話題:親日国
ウズベキスタンの「桜番」 学校が教えてくれない日本の歴史
今回の記事はくれば の ひとり語りさんからの転載です。
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ウズベキスタンの「桜番」
〜学校が教えてくれない日本の歴史
「戦いに敗れても日本人は、誇りを失うことなく骨身を惜しまず働いて立派な仕事を残した。 素晴らしい民族だ」
私達は以下のような内容を学校で教わりません。
与えられない為、日本人を日本人が「戦犯」と呼ぶ国、日本。
与えられない為、日本人の生き様から何かを学び取る機会も感謝する機会も弔う機会もない日本人。
どうか知ってください。
「ウズベキスタンの桜番」
中東近辺にウズベキスタンという国があります。
そのウズベキスタンの首都タシケント市に国立ナポイ劇場があります。
この建物は、戦後間もない昭和23(1948)年に、約2年の月日をかけて完成したものです。
タシケント市には、過去二度に渡り大地震が起こりました。
その際、市内の建造物は、ほとんどが倒壊しました。
しかし、二度の大地震に、ナポイ劇場はビクともしなかった。
タシケントのウズベキスタン人たちは、そんな劇場を眺め次のように言いました。
「戦いに敗れても日本人は誇りを失うことなく骨身を惜しまず働いて立派な仕事を残した。 素晴らしい民族だ」
もうお分かりいただけたでしょうか?
ナポイ劇場を作ったのは日本人のシベリア抑留者の方々なのです。
ナポイ劇場の建造は、500人の日本人抑留者が担当しました。 そのうち60人が、建築途中で亡くなられています。
10人にひとりが亡くなりました。
どれだけひどい環境下にあったか、その数字だけをみても明らかです。
日本人たちの様子については、山崎豊子の小説「不毛地帯」に詳しく紹介されています。
裸にされて並ばせられると、すぐ前に立っている男の肛門まで、上から見えた。
ろくな食事も与えられず、全員がそこまでガリガリにやせ細っていた。
建設工事の途中、あまりの労苦に耐えかねたひとりの日本人が、クレーンの先端まで駈け上がって「天皇陛下万歳!」と叫んで飛び降り自殺した
ここでシベリア抑留について記載いたします。
シベリアに抑留された日本人は65万人。
シベリアに連行された日本人は、旧満鉄の職員や技術者、関東軍の工兵たちなどです。
要するに技術者集団です。
ソ連は、ヤルタ協定を一方的に破棄して対日参戦しただけでなく、満洲や朝鮮半島、樺太などを一方的に占有し、日本軍から奪った武器弾薬兵器は、シナの八路軍(中国共産党)や、北朝鮮金日成らに無料同然で売り渡しました。
そして、日本人技術者たちを強制連行しソ連のインフラ整備のために無料で使役していました。
65万人の技術者集団を単に抑留するだけなら、食費や施設の維持費等で、建国したてのソ連は大赤字となります。
それを、給料無料、ろくな食事も与えず、日本人の持つ高い技術と能力、旧満洲にあった機械や設備をまるごと持ち帰り、ソ連の建国のために使役しました。
道路敷設、水力発電施設の建設、鉄道施設の充実強化、森林伐採、農場経営、建物建築等々。
旧ソ連は、莫大な国費を要するそれら国内インフラの整備事業を、拉致した日本人65万人を使いソ連全土で展開しました。
ウズベキスタンに話を戻しましょう。
ウズベキスタンのタシケント市に抑留された2万5千人の日本人達も、同じです。
運河や炭鉱などの建設や、発電所、学校などの公共施設の建築などの強制労働につかせれ、過酷な気候条件と、厳しい収容所生活、栄養失調や病気、事故などで、合計813人の日本人がこの地で亡くなられています。
実は日本人の造った道路や発電所などの施設は、いまでもウズベキスタンの重要な社会インフラとして残っています。(ウズベキスタンだけではなくロシアにも)
それどころか、国立ナポイ劇場の建物などは、いまやウズベキスタン人たちの誇りとさえなっています。
ウズベキスタンの市民たちは、劇場が建設された当時のことをよく覚えているといいます。
日本人たちが、捕虜なのにどうしてあそこまで丁寧な仕事をするのか、真面目に働くのか不思議がったといいます。
中山恭子元内閣特命大臣がウズベキスタン大使として赴任した、平成11年。
中山氏は、ウズベキスタンにて現在も国民に電気を供給している水力発電所の建設を仕切った元現場監督に会ったそうです。
その元監督は、涙ながらに語ったそうです。
過酷に働かされた工事でも、決して手抜きをせずまじめに仕上げてしまう日本人。
栄養失調でボロボロの体になりながらも、愚痴も文句も言わないどころか、明るい笑顔さえあった日本人。
昨日、具合悪そうだったけれど、笑顔を向けてくれた日本人が、今日は来ていない。
どうしたのかというと、昨夜栄養失調で死んだという。
それほどまでに過酷な状況にあってなお、きちんとした仕事をしてくれた日本人。
現在、ウズベキスタンの母たちは子供にこう教えるそうです。
「日本人のようになりなさい」
ウズベキスタンの人はこうも言います。
「日本人の捕虜は正々堂々としていた。 ドイツ人捕虜が待遇改善を叫んでいたのに対して、彼らは戦いに敗れても日本のサムライの精神をもっていた。 強制労働でも粛々と作業につく姿を見て、我々市民は彼らに何度か食料を運んだのです。」
ウズベキスタンには日本人墓地があります。
細い木で組んだ粗末な十字架が、そこにいくつも並んでいます。
旧ソ連時代、日本人の墓など作ってはならない、墓はあばいて、遺体は捨てろ、という命令もあったのだそうです。
しかしそれでも、ウズベキスタン人たちは、ひっそりと日本人の墓を護りぬいてくれました。
それは日本人が作ってくれた建物や発電所などが、いまでもウズベキスタンの人々の生活をささえてくれることへの、せめてもの恩返しだったのだといいます。
平成8年、ソ連崩壊。
同時にウズベキスタンは独立。
大統領のカリモフ氏が自ら進んで、壮麗なナポイ劇場に、日本人抑留者の功績を記したプレートを掲げて下さいました。
そこには、ウズベク語、日本語、英語でこう書かれています。
「1945年から46年かけて極東から強制移住させられた数百人の日本人がこの劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」
この知らせを聞いた中山恭子大使の夫、中山成彬元国土交通大臣は、ウズベキスタンの日本人墓地の整備をしようと、日本人へ呼び掛けます。
宮崎の事務所を拠点にして、元抑留者や応援者たちに声をかけ、寄付金を募りました。
寄付は、宮崎県内から半分、県外から半分が集ります。
そして中山夫妻は、ウズベキスタンに行き、このお金でお墓の整備をと申し出ます。
するとウズベキスタン大統領は、これを拒否しました。
「亡くなられた日本人に、わたしたちは心から感謝しているのです。 このお金は受け取れません。
わたしたちで、日本人のお墓を整備させてください。」
そしてウズベキスタンの人々は、日本人墓地を、美しい公園墓地にし、日本人を顕彰します。
中山成彬ご夫妻は集めた寄付金で、ウズベキスタンの学校に教育機材をご提供しましょうと申し出ます。
そしてパソコンや教材などを買いそろえ、寄贈しました。
さらに残った費用は日本人墓地と、ウズベキスタン中央公園に桜の木を贈ろうと話します。
「きっと生きて祖国に帰りたかったであろう人たちに、せめて、日本の桜を毎年、ずっと見せてあげたい」
中山成彬氏は日本さくらの会に交渉し、日本から桜を、ウズベキスタンに寄贈します。
いま、ウズベキスタンの日本人墓地と、中央公園には、日本から寄贈された1900本の桜の木が、毎年美しい花を咲かせています。
あまりにも桜が美しいことから「桜どろぼう」が出没。
桜の木を根こそぎ持って行かれてしまう。
ウズベキスタンでは、日本から寄贈された桜を守るために、専門の「さくら番」を雇い、さくらの木の保護をしてくれています。
今もずっと。
タシケント中央公園に植樹した桜
ウズベキスタンに咲く桜(大使館前)
シベリア抑留者の悲劇。
その悲劇の中でも笑顔を失わず、立派な仕事を残した日本人。
祖国に帰れなかった彼らのため、お墓の整備や桜の寄贈を呼び掛け、これに応じてくださった心優しい日本人。
その心を大切にするために、1年365日、桜番を雇い、警護をしてくださるウズベクの人々の誠意。
以上、現在日本が行なっているジギャクシ観教育が日本人に教えない日本人の生き様。
現在日本が行なっているジギャクシ観教育が日本人に教えない「日本人の生き様が生んだ人間の誠意や優しさ」
与えられなければ、生き様から学ぶことも、生き様を伝えることも、その生き様から生まれた、人間の誠意や優しさに学び感謝することもできない。
私はそう思います。
またこうも思うのです。
ジギャクシ観のような虚偽の捏造では「友好」なんてものは生まれはしないと。
そうでないからこそ、向き合うからこその「友好」だと私は思います。
以下はその結果でしょう。
ウズベキスタン。
親日家が多く日本語教育も盛んです。
独立後からの学習者は延べ2万人にもなり、大学や高校、観光カレッジ、日本センター、NIRIKO学級などで学んでいます。
日本語弁論中央アジア大会では2009年に優勝もしています。
また日本への留学生も現在100名以上に上ります。
スタンドに手作りの「日の丸」 震災に心痛めるウズベクの人々
「ジャパン? ツナミ?」。
タクシーに乗るたびに、運転手から心配そうに声を掛けられた。
来年のロンドン五輪出場を目指すサッカーのU-22(22歳以下)日本代表が遠征したウズベキスタンの首都タシケント。
遠く離れた中央アジアの地でも、東日本大震災の大きな被害に、人々は心を痛めていた。
26日のU-22ウズベキスタン代表との第1戦の試合前のことだった。 地元のサポーターが大きな紙の束を抱えながら話しかけてきた。
「ウズベキスタンの国旗は3枚しか持ってきていないけれど、日本の国旗は300枚も用意したんだ」。
白い画用紙の真ん中に赤いスプレーをかけただけの手作り「日の丸」だったが、日本のことを気遣って準備してくれたのだと思うとジーンと来た。
試合になるとスタンドには日の丸だけでなく「with you JAPAN」の横断幕が掲げられ、地元のサポーターからは「ニッポン」コールも起こった。
下記サイトより一部引用
www.47news.jp
私は上記を知ることで、ウズベキスタンに眠る日本人の先人達の生き様を知ることができました。
知る前にはできなかった、ウズベキスタンの誠意に感謝することと、そしてウズベキに眠る日本人の先人達を想う事ができるようになりました。
「戦いに敗れても日本人は、誇りを失うことなく骨身を惜しまず働いて立派な仕事を残した。 素晴らしい民族だ」
私は先人のような振る舞いが出来るだろうか?
当時の過酷さを知らない私には100%の明確な答えが出ません。
そんな私にも出来ること。
先人達の生き様を語りつぐこと。
先人達が生きた証を伝え続けること。
忘れないこと。
先人達に少しでも「恥じない」生き方をすること。
ジギャクシ観教育とは、そんなことを想う機会さえ、私達から奪うのです。
いったいそこに、私達日本人にとって何のメリットがあるのでしょうか?
反日国家に都合がいいだけの有益な未来を生むことなぞない日教組によるジギャクシ観教育に反対。
日本人は日本の歴史を。
そして、先人達の土の上、私達は白をきり、あぐらをかくことなく「恥じない」生き方をしたいものです。