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ウズベキスタンの「桜番」 学校が教えてくれない日本の歴史


話題:親日国




ウズベキスタンの「桜番」 学校が教えてくれない日本の歴史


今回の記事はくれば の ひとり語りさんからの転載です。
sahashipesu.blog.fc2.com


ウズベキスタンの「桜番」
〜学校が教えてくれない日本の歴史


「戦いに敗れても日本人は、誇りを失うことなく骨身を惜しまず働いて立派な仕事を残した。 素晴らしい民族だ」
私達は以下のような内容を学校で教わりません。
与えられない為、日本人を日本人が「戦犯」と呼ぶ国、日本。
与えられない為、日本人の生き様から何かを学び取る機会も感謝する機会も弔う機会もない日本人。
どうか知ってください。


「ウズベキスタンの桜番」

中東近辺にウズベキスタンという国があります。
そのウズベキスタンの首都タシケント市に国立ナポイ劇場があります。
この建物は、戦後間もない昭和23(1948)年に、約2年の月日をかけて完成したものです。

タシケント市には、過去二度に渡り大地震が起こりました。
その際、市内の建造物は、ほとんどが倒壊しました。
しかし、二度の大地震に、ナポイ劇場はビクともしなかった。
タシケントのウズベキスタン人たちは、そんな劇場を眺め次のように言いました。

「戦いに敗れても日本人は誇りを失うことなく骨身を惜しまず働いて立派な仕事を残した。 素晴らしい民族だ」

もうお分かりいただけたでしょうか?
ナポイ劇場を作ったのは日本人のシベリア抑留者の方々なのです。

ナポイ劇場の建造は、500人の日本人抑留者が担当しました。 そのうち60人が、建築途中で亡くなられています。

10人にひとりが亡くなりました。
どれだけひどい環境下にあったか、その数字だけをみても明らかです。

日本人たちの様子については、山崎豊子の小説「不毛地帯」に詳しく紹介されています。


裸にされて並ばせられると、すぐ前に立っている男の肛門まで、上から見えた。
ろくな食事も与えられず、全員がそこまでガリガリにやせ細っていた。
建設工事の途中、あまりの労苦に耐えかねたひとりの日本人が、クレーンの先端まで駈け上がって「天皇陛下万歳!」と叫んで飛び降り自殺した


ここでシベリア抑留について記載いたします。

シベリアに抑留された日本人は65万人。
シベリアに連行された日本人は、旧満鉄の職員や技術者、関東軍の工兵たちなどです。
要するに技術者集団です。

ソ連は、ヤルタ協定を一方的に破棄して対日参戦しただけでなく、満洲や朝鮮半島、樺太などを一方的に占有し、日本軍から奪った武器弾薬兵器は、シナの八路軍(中国共産党)や、北朝鮮金日成らに無料同然で売り渡しました。
そして、日本人技術者たちを強制連行しソ連のインフラ整備のために無料で使役していました。

65万人の技術者集団を単に抑留するだけなら、食費や施設の維持費等で、建国したてのソ連は大赤字となります。
それを、給料無料、ろくな食事も与えず、日本人の持つ高い技術と能力、旧満洲にあった機械や設備をまるごと持ち帰り、ソ連の建国のために使役しました。

道路敷設、水力発電施設の建設、鉄道施設の充実強化、森林伐採、農場経営、建物建築等々。
旧ソ連は、莫大な国費を要するそれら国内インフラの整備事業を、拉致した日本人65万人を使いソ連全土で展開しました。


ウズベキスタンに話を戻しましょう。

ウズベキスタンのタシケント市に抑留された2万5千人の日本人達も、同じです。
運河や炭鉱などの建設や、発電所、学校などの公共施設の建築などの強制労働につかせれ、過酷な気候条件と、厳しい収容所生活、栄養失調や病気、事故などで、合計813人の日本人がこの地で亡くなられています。

実は日本人の造った道路や発電所などの施設は、いまでもウズベキスタンの重要な社会インフラとして残っています。(ウズベキスタンだけではなくロシアにも)
それどころか、国立ナポイ劇場の建物などは、いまやウズベキスタン人たちの誇りとさえなっています。

ウズベキスタンの市民たちは、劇場が建設された当時のことをよく覚えているといいます。
日本人たちが、捕虜なのにどうしてあそこまで丁寧な仕事をするのか、真面目に働くのか不思議がったといいます。

中山恭子元内閣特命大臣がウズベキスタン大使として赴任した、平成11年。
中山氏は、ウズベキスタンにて現在も国民に電気を供給している水力発電所の建設を仕切った元現場監督に会ったそうです。
その元監督は、涙ながらに語ったそうです。

過酷に働かされた工事でも、決して手抜きをせずまじめに仕上げてしまう日本人。
栄養失調でボロボロの体になりながらも、愚痴も文句も言わないどころか、明るい笑顔さえあった日本人。
昨日、具合悪そうだったけれど、笑顔を向けてくれた日本人が、今日は来ていない。
どうしたのかというと、昨夜栄養失調で死んだという。
それほどまでに過酷な状況にあってなお、きちんとした仕事をしてくれた日本人。

現在、ウズベキスタンの母たちは子供にこう教えるそうです。

「日本人のようになりなさい」

ウズベキスタンの人はこうも言います。

「日本人の捕虜は正々堂々としていた。 ドイツ人捕虜が待遇改善を叫んでいたのに対して、彼らは戦いに敗れても日本のサムライの精神をもっていた。 強制労働でも粛々と作業につく姿を見て、我々市民は彼らに何度か食料を運んだのです。」

ウズベキスタンには日本人墓地があります。



細い木で組んだ粗末な十字架が、そこにいくつも並んでいます。
旧ソ連時代、日本人の墓など作ってはならない、墓はあばいて、遺体は捨てろ、という命令もあったのだそうです。

しかしそれでも、ウズベキスタン人たちは、ひっそりと日本人の墓を護りぬいてくれました。

それは日本人が作ってくれた建物や発電所などが、いまでもウズベキスタンの人々の生活をささえてくれることへの、せめてもの恩返しだったのだといいます。


平成8年、ソ連崩壊。

同時にウズベキスタンは独立。
大統領のカリモフ氏が自ら進んで、壮麗なナポイ劇場に、日本人抑留者の功績を記したプレートを掲げて下さいました。
そこには、ウズベク語、日本語、英語でこう書かれています。

「1945年から46年かけて極東から強制移住させられた数百人の日本人がこの劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」

この知らせを聞いた中山恭子大使の夫、中山成彬元国土交通大臣は、ウズベキスタンの日本人墓地の整備をしようと、日本人へ呼び掛けます。
宮崎の事務所を拠点にして、元抑留者や応援者たちに声をかけ、寄付金を募りました。

寄付は、宮崎県内から半分、県外から半分が集ります。
そして中山夫妻は、ウズベキスタンに行き、このお金でお墓の整備をと申し出ます。

するとウズベキスタン大統領は、これを拒否しました。
「亡くなられた日本人に、わたしたちは心から感謝しているのです。 このお金は受け取れません。
わたしたちで、日本人のお墓を整備させてください。」

そしてウズベキスタンの人々は、日本人墓地を、美しい公園墓地にし、日本人を顕彰します。

中山成彬ご夫妻は集めた寄付金で、ウズベキスタンの学校に教育機材をご提供しましょうと申し出ます。

そしてパソコンや教材などを買いそろえ、寄贈しました。
さらに残った費用は日本人墓地と、ウズベキスタン中央公園に桜の木を贈ろうと話します。

「きっと生きて祖国に帰りたかったであろう人たちに、せめて、日本の桜を毎年、ずっと見せてあげたい」

中山成彬氏は日本さくらの会に交渉し、日本から桜を、ウズベキスタンに寄贈します。

いま、ウズベキスタンの日本人墓地と、中央公園には、日本から寄贈された1900本の桜の木が、毎年美しい花を咲かせています。

あまりにも桜が美しいことから「桜どろぼう」が出没。

桜の木を根こそぎ持って行かれてしまう。

ウズベキスタンでは、日本から寄贈された桜を守るために、専門の「さくら番」を雇い、さくらの木の保護をしてくれています。
今もずっと。


タシケント中央公園に植樹した桜


ウズベキスタンに咲く桜(大使館前)


シベリア抑留者の悲劇。

その悲劇の中でも笑顔を失わず、立派な仕事を残した日本人。

祖国に帰れなかった彼らのため、お墓の整備や桜の寄贈を呼び掛け、これに応じてくださった心優しい日本人。

その心を大切にするために、1年365日、桜番を雇い、警護をしてくださるウズベクの人々の誠意。

以上、現在日本が行なっているジギャクシ観教育が日本人に教えない日本人の生き様。

現在日本が行なっているジギャクシ観教育が日本人に教えない「日本人の生き様が生んだ人間の誠意や優しさ」

与えられなければ、生き様から学ぶことも、生き様を伝えることも、その生き様から生まれた、人間の誠意や優しさに学び感謝することもできない。
私はそう思います。

またこうも思うのです。

ジギャクシ観のような虚偽の捏造では「友好」なんてものは生まれはしないと。

そうでないからこそ、向き合うからこその「友好」だと私は思います。

以下はその結果でしょう。




ウズベキスタン。
親日家が多く日本語教育も盛んです。
独立後からの学習者は延べ2万人にもなり、大学や高校、観光カレッジ、日本センター、NIRIKO学級などで学んでいます。
日本語弁論中央アジア大会では2009年に優勝もしています。
また日本への留学生も現在100名以上に上ります。

スタンドに手作りの「日の丸」 震災に心痛めるウズベクの人々

「ジャパン? ツナミ?」。

タクシーに乗るたびに、運転手から心配そうに声を掛けられた。

来年のロンドン五輪出場を目指すサッカーのU-22(22歳以下)日本代表が遠征したウズベキスタンの首都タシケント。
遠く離れた中央アジアの地でも、東日本大震災の大きな被害に、人々は心を痛めていた。

26日のU-22ウズベキスタン代表との第1戦の試合前のことだった。 地元のサポーターが大きな紙の束を抱えながら話しかけてきた。
「ウズベキスタンの国旗は3枚しか持ってきていないけれど、日本の国旗は300枚も用意したんだ」。

白い画用紙の真ん中に赤いスプレーをかけただけの手作り「日の丸」だったが、日本のことを気遣って準備してくれたのだと思うとジーンと来た。

試合になるとスタンドには日の丸だけでなく「with you JAPAN」の横断幕が掲げられ、地元のサポーターからは「ニッポン」コールも起こった。
下記サイトより一部引用
www.47news.jp

私は上記を知ることで、ウズベキスタンに眠る日本人の先人達の生き様を知ることができました。

知る前にはできなかった、ウズベキスタンの誠意に感謝することと、そしてウズベキに眠る日本人の先人達を想う事ができるようになりました。

「戦いに敗れても日本人は、誇りを失うことなく骨身を惜しまず働いて立派な仕事を残した。 素晴らしい民族だ」

私は先人のような振る舞いが出来るだろうか?
当時の過酷さを知らない私には100%の明確な答えが出ません。

そんな私にも出来ること。

先人達の生き様を語りつぐこと。

先人達が生きた証を伝え続けること。

忘れないこと。

先人達に少しでも「恥じない」生き方をすること。

ジギャクシ観教育とは、そんなことを想う機会さえ、私達から奪うのです。

いったいそこに、私達日本人にとって何のメリットがあるのでしょうか?

反日国家に都合がいいだけの有益な未来を生むことなぞない日教組によるジギャクシ観教育に反対。

日本人は日本の歴史を。

そして、先人達の土の上、私達は白をきり、あぐらをかくことなく「恥じない」生き方をしたいものです。

日の丸を貼った漁船で漁に出るモーリタニアの人々


話題:親日国



日の丸を貼った漁船で漁に出るモーリタニアの人々



ODAちょっといい話 稀有な運命で救われた日本人からの転載です。
googleweblight.com


稀有な運命で救われた日本人


1993年のパリ・ダカールラリーでの話。
日本人のアマチュア・ドライバーが運転する四輪駆動車が、モーリタニアの最西端ヌアジブから首都ヌアクショットに向かう途中、マンガール村という小さな漁村近くで、砂漠に突き出た岩山に激突、大破した。

ドライバー、ナビゲーターともに複雑骨折などの重症を負ったが、車はペシャンコで、自力で車外に出ることもできない。
発見が遅れれば死んでいただろう。

が、運よくそこに、ラクダを引いたひとりの少年が通りかかった。

惨状を目にした少年は、自分の村まで取って返すと、「お父さんたちが乗っている漁船と同じマークの付いた自動車が岩に突っ込んだ。 早く助けてあげて」と叫んで回った。

漁船と同じマークとは、日本の国旗のことである。

「日本の車」と聞いて、村人たちはスワッ一大事。
漁に出ている者も呼び戻すと、村人総出で救出に向かった。

2人の日本人は、村から軍の駐屯地へ、さらにヘリコプターで病院へと迅速に搬送され、そのお陰で2人とも一命を取り止めることができたのだった。

ところで、マンガール村の人たちはなぜ、「日本の車」と聞いて救出に躍起になったのか。

なぜ漁船に日の丸が貼ってあったのか。

その理由を知る日本人は少ない。

事故に遭った日本人がその理由を知ったのも、後のことだった。


この村では、ほとんどの人が漁業で生計を立ててきたが、漁船といっても小さな手漕ぎボートしかなかったために、大西洋の荒波を越えて沖合いに出ることもままならない。
漁獲量も知れたものだった。

それを知った日本は1992年、沿岸漁業振興計画の一環として、無償援助で漁船や船外機をこの村に贈ったのだが、その際、モーリタニアと日本の友好の印として両国の国旗を並べて貼った。

事故現場に遭遇した少年は、その「日の丸」を見覚えていたのだった。

その後の日本は、当初の計画通り、1994にも漁船45隻、船外機61機を無償供与し、モーリタニアの沿岸漁業の漁獲高は大幅に伸びた。

日本の技術指導によってエンジンの整備士も育ち、漁船エンジンの修理も自前でできるようになった、という望外の成果も上がった。

そんなわけで、マンガール村の人たちの日本に対する感謝の気持ちは並々ならぬものがあったのだが、日本に恩返ししたくても、その手立てが見当たらない。

パリ・ダカの日本人の事故は、彼らが日本に恩返しをする千載一遇のチャンスとなったのである。

稀有な運命の巡り合わせが、日本とモーリタニアの友好を、さらに深めることになったのはいうまでもない。




以上で転載を終わります。

マンガール村の人々は、日本から受けた恩に対して、行動で報いてくれました。
本当にありがとうございます!

こちらも日本人として、とても心が暖かくなりました♪

モーリタニアのマンガール村の人たちのように「恩義を受けたらその恩を返したい」と思うのが普通の人間でしょう。


ところが恩に対して仇で返す国が日本の隣に存在しています!

しかも史実を捩じ曲げて、日本がやってもいない罪をでっち上げるという卑劣なやり方でね(怒)

こんなやり方をいつまでも許しておく訳にはいきません。
必ず相応の報いをくれてやりましょう!!

モーリタニアの人々には恩を、特定アジアには相応の裁きを!
因果応報です。

日本とトルコを結ぶ絆「エルトゥールル号」


話題:親日国




日本とトルコを結ぶ絆「エルトゥールル号」


エルトゥールル号の遭難 〜生命の光から〜からの転載です
www.locopoint.net


和歌山県の南端串本に大島がある。その東には灯台がある。
明治三年(1870年)にできた樫野崎灯台。
今も断崖の上に立っている。石造灯台として現役で最古の灯台。

びゅわーんびゅわーん、猛烈な風が灯台を打つ。
どどどーんどどどーん、波が激しく断崖を打つ。
台風が大島を襲った。明治二十三年九月十六日の夜であった。

午後九時ごろ、どどかーんと、風と波をつんざいて、真っ暗な海のほうから音がした。
灯台守(通信技手)は、はっきりとその爆発音を聞いた。
「何か大変なことが起こらなければいいが」灯台守は胸騒ぎした。しかし、風と、岩に打ちつける波の音以外は、もう、何も聞こえなかった。

このとき、台風で進退の自由を失った木造軍艦が、灯台のほうに押し流されてきた。
全長七十六メートルもある船。しかし、まるで板切れのように、風と波 の力でどんどん近づいてくる。
あぶない!灯台のある断崖の下は「魔の船甲羅」と呼ばれていて、海面には、岩がにょきにょき出ている。
ぐうぐうわーん、ばりばり、ばりばりばり。
船は真っ二つに裂けた。その瞬間、エンジンに海水が入り、大爆発が起きた。

この爆発音を灯台守が聞いたのだった。
乗組員は海に放り出され、波にさらわれた。またある者は自ら脱出した。真っ暗な荒れ狂う海。どうすることもできない。波に運ばれるままだった。そして、岩にたたきつけられた。
一人の水兵が、海に放り出された。大波にさらわれて、岩にぶつかった。
意識を失い、岩場に打ち上げられた。
「息子よ、起きなさい」
懐かしい母が耳元で囁いているようだった。
「お母さん」という自分の声で意識がもどった。
真っ暗な中で、灯台の光が見えた。
「あそこに行けば、人がいるに違いない」
そう思うと、急に力が湧いてきた。四十メートルほどの崖をよじ登り、ようやく灯台にたどり着いたのだった。

灯台守はこの人を見て驚いた。服がもぎ取られ、ほとんど裸同然であった。顔 から血が流れ、全身は傷だらけ、ところどころ真っ黒にはれあがっていた。
灯台守は、この人が海で遭難したことはすぐわかった。
「この台風の中、岩にぶち当たって、よく助かったものだ」と感嘆した。
「あなたのお国はどこですか」
「・・・・・・」
言葉が通じなかった。
それで「万国信号音」を見せて、初めてこの人はトルコ人であること、船はトルコ軍艦であることを知った。また、身振りで、多くの 乗組員が海に投げ出されたことがわかった。

「この乗組員たちを救うには人手が要る」
傷ついた水兵に応急手当てをしながら、灯台守はそう考えた。
「樫野の人たちに知らせよう」
灯台からいちばん近い、樫野の村に向かって駆けだした。電灯もない真っ暗な夜道。
人が一人やっと通れる道。灯台守は樫野の人たちに急を告げた。
灯台にもどると、十人ほどのトルコ人がいた。全員傷だらけであった。助けを求めて、みんな崖をよじ登ってきたのだった。
この当時、樫野には五十軒ばかりの家があった。船が遭難したとの知らせを聞いた男たちは、総出で岩場の海岸に下りた。
だんだん空が白んでくると、海面にはおびただしい船の破片と遺体が見えた。目をそむけたくなる光景であった。

村の男たちは泣いた。
遠い外国から来て、日本で死んでいく。男たちは胸が張り裂けそうになった。
「一人でも多く救ってあげたい」
しかし、大多数は動かなかった。一人の男が叫ぶ。
「息があるぞ!」
だが触ってみると、ほとんど体温を感じない。
村の男たちは、自分たちも裸になって、乗組員を抱き起こした。 自分の体温で彼らを温めはじめた。
「死ぬな!」
「元気を出せ!」
「生きるんだ!」
村の男たちは、我を忘れて温めていた。次々に乗組員の意識がもどった。

船に乗っていた人は六百人余り。そして、助かった人は六十九名。
この船の名はエルトゥールル号である。
助かった人々は、樫野の小さいお寺と小学校に収容された。当時は、電気、水道、ガス、電話などはもちろんなかった。
井戸もなく、水は雨水を利用した。 サツマイモやみかんがとれた。
漁をしてとれた魚を、対岸の町、串本で売ってお米に換える貧しい生活だ。
ただ各家庭では、にわとりを飼っていて、非常食として備えていた。
このような村落に、六十九名もの外国人が収容されたのだ。

島の人たちは、生まれて初めて見る外国人を、どんなことをしても、助けてあげたかった。
だが、どんどん蓄えが無くなっていく。ついに食料が尽きた。
台風で漁ができなかったからである。

「もう食べさせてあげるものがない」
「どうしよう!」
一人の婦人が言う。
「にわとりが残っている」
「でも、これを食べてしまったら・・・・・」
「お天とうさまが、守ってくださるよ」
女たちはそう語りながら、最後に残ったにわとりを料理して、トルコの人達に食べさせた。
こうして、トルコの人たちは、一命を取り留めたのであった。また、大島の人たちは、遺体を引き上げて、丁重に葬った。

このエルトゥールル号の遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、そして明治天皇に言上された。
明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣をなされた。
さらに礼を尽くし、生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて、トルコに送還なされた。
このことは、日本じゅうに大きな衝撃を与えた。
日本全国から弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられた。


次のような後日物語がある。



イラン・イラク戦争の最中、1985年3月17日の出来事である。

イラクのサダム・フセインが、「今から四十八時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」と、無茶苦茶なことを世界に向けて発信した。

日本からは企業の人たちやその家族が、イランに住んでいた。
その日本人たちは、あわててテヘラン空港に向かった。
しかし、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。
世界各国は自国の救援機を出して、救出していた。
日本政府は素早い決定ができなかった。
空港にいた日本人はパニック状態になっていた。

そこに、二機の飛行機が到着した。
トルコ航空の飛行機であった。
日本人二百十五名全員を乗せて、成田に向けて飛び立った。
タイムリミットの一時間十五分前であった。
なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。

前・駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。

「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生のころ、歴史教科書で学びました。
トルコでは、子どもたちさえ、エルトゥールル号のことを知っています。
今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」
文・のぶひろ としもり

エルトゥールル号の話は111年前の真実ですが、16年前のイラン・イラク戦争時には、多くの日本人がトルコの人によって救われました。
決して、多くに知られてはいない真実あなたはどう思いましたか?

辛いニュースが多い世の中にほんの少しやさしさを取り戻せる、この『小さな歴史の物語』が、また、あなたに何かを思い出させてくれることを・・・・

さて、このエルトゥールル号の話は、日本では教科書に掲載されていません。
海難の話では、エルトゥールル号の4年前1886年(明治19年)におこったノルマントン号事件について、イギリスとの不平等条約による屈辱の歴史について記載されています。

イギリスではノルマントン号事件について教えているのだろうか?

アメリカでは、毎年パールハーバーの日がくると、「パールハーバーを忘れるな!」という趣旨のイベントが行われ「卑怯なジャップめ!」と軽蔑と憎しみの感情を新たにする人も沢山いますね。
でもアメリカでは原爆投下の日に大々的なイベントはしてないですよね。

日本は、朝鮮併合から始まった朝鮮人差別とか侵略の歴史は教科書で、ちゃんと教えてないから、バカチョンカメラのチョンは、朝鮮人差別用語からきている!と考えているひともいるしねぇ、、、

なぜ、日本では屈辱の歴史については学ばせているのに、このような心温まる話について教えないのだろう?

将来日本の教科書に、 このトルコ航空の話がのればいいですね。(^^)





以上で転載を終わります。

トルコが世界トップクラスの親日国家である理由は、エルトゥールル号の遭難事故に真摯な対応で多くの命を救った樫野の村民達と、事故後に見せた日本の手厚い対応だった訳ですね。
日本の教育現場は歴史捏造バリバリの自虐史観ではなく、こういった誇らしい先人たちの善行を時間をかけてキチンと教えるべきじゃないんでしょうか?

100年以上昔の恩義に対して、命懸けで恩返しをしてくれたトルコの人々に改めて感謝するとともに、こういったトルコの善行を日本の人々に伝え語り継いでいき、両国の友情をより深めていけるようにしていきたいものです。

命懸けで日の丸を守ってくれた外国人


話題:親日国




転載元
mblg.tv


国旗の重み 〜命懸けで日の丸を守ってくれた外国人〜



イラク戦の最中、大きな打撃を受けたバグダッド市内。
激しい戦闘や略奪が繰り返される中、必死に日本大使館を守って下さったのは、近くに住むイラク人家族でした。

日本人スタッフが国外退避し、大使館業務を停止した後、14人のイラク人スタッフが情報収集や警備を続けていました。

しかし、市街戦などが相次ぎ、バグダッド陥落の前後は、現地スタッフさえ出勤できなくなっていました。

大使館は、空爆による大きな被害は受けませんでしたが、多くの盗賊たちに狙われました。

「裕福な日本の大使館なら、宝物があると誰でも思うさ」と、イラク人の警備担当者は語ります。

そんな中、大使館を守ったのは、向かいに住む元公務員モナサル・アルオブーディさん(45)一家でした。

バグダッドが陥落した翌日、一家6人は協力して、外交官ナンバーの乗用車を自宅の庭に隠し大使館内に掲げられていた日の丸を下ろし、看板をはずしました。

「日本大使館だと分かれば、盗賊たちに狙われると思ったから、自主的にやったんだ。
国旗はどの国の国民にとっても一番大切なものだろう?
燃えたり奪われたりしたら、みんなが悲しむと思って」

モナサルさんはそう話し、ほこりと油煙ですすけた日の丸を大事そうに広げてみせた。



盗賊たちは、何度も姿を見せたといいます。
そのたびにモナサルさんは、ガラシコニフ小銃を携えて自宅2階に駆け上がり、応戦しました。

「撃ち返されたこともあったが、大使館を守るために必死だった」とモナサルさんは当時を振り返ります。

大使館からはパソコン4台とエアコン1台が奪われてしまいましたが、「あの混乱の中、これだけの被害で済んだのは彼らのおかげだ」と、イラク人の大使館スタッフは感謝をしています。

モナサルさんは「私は15年間もここに住んでいる。大使館は大切な隣人。
隣人を守るのはイラク人の務めだ」と誇らしげに語り、
「我が家は日本人が大好きなんだ。 みんなやさしいからね」と微笑みました。





以上はとのブログ 日本を守りたいさんより抜粋して転載させていただきました。
s.ameblo.jp


まずは、文字通り「命懸け」で日の丸を守ってくれたモナサルさん一家に心からお礼を言いたいです。


「モナサルさんと家族の皆さん、本当にありがとうございました。」



「国旗はどの国の国民にとっても一番大切なものだろう?」
モナサルさんのこの言葉が世界中どの国でも当たり前の事なんです。

しかし日本では、左翼政治家や日教組や左翼マスコミや市民団体と称する左翼団体の連中みたいに、日の丸を目の敵にしている連中がウヨウヨしています。

日の丸や君が代に対して必死にレッテルを貼り付ける連中は、どいつもこいつも本当に日本への愛国心の欠片も持っていない事は明白です。

日本を日本人の手に取り戻す為には、この手の寄生虫共を日本から叩き出す事が肝要だと思います。



日の丸や君が代にレッテル貼ろうと躍起になっている連中を、俺は心底軽蔑します!!

すべての日本人に知って欲しい川口ユディ女史の言葉


話題:ちょっといい話。

転載元
mblg.tv



すべての日本人に知って欲しい川口ユディ女史の言葉

川口ユディさんのプロフィール

ハンガリー・ブダペスト市生まれ。
米国で留学しイリノイ大学にして芸術を専攻。
同地で日本人男性と知り合い、後に結婚して日本に暮らす。
NHKテレビの国際放送番組「ウイークエンド・ジャパノロジー」「Out & About」や「ニッポンアートウィーク」のレポーターとして日本人や日本文化を世界に紹介している。
また、元特攻隊員の貴重な証言を自身で設立した、(株)盛之助のウェブサイトで公開している。

激論ムック「世界に愛された日本」
日本ほど素晴らしい国はない!
川口ユディ女史と田母神敏雄氏の対談より抜粋して引用します。
以下引用。

17年くらい前、シカゴの大学に留学しているときにたくさんの日本人留学生に会ったんです。
けれどその人たちはみんな日本に対する誇りがなかった。
日本は不思議な国だと思いましたね。

大学にはアメリカ人、メキシコ人、セネガル人、いろんな国の人がいたけど、みんな自分の国が好きでしたよ。

私も「ハンガリー素晴らしい」って、いつもPRしてた。
日本人だけしないの。 そんなとき主人に会ったんです。
彼はそれまで会った日本人とは正反対で「日本は世界一だよ」って言ったんです。

彼のことを好きになって、日本に来て、私も「日本、最高!」と思った。

彼は素晴らしい先生だった。
まず自分の国の歴史を知らないとPRできないですね。

だから彼は一般の日本人より、すごく歴史を勉強していました。
それも誇りもつべき歴史。

戦後教育の日本人は大体の場合、日本の歴史知らないですよね。
私もハンガリー生まれだからそういう左翼系の教育に敏感です。
主人以外の日本人に会うたび、「あれ?日本人は社会主義かな」と思ってた。

ハンガリーの教育もソ連(当時)でしょ、だからダメ。
歴史は親とかおじいちゃんおばあちゃんから勉強しました。
ハンガリー人はそういう人多いから、学校で教える歴史は嘘だってみんな知っている。

日本に来て、テレビを見てびっくりしました。
日本人が作っている番組とは思えなかった。
「これ、中国が作っているの?」そう思いましたよ。

それくらいアンチ日本に感じた。
ハンガリー人の知人が来日したとき、同じこと言っていた。

NHKの子供向け番組で「日本人にはユーモアがない」みたいなことをやっていたって。「なんでわざわざ番組まで作って、子供にそんなこと教えるんだ?」って。

新聞もそうでしょう。
その日本のメディアが海外に向けても情報発信するんだから、日本のイメージがダウンするのは当然ね。

2003年に私、ハンガリーのとても有名な経済雑誌で南京大虐殺についての記事を書いたんです。
「南京大虐殺を日本人の目で検証しましょう」みたいな内容で、実際に当時、南京にいた人に取材もして、アイリス・チャン(「ザ レイプ オブ 南京」の著者)の言っていることとの矛盾点などを指摘したんです。

その記事が出た次の日、誰が文句言ってきたと思いますか?
日本の外務省ですよ。

編集長に「あなた、何をやっている? この川口ユディはどんな人物ですか? 日本でも知られている経済雑誌で、こんな話はやめてちょうだい」(笑)

あとやっぱり自衛隊に対する日本人の意識が問題。
この国を守れる人は自衛隊だけ。
なのに、日本の国民全体、自衛隊のことを尊敬してないでしょ。
もっともっと尊敬しないといけない。 世界中、どこの国でも軍隊は尊敬されてますよ。

毎日、東京歩いていて、こんな素晴らしい街は世界で他にないと思っちゃう。
発展していて安全。
電車は時間通りに来るし。
それが当たり前になっているって素晴らしいですよ。

そんな国、どこにもないですよ。

その素晴らしい日本をどうやって作ってきたのかを教えるべきです。
それをうまく教えられれば日本は変わると思います。

グローバルスタンダードなんていらないですよね。
たとえば、日本の植民地統治のことをもっと教えるべきですよ。

西欧諸国に支配されているところへ日本の軍隊が入っていって、いっぱい追い返したでしょう。

西欧諸国にとっての植民地は利益を搾取するところ。
日本は違う。
日本は逆にその国にいっぱいお金を出しました。

今、世界で発展しているアジアの国は日本が統治していた国ですよ。

フランス、ポルトガル、イギリスが統治していた国は今も発展してない。 今も貧乏。
この点だけでも日本人、誇りもつべきだと思う。

私、アメリカに行ったときに植民地支配のやり方勉強したの。
日本以外はすごいひどいでしょ。

「戦争で日本はひどいことした」なんて、どの国にも言われたくない。

日本人、そんな言葉、信じちゃいけないですよ。
だから、もうちょっと日本の素晴らしい歴史をPRするべきね。
それが日本人、超下手ですよ。
自己PRできない。

もちろん、それまた日本人の美徳なんですけれども。
だから、そこに私の仕事あると思う。

アイ・ラブ・ジャパンな外国人だからできること。

今、全世界で日本のこと大好きな若者いっぱいいるでしょう。
アニメや漫画から入っちゃって、ああいう人たちにうまく教えたらもっと日本好きになるよ。
そういう外人集めれば変わると思う。

今度、フランス人の女性記者を靖国神社に案内するんです。
私が『ジャパンタイムズ』のウェブサイトに載せた特攻隊の記事を読んで、「感動した。ぜひ取材したい」と頼まれたんです。
元特攻隊員の人からの話を聞く番組を作りたくて、いろいろ頑張ったんですよ、私。

NHKも民放もみんな断られました。
ウェブサイトに載せるしかない。
生きている歴史でしょう。
今、その言葉を受け継がないと、日本の財産なくなってしまう。

本当に日本に感謝している国たくさんあります。

私の友人のセネガル人の友達に、主人を紹介したとき、すごい喜んで「私たち日本人にお世話になったよ。 日露戦争で白人に勝ったのを見て、すごく励まされた。 アフリカのフリーダムを勝ち取ろうと思えた。 私、日本大好きよ」って言ったの。

ハンガリーでも学校では、嘘の歴史を教える。
でもみんなそれを知っているの。

日本のほうが骨抜きにされてます。

私もNHK国際放送で番組二百本くらい作りました。
でも一緒に働いているスタッフで日本の歴史をきちんと知っている人はいなかった。

左翼的なことを言うけど、ちゃんとした思想があるからじゃない。

アメリカなんかに留学していた人を多く雇っているんだけど、見ていると「日本の大学に入れないからアメリカに行っちゃったのかな」と思っちゃう人が多かった。

ああいう人たちだと、なかなかいい番組できない。
日本の国民はそんなに頭悪くないのに、メディアは頭悪いですね。

だから国民が感じることがテレビなんか見ていても出てこない。
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