場を作ったのは日本人のシベリア抑留者の方々なのです。

ナポイ劇場の建造は、500人の日本人抑留者が担当しました。 そのうち60人が、建築途中で亡くなられています。

10人にひとりが亡くなりました。
どれだけひどい環境下にあったか、その数字だけをみても明らかです。

日本人たちの様子については、山崎豊子の小説「不毛地帯」に詳しく紹介されています。


裸にされて並ばせられると、すぐ前に立っている男の肛門まで、上から見えた。
ろくな食事も与えられず、全員がそこまでガリガリにやせ細っていた。
建設工事の途中、あまりの労苦に耐えかねたひとりの日本人が、クレーンの先端まで駈け上がって「天皇陛下万歳!」と叫んで飛び降り自殺した


ここでシベリア抑留について記載いたします。

シベリアに抑留された日本人は65万人。
シベリアに連行された日本人は、旧満鉄の職員や技術者、関東軍の工兵たちなどです。
要するに技術者集団です。

ソ連は、ヤルタ協定を一方的に破棄して対日参戦しただけでなく、満洲や朝鮮半島、樺太などを一方的に占有し、日本軍から奪った武器弾薬兵器は、シナの八路軍(中国共産党)や、北朝鮮金日成らに無料同然で売り渡しました。
そして、日本人技術者たちを強制連行しソ連のインフラ整備のために無料で使役していました。

65万人の技術者集団を単に抑留するだけなら、食費や施設の維持費等で、建国したてのソ連は大赤字となります。
それを、給料無料、ろくな食事も与えず、日本人の持つ高い技術と能力、旧満洲にあった機械や設備をまるごと持ち帰り、ソ連の建国のために使役しました。

道路敷設、水力発電施設の建設、鉄道施設の充実強化、森林伐採、農場経営、建物建築等々。
旧ソ連は、莫大な国費を要するそれら国内インフラの整備事業を、拉致した日本人65万人を使いソ連全土で展開しました。


ウズベキスタンに話を戻しましょう。

ウズベキスタンのタシケント市に抑留された2万5千人の日本人達も、同じです。
運河や炭鉱などの建設や、発電所、学校などの公共施設の建築などの強制労働につかせれ、過酷な気候条件と、厳しい収容所生活、栄養失調や病気、事故などで、合計813人の日本人がこの地で亡くなられています。

実は日本人の造った道路や発電所などの施設は、いまでもウズベキスタンの重要な社会インフラとして残っています。(ウズベキスタンだけではなくロシアにも)
それどころか、国立ナポイ劇場の建物などは、いまやウズベキスタン人たちの誇りとさえなっています。

ウズベキスタンの市民たちは、劇場が建設された当時のことをよく覚えているといいます。
日本人たちが、捕虜なのにどうしてあそこまで丁寧な仕事をするのか、真面目に働くのか不思議がったといいます。

中山恭子元内閣特命大臣がウズベキスタン大使として赴任した、平成11年。
中山氏は、ウズベキスタンにて現在も国民に電気を供給している水力発電所の建設を仕切った元現場監督に会ったそうです。
その元監督は、涙ながらに語ったそうです。

過酷に働かされた工事でも、決して手抜きをせずまじめに仕上げてしまう日本人。
栄養失調でボロボロの体になりながらも、愚痴も文句も言わないどころか、明るい笑顔さえあった日本人。
昨日、具合悪そうだったけれど、笑顔を向けてくれた日本人が、今日は来ていない。
どうしたのかというと、昨夜栄養失調で死んだという。
それほどまでに過酷な状況にあってなお、きちんとした仕事をしてくれた日本人。

現在、ウズベキスタンの母たちは子供にこう教えるそうです。

「日本人のようになりなさい」

ウズベキスタンの人はこうも言います。

「日本人の捕虜は正々堂々としていた。 ドイツ人捕虜が待遇改善を叫んでいたのに対して、彼らは戦いに敗れても日本のサムライの精神をもっていた。 強制労働でも粛々と作業につく姿を見て、我々市民は彼らに何度か食料を運んだのです。」

ウズベキスタンには日本人墓地があります。



細い木で組んだ粗末な十字架が、そこにいくつも並んでいます。
旧ソ連時代、日本人の墓など作ってはならない、墓はあばいて、遺体は捨てろ、という命令もあったのだそうです。

しかしそれでも、ウズベキスタン人たちは、ひっそりと日本人の墓を護りぬいてくれました。

それは日本人が作ってくれた建物や発電所などが、いまでもウズベキスタンの人々の生活をささえてくれることへの、せめてもの恩返しだったのだといいます。


平成8年、ソ連崩壊。

同時にウズベキスタンは独立。
大統領のカリモフ氏が自ら進んで、壮麗なナポイ劇場に、日本人抑留者の功績を記したプレートを掲げて下さいました。
そこには、ウズベク語、日本語、英語でこう書かれています。

「1945年から46年かけて極東から強制移住させられた数百人の日本人がこの劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」

この知らせを聞いた中山恭子大使の夫、中山成彬元国土交通大臣は、ウズベキスタンの日本人墓地の整備をしようと、日本人へ呼び掛けます。
宮崎の事務所を拠点にして、元抑留者や応援者たちに声をかけ、寄付金を募りました。

寄付は、宮崎県内から半分、県外から半分が集ります。
そして中山夫妻は、ウズベキスタンに行き、このお金でお墓の整備をと申し出ます。

するとウズベキスタン大統領は、これを拒否しました。
「亡くなられた日本人に、わたしたちは心から感謝しているのです。 このお金は受け取れません。
わたしたちで、日本人のお墓を整備させてください。」

そしてウズベキスタンの人々は、日本人墓地を、美しい公園墓地にし、日本人を顕彰します。

中山成彬ご夫妻は集めた寄付金で、ウズベキスタンの学校に教育機材をご提供しましょうと申し出ます。

そしてパソコンや教材などを買いそろえ、寄贈しました。
さらに残った費用は日本人墓地と、ウズベキスタン中央公園に桜の木を贈ろうと話します。

「きっと生きて祖国に帰りたかったであろう人たちに、せめて、日本の桜を毎年、ずっと見せてあげたい」

中山成彬氏は日本さくらの会に交渉し、日本から桜を、ウズベキスタンに寄贈します。

いま、ウズベキスタンの日本人墓地と、中央公園には、日本から寄贈された1900本の桜の木が、毎年美しい花を咲かせています。

あまりにも桜が美しいことから「桜どろぼう」が出没。

桜の木を根こそぎ持って行かれてしまう。

ウズベキスタンでは、日本から寄贈された桜を守るために、専門の「さくら番」を雇い、さくらの木の保護をしてくれています。
今もずっと。


タシケント中央公園に植樹した桜


ウズベキスタンに咲く桜(大使館前)


シベリア抑留者の悲劇。

その悲劇の中でも笑顔を失わず、立派な仕事を残した日本人。

祖国に帰れなかった彼らのため、お墓の整備や桜の寄贈を呼び掛け、これに応じてくださった心優しい日本人。

その心を大切にするために、1年365日、桜番を雇い、警護をしてくださるウズベクの人々の誠意。

以上、現在日本が行なっているジギャクシ観教育が日本人に教えない日本人の生き様。

現在日本が行なっているジギャクシ観教育が日本人に教えない「日本人の生き様が生んだ人間の誠意や優しさ」

与えられなければ、生き様から学ぶことも、生き様を伝えることも、その生き様から生まれた、人間の誠意や優しさに学び感謝することもできない。
私はそう思います。

またこうも思うのです。

ジギャクシ観のような虚偽の捏造では「友好」なんてものは生まれはしないと。

そうでないからこそ、向き合うからこその「友好」だと私は思います。

以下はその結果でしょう。




ウズベキスタン。
親日家が多く日本語教育も盛んです。
独立後からの学習者は延べ2万人にもなり、大学や高校、観光カレッジ、日本センター、NIRIKO学級などで学んでいます。
日本語弁論中央アジア大会では2009年に優勝もしています。
また日本への留学生も現在100名以上に上ります。

スタンドに手作りの「日の丸」 震災に心痛めるウズベクの人々

「ジャパン? ツナミ?」。

タクシーに乗るたびに、運転手から心配そうに声を掛けられた。

来年のロンドン五輪出場を目指すサッカーのU-22(22歳以下)日本代表が遠征したウズベキスタンの首都タシケント。
遠く離れた中央アジアの地でも、東日本大震災の大きな被害に、人々は心を痛めていた。

26日のU-22ウズベキスタン代表との第1戦の試合前のことだった。 地元のサポーターが大きな紙の束を抱えながら話しかけてきた。
「ウズベキスタンの国旗は3枚しか持ってきていないけれど、日本の国旗は300枚も用意したんだ」。

白い画用紙の真ん中に赤いスプレーをかけただけの手作り「日の丸」だったが、日本のことを気遣って準備してくれたのだと思うとジーンと来た。

試合になるとスタンドには日の丸だけでなく「with you JAPAN」の横断幕が掲げられ、地元のサポーターからは「ニッポン」コールも起こった。
下記サイトより一部引用
www.47news.jp

私は上記を知ることで、ウズベキスタンに眠る日本人の先人達の生き様を知ることができました。

知る前にはできなかった、ウズベキスタンの誠意に感謝することと、そしてウズベキに眠る日本人の先人達を想う事ができるようになりました。

「戦いに敗れても日本人は、誇りを失うことなく骨身を惜しまず働いて立派な仕事を残した。 素晴らしい民族だ」

私は先人のような振る舞いが出来るだろうか?
当時の過酷さを知らない私には100%の明確な答えが出ません。

そんな私にも出来ること。

先人達の生き様を語りつぐこと。

先人達が生きた証を伝え続けること。

忘れないこと。

先人達に少しでも「恥じない」生き方をすること。

ジギャクシ観教育とは、そんなことを想う機会さえ、私達から奪うのです。

いったいそこに、私達日本人にとって何のメリットがあるのでしょうか?

反日国家に都合がいいだけの有益な未来を生むことなぞない日教組によるジギャクシ観教育に反対。

日本人は日本の歴史を。

そして、先人達の土の上、私達は白をきり、あぐらをかくことなく「恥じない」生き方をしたいものです。

日の丸を貼った漁船で漁に出るモーリタニアの人々


話題:親日国



日の丸を貼った漁船で漁に出るモーリタニアの人々



ODAちょっといい話 稀有な運命で救われた日本人からの転載です。
googleweblight.com


稀有な運命で救われた日本人


1993年のパリ・ダカールラリーでの話。
日本人のアマチュア・ドライバーが運転する四輪駆動車が、モーリタニアの最西端ヌアジブから首都ヌアクショットに向かう途中、マンガール村という小さな漁村近くで、砂漠に突き出た岩山に激突、大破した。

ドライバー、ナビゲーターともに複雑骨折などの重症を負ったが、車はペシャンコで、自力で車外に出ることもできない。
発見が遅れれば死んでいただろう。

が、運よくそこに、ラクダを引いたひとりの少年が通りかかった。

惨状を目にした少年は、自分の村まで取って返すと、「お父さんたちが乗っている漁船と同じマークの付いた自動車が岩に突っ込んだ。 早く助けてあげて」と叫んで回った。

漁船と同じマークとは、日本の国旗のことである。

「日本の車」と聞いて、村人たちはスワッ一大事。
漁に出ている者も呼び戻すと、村人総出で救出に向かった。

2人の日本人は、村から軍の駐屯地へ、さらにヘリコプターで病院へと迅速に搬送され、そのお陰で2人とも一命を取り止めることができたのだった。

ところで、マンガール村の人たちはなぜ、「日本の車」と聞いて救出に躍起になったのか。

なぜ漁船に日の丸が貼ってあったのか。

その理由を知る日本人は少ない。

事故に遭った日本人がその理由を知ったのも、後のことだった。


この村では、ほとんどの人が漁業で生計を立ててきたが、漁船といっても小さな手漕ぎボートしかなかったために、大西洋の荒波を越えて沖合いに出ることもままならない。
漁獲量も知れたものだった。

それを知った日本は1992年、沿岸漁業振興計画の一環として、無償援助で漁船や船外機をこの村に贈ったのだが、その際、モーリタニアと日本の友好の印として両国の国旗を並べて貼った。

事故現場に遭遇した少年は、その「日の丸」を見覚えていたのだった。

その後の日本は、当初の計画通り、1994にも漁船45隻、船外機61機を無償供与し、モーリタニアの沿岸漁業の漁獲高は大幅に伸びた。

日本の技術指導によってエンジンの整備士も育ち、漁船エンジンの修理も自前でできるようになった、という望外の成果も上がった。

そんなわけで、マンガール村の人たちの日本に対する感謝の気持ちは並々ならぬものがあったのだが、日本に恩返ししたくても、その手立てが見当たらない。

パリ・ダカの日本人の事故は、彼らが日本に恩返しをする千載一遇のチャンスとなったのである。

稀有な運命の巡り合わせが、日本とモーリタニアの友好を、さらに深めることになったのはいうまでもない。




以上で転載を終わります。

マンガール村の人々は、日本から受けた恩に対して、行動で報いてくれました。
本当にありがとうございます!

こちらも日本人として、とても心が暖かくなりました♪

モーリタニアのマンガール村の人たちのように「恩義を受けたらその恩を返したい」と思うのが普通の人間でしょう。


ところが恩に対して仇で返す国が日本の隣に存在しています!

しかも史実を捩じ曲げて、日本がやってもいない罪をでっち上げるという卑劣なやり方でね(怒)

こんなやり方をいつまでも許しておく訳にはいきません。
必ず相応の報いをくれてやりましょう!!

モーリタニアの人々には恩を、特定アジアには相応の裁きを!
因果応報です。

日本とトルコを結ぶ絆「エルトゥールル号」


話題:親日国




日本とトルコを結ぶ絆「エルトゥールル号」


エルトゥールル号の遭難 〜生命の光から〜からの転載です
www.locopoint.net


和歌山県の南端串本に大島がある。その東には灯台がある。
明治三年(1870年)にできた樫野崎灯台。
今も断崖の上に立っている。石造灯台として現役で最古の灯台。

びゅわーんびゅわーん、猛烈な風が灯台を打つ。
どどどーんどどどーん、波が激しく断崖を打つ。
台風が大島を襲った。明治二十三年九月十六日の夜であった。

午後九時ごろ、どどかーんと、風と波をつんざいて、真っ暗な海のほうから音がした。
灯台守(通信技手)は、はっきりとその爆発音を聞いた。
「何か大変なことが起こらなければいいが」灯台守は胸騒ぎした。しかし、風と、岩に打ちつける波の音以外は、もう、何も聞こえなかった。

このとき、台風で進退の自由を失った木造軍艦が、灯台のほうに押し流されてきた。
全長七十六メートルもある船。しかし、まるで板切れのように、風と波 の力でどんどん近づいてくる。
あぶない!灯台のある断崖の下は「魔の船甲羅」と呼ばれていて、海面には、岩がにょきにょき出ている。
ぐうぐうわーん、ばりばり、ばりばりばり。
船は真っ二つに裂けた。その瞬間、エンジンに海水が入り、大爆発が起きた。

この爆発音を灯台守が聞いたのだった。
乗組員は海に放り出され、波にさらわれた。またある者は自ら脱出した。真っ暗な荒れ狂う海。どうすることもできない。波に運ばれるままだった。そして、岩にたたきつけられた。
一人の水兵が、海に放り出された。大波にさらわれて、岩にぶつかった。
意識を失い、岩場に打ち上げられた。
「息子よ、起きなさい」
懐かしい母が耳元で囁いているようだった。
「お母さん」という自分の声で意識がもどった。
真っ暗な中で、灯台の光が見えた。
「あそこに行けば、人がいるに違いない」
そう思うと、急に力が湧いてきた。四十メートルほどの崖をよじ登り、ようやく灯台にたどり着いたのだった。

灯台守はこの人を見て驚いた。服がもぎ取られ、ほとんど裸同然であった。顔 から血が流れ、全身は傷だらけ、ところどころ真っ黒にはれあがっていた。
灯台守は、この人が海で遭難したことはすぐわかった。
「この台風の中、岩にぶち当たって、よく助かったものだ」と感嘆した。
「あなたのお国はどこですか」
「・・・・・・」
言葉が通じなかった。
それで「万国信号音」を見せて、初めてこの人はトルコ人であること、船はトルコ軍艦であることを知った。また、身振りで、多くの 乗組員が海に投げ出されたことがわかった。

「この乗組員たちを救うには人手が要る」
傷ついた水兵に応急手当てをしながら、灯台守はそう考えた。
「樫野の人たちに知らせよう」
灯台からいちばん近い、樫野の村に向かって駆けだした。電灯もない真っ暗な夜道。
人が一人やっと通れる道。灯台守は樫野の人たちに急を告げた。
灯台にもどると、十人ほどのトルコ人がいた。全員傷だらけであった。助けを求めて、みんな崖をよじ登ってきたのだった。
この当時、樫野には五十軒ばかりの家があった。船が遭難したとの知らせを聞いた男たちは、総出で岩場の海岸に下りた。
だんだん空が白んでくると、海面にはおびただしい船の破片と遺体が見えた。目をそむけたくなる光景であった。

村の男たちは泣いた。
遠い外国から来て、日本で死んでいく。男たちは胸が張り裂けそうになった。
「一人でも多く救ってあげたい」
しかし、大多数は動かなかった。一人の男が叫ぶ。
「息があるぞ!」
だが触ってみると、ほとんど体温を感じない。
村の男たちは、自分たちも裸になって、乗組員を抱き起こした。 自分の体温で彼らを温めはじめた。
「死ぬな!」
「元気を出せ!」
「生きるんだ!」
村の男たちは、我を忘れて温めていた。次々に乗組員の意識がもどった。

船に乗っていた人は六百人余り。そして、助かった人は六十九名。
この船の名はエルトゥールル号である。
助かった人々は、樫野の小さいお寺と小学校に収容された。当時は、電気、水道、ガス、電話などはもちろんなかった。
井戸もなく、水は雨水を利用した。 サツマイモやみかんがとれた。
漁をしてとれた魚を、対岸の町、串本で売ってお米に換える貧しい生活だ。
ただ各家庭では、にわとりを飼っていて、非常食として備えていた。
このような村落に、六十九名もの外国人が収容されたのだ。

島の人たちは、生まれて初めて見る外国人を、どんなことをしても、助けてあげたかった。
だが、どんどん蓄えが無くなっていく。ついに食料が尽きた。
台風で漁ができなかったからである。

「もう食べさせてあげるものがない」
「どうしよう!」
一人の婦人が言う。
「にわとりが残っている」
「でも、これを食べてしまったら・・・・・」
「お天とうさまが、守ってくださるよ」
女たちはそう語りながら、最後に残ったにわとりを料理して、トルコの人達に食べさせた。
こうして、トルコの人たちは、一命を取り留めたのであった。また、大島の人たちは、遺体を引き上げて、丁重に葬った。

このエルトゥールル号の遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、そして明治天皇に言上された。
明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣をなされた。
さらに礼を尽くし、生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて、トルコに送還なされた。
このことは、日本じゅうに大きな衝撃を与えた。
日本全国から弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられた。


次のような後日物語がある。



イラン・イラク戦争の最中、1985年3月17日の出来事である。

イラクのサダム・フセインが、「今から四十八時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」と、無茶苦茶なことを世界に向けて発信した。

日本からは企業の人たちやその家族が、イランに住んでいた。
その日本人たちは、あわててテヘラン空港に向かった。
しかし、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。
世界各国は自国の救援機を出して、救出していた。
日本政府は素早い決定ができなかった。
空港にいた日本人はパニック状態になっていた。

そこに、二機の飛行機が到着した。
トルコ航空の飛行機であった。
日本人二百十五名全員を乗せて、成田に向けて飛び立った。
タイムリミットの一時間十五分前であった。
なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。

前・駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。

「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生のころ、歴史教科書で学びました。
トルコでは、子どもたちさえ、エルトゥールル号のことを知っています。
今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」
文・のぶひろ としもり

エルトゥールル号の話は111年前の真実ですが、16年前のイラン・イラク戦争時には、多くの日本人がトルコの人によって救われました。
決して、多くに知られてはいない真実あなたはどう思いましたか?

辛いニュースが多い世の中にほんの少しやさしさを取り戻せる、この『小さな歴史の物語』が、また、あなたに何かを思い出させてくれることを・・・・

さて、このエルトゥールル号の話は、日本では教科書に掲載されていません。
海難の話では、エルトゥールル号の4年前1886年(明治19年)におこったノルマントン号事件について、イギリスとの不平等条約による屈辱の歴史について記載されています。

イギリスではノルマントン号事件について教えているのだろうか?

アメリカでは、毎年パールハーバーの日がくると、「パールハーバーを忘れるな!」という趣旨のイベントが行われ「卑怯なジャップめ!」と軽蔑と憎しみの感情を新たにする人も沢山いますね。
でもアメリカでは原爆投下の日に大々的なイベントはしてないですよね。

日本は、朝鮮併合から始まった朝鮮人差別とか侵略の歴史は教科書で、ちゃんと教えてないから、バカチョンカメラのチョンは、朝鮮人差別用語からきている!と考えているひともいるしねぇ、、、

なぜ、日本では屈辱の歴史については学ばせているのに、このような心温まる話について教えないのだろう?

将来日本の教科書に、 このトルコ航空の話がのればいいですね。(^^)





以上で転載を終わります。

トルコが世界トップクラスの親日国家である理由は、エルトゥールル号の遭難事故に真摯な対応で多くの命を救った樫野の村民達と、事故後に見せた日本の手厚い対応だった訳ですね。
日本の教育現場は歴史捏造バリバリの自虐史観ではなく、こういった誇らしい先人たちの善行を時間をかけてキチンと教えるべきじゃないんでしょうか?

100年以上昔の恩義に対して、命懸けで恩返しをしてくれたトルコの人々に改めて感謝するとともに、こういったトルコの善行を日本の人々に伝え語り継いでいき、両国の友情をより深めていけるようにしていきたいものです。

命懸けで日の丸を守ってくれた外国人


話題:親日国




転載元
mblg.tv


国旗の重み 〜命懸けで日の丸を守ってくれた外国人〜



イラク戦の最中、大きな打撃を受けたバグダッド市内。
激しい戦闘や略奪が繰り返される中、必死に日本大使館を守って下さったのは、近くに住むイラク人家族でした。

日本人スタッフが国外退避し、大使館業務を停止した後、14人のイラク人スタッフが情報収集や警備を続けていました。

しかし、市街戦などが相次ぎ、バグダッド陥落の前後は、現地スタッフさえ出勤できなくなっていました。

大使館は、空爆による大きな被害は受けませんでしたが、多くの盗賊たちに狙われました。

「裕福な日本の大使館なら、宝物があると誰でも思うさ」と、イラク人の警備担当者は語ります。

そんな中、大使館を守ったのは、向かいに住む元公務員モナサル・アルオブーディさん(45)一家でした。

バグダッドが陥落した翌日、一家6人は協力して、外交官ナンバーの乗用車を自宅の庭に隠し大使館内に掲げられていた日の丸を下ろし、看板をはずしました。

「日本大使館だと分かれば、盗賊たちに狙われると思ったから、自主的にやったんだ。
国旗はどの国の国民にとっても一番大切なものだろう?
燃えたり奪われたりしたら、みんなが悲しむと思って」

モナサルさんはそう話し、ほこりと油煙ですすけた日の丸を大事そうに広げてみせた。



盗賊たちは、何度も姿を見せたといいます。
そのたびにモナサルさんは、ガラシコニフ小銃を携えて自宅2階に駆け上がり、応戦しました。

「撃ち返されたこともあったが、大使館を守るために必死だった」とモナサルさんは当時を振り返ります。

大使館からはパソコン4台とエアコン1台が奪われてしまいましたが、「あの混乱の中、これだけの被害で済んだのは彼らのおかげだ」と、イラク人の大使館スタッフは感謝をしています。

モナサルさんは「私は15年間もここに住んでいる。大使館は大切な隣人。
隣人を守るのはイラク人の務めだ」と誇らしげに語り、
「我が家は日本人が大好きなんだ。 みんなやさしいからね」と微笑みました。





以上はとのブログ 日本を守りたいさんより抜粋して転載させていただきました。
s.ameblo.jp


まずは、文字通り「命懸け」で日の丸を守ってくれたモナサルさん一家に心からお礼を言いたいです。


「モナサルさんと家族の皆さん、本当にありがとうございました。」



「国旗はどの国の国民にとっても一番大切なものだろう?」
モナサルさんのこの言葉が世界中どの国でも当たり前の事なんです。

しかし日本では、左翼政治家や日教組や左翼マスコミや市民団体と称する左翼団体の連中みたいに、日の丸を目の敵にしている連中がウヨウヨしています。

日の丸や君が代に対して必死にレッテルを貼り付ける連中は、どいつもこいつも本当に日本への愛国心の欠片も持っていない事は明白です。

日本を日本人の手に取り戻す為には、この手の寄生虫共を日本から叩き出す事が肝要だと思います。



日の丸や君が代にレッテル貼ろうと躍起になっている連中を、俺は心底軽蔑します!!
前の記事へ 次の記事へ
カレンダー
<< 2016年06月 >>
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30