とある雨天の日の午前。
細かい雨粒がさらさらと窓を濡らし垂れていく。
「そう。最後の手紙のときに、そんな会話があったのね」
そう言って、ニーナは2杯目の紅茶に口を付ける。
ラザフォードがニーナの元を訪れた数ヶ月後。
ナガレはやっとあの日の会話をニーナへ話すことができた。
彼女の落ち込みようがあまりにも酷く、塞ぎ込み、どんな言葉も励ましにならない状態だったので、レグシスの名を出すことすら禁忌とされていたほどだ。
テーブルを挟んで立つナガレも、回想を語るために言葉選びに気を遣った。
「彼は本物の騎士です。褒められた人間ではないとアイツ自身で言ってましたが、褒めない者はいませんでした」
「それだけ己を磨き続けていたのよ。早く会いたいと私は手紙に書いていたし、本心だけど、彼の気の済むまで高みを目指して欲しいと思う自分もいたの」
「……それで、彼の伝言をお伝えしても?」
「ええ。はやく聞かせて」
カップを置いて姿勢を正すニーナを真っ直ぐ見つめ、ナガレは口を開いた。
−−『あなたに出会えて良かった』
「そのあと、こう続けました」
−−『あなたと過ごした時間は忘れません』
「……出来れば伝えたくない言葉でした。アイツがここに戻ってくれば、俺の中に残るだけでしたので」
そう言い残し、あの日、レグシスは門をくぐり帰って行った。
彼が死んだのはその数日後の夜だ。
「そうね、私も忘れていません。声だってまだ覚えているのよ」
膝の上で重ねた手が震える。そして涙が一粒、手の甲に落ちる。
「だからもっと話をすれば良かった。もっと隣にいれば良かった。もっと手を握っていれば……」
ニーナは右手で左手を覆った。レグシスから贈られた指輪を温めるように包む。ほんの少し緩めの指輪は、レグシスの指の太さを教えてくれる。
窓へ当たる雨音が強くなる。
ニーナの心を表すかのように、雨は大粒となり風に流れてゆく。
ノックが響き、使用人が入ってくる。
「ニーナ様。髪結いのお時間です」
そう言って進んでくる使用人の持つトレイには、櫛と鋏がある。
ナガレは違和感を感じた。いつもなら櫛とリボンと髪留め、髪飾りを持たせていたからだ。今日はそれらの装飾品がない。
「鋏はなんのために?」
思わず尋ねると、ハンカチで目元を押さえていたニーナは微笑む。
「髪を切ることにしたの。肩ぐらいまで短くするつもり」
「なぜ急に。それに……」
ニーナは新しい男性との婚姻を控えている。豊かな髪は未婚の女性らしさの象徴だ。切って整えるのはむしろ婚姻を済ませた後におこなう。
「私の恋は終わりました。次へ進むために、この髪は彼に捧げます」
ニーナは思い出す。いつの日のことか。レグシスと庭を歩いていると、花壇に季節の花が咲いているの見つけた。明るい黄色で、花弁が豪華に幾重にも重なり、陽光をたっぷり浴びるように美しく咲いていた。
「とても綺麗な花ね」
ニーナが言うと、レグシスは彼女にだけ聞こえるように答えた。
「貴女の髪のようですね」
相手に合わせるだけの事務的な会話が多いレグシスが、めずらしく気の利いた言葉を囁いた。
それ以来、ニーナは念入りに髪を手入れするようになった。
レグシスに褒めてもらった髪が自慢だった。彼が帰ってきたら、服よりも化粧よりも、まず髪を特別に結って見てもらうつもりだった。
しかし、その必要はすでになくなった。
「髪を切ったら、すぐに出掛ける準備をします」
「どちらへ」
「フィブルナーガへ。お父様のお許しは得ています」
レグシスの弔いと報告に行くのだと、ナガレはすぐにわかった。
「今のフィブルナーガは侯爵の逃走によって混乱の中にあります。慎重になさらねば」
「もう時間が無いのよ。目的を果たしたらすぐ帰るわ」
確かにもう『その日』が迫っている。
彼女なりにケジメをつけたいのだろう。そう考えると引き止める言葉もない。
ナガレはテーブルの上の食器を片付けはじめた。つい手に力が入り、ガチャガチャと乱暴な音を立ててしまう。
「どうしたの。落ち着いて」
「……すみません。ニーナ様。どうしてもダメです、俺」
「何かあったの?」
「レグシスに腹立つんです。アイツ一人でここまで大勢の人を巻き込んで。貴女を置いて死んで泣かせて。どうしてくれるんですかね」
「いいのよ」
ニーナはにっこりと笑む。自ら髪留めを取り、髪を下ろした。
「貴族の娘はみな親に決められた道を行くの。自ら好きな男性との婚姻を望んだ私はその例外だった。彼に夢を見せてもらっていただけ」
「アイツには、その夢を叶える力もあったのですよ」
「彼は騎士の使命を果たしました。私も貴族の娘の使命を果たします」
なんて気丈な女性なのだろう。
薄く笑うニーナに、ナガレもうなずいた。
「あー、やっぱり、お二人は一緒になるべきでしたね」
・終・