挿話12・最後の伝言−3



とある雨天の日の午前。
細かい雨粒がさらさらと窓を濡らし垂れていく。
「そう。最後の手紙のときに、そんな会話があったのね」
そう言って、ニーナは2杯目の紅茶に口を付ける。
ラザフォードがニーナの元を訪れた数ヶ月後。
ナガレはやっとあの日の会話をニーナへ話すことができた。
彼女の落ち込みようがあまりにも酷く、塞ぎ込み、どんな言葉も励ましにならない状態だったので、レグシスの名を出すことすら禁忌とされていたほどだ。
テーブルを挟んで立つナガレも、回想を語るために言葉選びに気を遣った。
「彼は本物の騎士です。褒められた人間ではないとアイツ自身で言ってましたが、褒めない者はいませんでした」
「それだけ己を磨き続けていたのよ。早く会いたいと私は手紙に書いていたし、本心だけど、彼の気の済むまで高みを目指して欲しいと思う自分もいたの」
「……それで、彼の伝言をお伝えしても?」
「ええ。はやく聞かせて」
カップを置いて姿勢を正すニーナを真っ直ぐ見つめ、ナガレは口を開いた。
−−『あなたに出会えて良かった』
「そのあと、こう続けました」
−−『あなたと過ごした時間は忘れません』
「……出来れば伝えたくない言葉でした。アイツがここに戻ってくれば、俺の中に残るだけでしたので」
そう言い残し、あの日、レグシスは門をくぐり帰って行った。
彼が死んだのはその数日後の夜だ。
「そうね、私も忘れていません。声だってまだ覚えているのよ」
膝の上で重ねた手が震える。そして涙が一粒、手の甲に落ちる。
「だからもっと話をすれば良かった。もっと隣にいれば良かった。もっと手を握っていれば……」
ニーナは右手で左手を覆った。レグシスから贈られた指輪を温めるように包む。ほんの少し緩めの指輪は、レグシスの指の太さを教えてくれる。
窓へ当たる雨音が強くなる。
ニーナの心を表すかのように、雨は大粒となり風に流れてゆく。
ノックが響き、使用人が入ってくる。
「ニーナ様。髪結いのお時間です」
そう言って進んでくる使用人の持つトレイには、櫛と鋏がある。
ナガレは違和感を感じた。いつもなら櫛とリボンと髪留め、髪飾りを持たせていたからだ。今日はそれらの装飾品がない。
「鋏はなんのために?」
思わず尋ねると、ハンカチで目元を押さえていたニーナは微笑む。
「髪を切ることにしたの。肩ぐらいまで短くするつもり」
「なぜ急に。それに……」
ニーナは新しい男性との婚姻を控えている。豊かな髪は未婚の女性らしさの象徴だ。切って整えるのはむしろ婚姻を済ませた後におこなう。
「私の恋は終わりました。次へ進むために、この髪は彼に捧げます」
ニーナは思い出す。いつの日のことか。レグシスと庭を歩いていると、花壇に季節の花が咲いているの見つけた。明るい黄色で、花弁が豪華に幾重にも重なり、陽光をたっぷり浴びるように美しく咲いていた。
「とても綺麗な花ね」
ニーナが言うと、レグシスは彼女にだけ聞こえるように答えた。
「貴女の髪のようですね」
相手に合わせるだけの事務的な会話が多いレグシスが、めずらしく気の利いた言葉を囁いた。
それ以来、ニーナは念入りに髪を手入れするようになった。
レグシスに褒めてもらった髪が自慢だった。彼が帰ってきたら、服よりも化粧よりも、まず髪を特別に結って見てもらうつもりだった。
しかし、その必要はすでになくなった。
「髪を切ったら、すぐに出掛ける準備をします」
「どちらへ」
「フィブルナーガへ。お父様のお許しは得ています」
レグシスの弔いと報告に行くのだと、ナガレはすぐにわかった。
「今のフィブルナーガは侯爵の逃走によって混乱の中にあります。慎重になさらねば」
「もう時間が無いのよ。目的を果たしたらすぐ帰るわ」
確かにもう『その日』が迫っている。
彼女なりにケジメをつけたいのだろう。そう考えると引き止める言葉もない。
ナガレはテーブルの上の食器を片付けはじめた。つい手に力が入り、ガチャガチャと乱暴な音を立ててしまう。
「どうしたの。落ち着いて」
「……すみません。ニーナ様。どうしてもダメです、俺」
「何かあったの?」
「レグシスに腹立つんです。アイツ一人でここまで大勢の人を巻き込んで。貴女を置いて死んで泣かせて。どうしてくれるんですかね」
「いいのよ」
ニーナはにっこりと笑む。自ら髪留めを取り、髪を下ろした。
「貴族の娘はみな親に決められた道を行くの。自ら好きな男性との婚姻を望んだ私はその例外だった。彼に夢を見せてもらっていただけ」
「アイツには、その夢を叶える力もあったのですよ」
「彼は騎士の使命を果たしました。私も貴族の娘の使命を果たします」
なんて気丈な女性なのだろう。
薄く笑うニーナに、ナガレもうなずいた。
「あー、やっぱり、お二人は一緒になるべきでしたね」




・終・


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挿話12・最後の伝言−2



とある晴天の日の午後。
ナガレはいつものように手紙を携えてフィブルナーガの城壁を『超えた』。
ところが、レグシスの姿は街のどこにも見つからない。
騎士団本部や訓練場、自宅や商店街や噴水広場。ここなら居るだろう、と思える場所はすべて探した。
以前もこのようなことがあったが、魔女騒動の真っ只中であったため、多忙を察してやむを得ず郵便受けに入れた。
騒動が収まった今、さすがのレグシスもそれなりに仕事が落ち着いていると思っていたのに。
遠征に行っているという情報はない。
仕方ない、今回も郵便受けに入れようか。
そう思いながら城壁から街の外……草原を眺めていると、正門へ続く道を馬が走ってくる。
白毛の馬に聖堂騎士の装い、あれは間違いなくレグシスだ。
ナガレはそのまま城壁の外側へ飛び下りた。一般人なら怪我で済まぬ高さだが、ナガレは話が別だ。
「どーも、お疲れさん」
正門の前に独特な服装の異邦人が立っているのを見て、レグシスは馬脚を緩める。
「こんなところにいて、警備の騎士に捕まりたいのか」
「怪しくてもこうやってお前と話をしていれば、お前の知り合いだと通じるだろ」
まあ、それもそうだが。しかし、あまり顔見知りだとは知られたくない。このまま正門を通って部下の騎士たちにナガレとのやり取りを見られるのも都合が悪い。
「用はわかるが、今ここで済ませろ」
レグシスは下馬する。
正面に立った彼を見て、ナガレは驚き、思わず両肩を掴んだ。
「お前、どうしたんだ」
「なにが」
以前見たときより痩せている。疲労が浮き出た表情、顔色は悪く、視線も弱い。
もともと体型は細かったが、それを補っていた筋肉は減っている。いま掴んでいる肩も、やけに角張っている。
魔女騒動での多忙さは知っている。だが、食べて寝る暇もなかったのか。
「ちゃんと休んでいるのか。明らかに疲れが出てる」
「今日は午後休暇だから、いま気分転換に走ってきたのだが」
「しっかり食えよ。寝ろよ。こんな姿、ニーナ様が見たら……」
「戻れないのか」
ナガレはレグシスを見上げた。さらに陰の濃くなった寂しげな翠がこちらを見つめている。
「そろそろ、戻ろうと思っていたのだけどな」
そう言って、レグシスは肩に置かれたままのナガレの手首を掴む。その薬指には指輪があった。
この国の婚姻の証を、ナガレもニーナから聞いている。
手を下ろし、ナガレは俯いた。
「そうか。やっとその気になってくれたのか」
「その気になるも何も、初めからそういう約束では」
「自分で気づいてないのかよ……馬鹿野郎」
頭をレグシスの胸にもたれ掛け、顔を見られないようにする。嬉しくて自然と涙が出てきたからだ。
陽は傾き、空が暗くなりつつある。風も涼しくなってきた。馬は暇そうに足元の草を食んでいる。
「だが、戻る前にやることがある」
「なんでだよ。約束は団長になったら、だったろ」
「魔女裁判で侯爵の女を処刑した」
「それが何だよ、魔女だったってことだろ?」
「侯爵の命乞いを俺が拒んだ。恨みを買った」
「処刑は正当だったんだろ」
「ヤツと決着をつけたら、戻るつもりだ」
ナガレはゆっくりと離れた。
レグシスの眼は、疲労を訴えながらも決して揺るがない強い意志を含んでいる。獲物を見据えた獣と同じ眼光。思い出した。これは、レグシスが初めてマスティエ城に訪れた時、まだ他人の温かさを知らぬ頃のレグシスと同じ眼つきだ。
ナガレは手紙を取り出した。
「わかった。こんな場所だし、今回は返事は保留にしておくよ」
「今の話は、彼女には伏せてくれ」
「ああ」
手紙を受け取り、レグシスは溜め息をついた。
「以前話した。俺を良く思わぬ人間がいる。騎士の仕事は待つ者を不安にさせる。その通りだろう。褒められた人間でない俺はニーナ様に相応しくない。今もそう思っている」
「それでもお前は任務に行くって言うんだろ」
「団長としての責務を全うするだけだ」
ナガレは星のきらめき始めた空を仰いだ。
ああ、すごく不吉な予感がする。
レグシスが未来を語る。ニーナへの想いを語る。さらに侯爵と対立していることを明かしたということは。
−−わかる。レグシスは命の覚悟をしている。自身にもしものことがあった場合、戻る意思があったことをニーナに伝えて欲しい。暗にそう言っている。
それでも執念と努力と才能で今の地位まで駆け上がってきた彼のこと。
最悪の事態はうまく回避するはずだ。
「ひとつ聞く。お前がそんなにボロボロになって任務をこなすのは、なんのためだ」
「侯爵の企みの阻止、延いては領と騎士団のためだ」
ナガレは下ろした腕を震わせ、拳を握りしめる。
「答え方が違うよ、レグシス」
「……」
レグシスは答えない。意味が分からぬと言いたげに眉間に皺を寄せる。
「自分とニーナ様のためと答えろ。婚約者に早く会いに行くためって言えよ!」
レグシスが呆気にとられた顔をしたのは、ナガレが泣いていたからなのか、怒鳴られた意味がわからなかったからなのか。
しかしナガレの言葉を深く考える様子もなく、すぐに視線を逸らし手綱を取った。
「前々から思っていたが、俺は考え方が特殊なようだな」
そう言って馬に跨がる。
「騎士は俺にとって唯一の生きる手段だった。それがやがて生き甲斐になった。そこに命を懸けることの何が悪い」
「……そう、だったな」
名前以外のすべてを失い、明日生きるかもわからぬ様だった少年が、まっすぐに向かい叩いたのは騎士養成施設のドアだった。
そこから、登り詰めるべき場所へ向かってのし上がり続けた。
「何度も絶望したし、自問もしたし、足掻いた。でも、これしか道はなかった。だから最後までやらせてくれ」
「俺も悪かったよ。ただな、友人としてお前のことが好きだから幸せになってほしいんだ」
正門の周囲がほんのり明るくなる。警護の騎士が火を焚いたようだ。間もなく城壁の巡回が始まる。
レグシスは馬上からナガレを見下ろした。
「本当にこれを最後の務めとする。終わったら長期休暇を取ってそちらへ戻る予定だ」
「はいはい、騎士は辞めないわけね」
「もし戻らなかったら、そのときはお前に伝言を頼んでもいいか」
「縁起でもないこと言うなよ」
レグシスは先ほどとは違い、穏やかに天を見つめ、呟いた。



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挿話12・最後の伝言−1



とある陽の暖かな休日。
「どーも。こんちは」
レグシスが自宅の厩舎の掃除をしていると、いかにも気楽そうな声が後ろから響いた。
振り向くと、思ったとおり。ナガレがにこやかな表情で立っている。
用件はわかりきっている。ひとつしかないのだから。
しかし、わかっていてもコイツには素直に対応したくないのはなぜだろう。
「何の用だ。忙しいのが見てわからないか」
「自分で馬の世話してるんだ?お前の立場なら誰かに任せても良いんじゃないか?」
「俺自身で世話することが愛馬への礼儀だと思っている」
そう言って寝床に藁を置く。掃除の間、馬は柱に繋がれているが、じっと主を見つめている。レグシスの気持ちを、馬も理解しているのだろう。
貴重な休日だろうに、レグシスは家でもよく働いている。こうも動きっぱなしでは、ナガレにとっては割り込む隙がない。
「で、俺の用事聞いてくれる?いつものだけどさ」
馬を部屋に戻し、次は花壇の手入れに向かおうとしたレグシスは、背中を見せたまま答える。
「家の机に置いて帰れ」
「無理だって。わかってるくせに」
ニーナからの手紙は手渡しで。返事を必ず持ち帰ること。それがナガレの仕事だ。
つまり、レグシスが返事を書かぬ限り帰ることも許されない。
レグシスは小さく溜め息をついて手紙を受け取る。
封を開けて中身を読むと、心配だの、会いたいだの、おなじみの言葉が並んでいた。
正直、飽きた言葉だ。定型文を送り続けられても、こちらからの返事だって変化しない。
読んで表情ひとつ変わらぬレグシスを、ナガレは腕組みして眺めていた。
「届けたのもこれで何十回目か分からないけどさ、自分を愛してくれる女性からの手紙、心に響かないもんかね?」
「同じ言葉を並べられてもな。それに、俺を愛するとか、くだらぬ冗談はやめろ」
「同じ事しか書けないんだよ。ニーナ様はお前を待つことしか出来ない。お前の様子は俺が帰ったときに報告しているが、それも騎士の仕事のことだ。彼女は心配するしかないだろう」
「それはつまり、待つ人間を不安にするだけの仕事ということか」
「……」
ナガレは続きの言葉が出なかった。待ってくれている、すなわちそれは慈しんでくれている、そう言いたかった。
しかし、レグシスにはその感情を図ることが出来ていないようだ。
「それならニーナ様の心は穏やかではないだろう。心配などせず、俺のことを考えぬ方が落ち着くと伝えろ」
「いや、そうじゃなくて。お前のことを大切に思ってるから、お前の安全を願っているわけで」
「必要ないと言っているだろ。少なくとも一人で生きていけるだけの能力はある。そうやって生きてきた」
「いやいやいや、あの、だからね?」
レグシスは真顔で言っている。婚約者の思いやりが一切届いていない。
ナガレも、もはやなんと説明していいかわからなかった。
「俺はこれまで誰からも心配というものをされなかった。だからそういった気持ちはわからないし、求めない」
それを聞いて、ナガレにはわかった。
孤独に育ったレグシスには、まわりの誰かと思いを交わす術が身についていない。『同情』や『共感』という感情さえ知らぬ世界で生きてきたのだ。
他人から気にかけてもらう経験がなく、人の優しさに触れたことさえない。だから、レグシスはニーナから自分に向けられた感情を理解できない。
レグシスは心の大部分が欠落しているのだ。
彼の表情に感情が映らないのも、そのためだ。
「ま、とりあえず返事を書いてくれ。お前の文字を見るだけでもニーナ様は喜ぶんだ」
「俺の字に価値などない」
ナガレは頭を掻いた。とことん突っぱねるこの男、どうにかならんのか。自分の字が誰かを喜ばせると聞けば、たいていは悪い気にはならない。レグシスの自己肯定感が低い? いや、そう言うより『ニーナが文字ごときで喜ぶわけないだろ』と、相手を否定しているような言い方だ。
これもまた他人と関わりを持たずに生きてきた者の思考だ。
ナガレはレグシスの正体は知っているが、育ち方は知らない。が、その性格からだいたいの想像はつく。
レグシスは裏口から家に戻り、数分後、手紙を片手に出てきた。
「言っておくが、俺も同じような事しか書けない」
そう言って手渡す封筒も、毎回同じ物である。
ナガレはそれをすぐに帯の中へ隠した。
「それでいいんだよ。いきなり文面が変わる方が驚く場合だってある。しかし、騎士団の様子は変わってきてるんだろ?そういうことも書けばいいのに」
レグシスが団長に就いて以来、聖堂騎士団に対する世間の評判は上がっている。その噂も少なからずニーナにも届いている。
しかしレグシスは首を小さく横に振った。
「俺や騎士団の評価は他人に任せる」
「お前のそーいうところさ、ちょっとカッコ良くてムカつくわ」
「俺を良く思わぬ人間だっている」
「そーだな、俺は腹立つわ」
ナガレはわざとらしい意地悪な笑みを浮かべる。
「お前がいい男過ぎて腹立つ」
「それが俺に対するお前の評価ってことだな」
「そうだよ。ま、俺には負けるけどな」
するとレグシスは眼を細めた。
「そうだな」
意外だった。
ナガレもこれまでレグシスの苦笑や嘲笑は見たことがあったが、今のような肯定的な意思を示す表情は初めて見た。
さんざんナガレの言葉を否定していた先ほどとは真逆の態度に、少し拍子抜けしてしまう。
しかしこれは素直に嬉しいことだ。
それにしても、ニーナの話題には無愛想なくせに、ナガレの冗談には付き合うあたり、もしかしたら単なる不器用なのかもしれない。
冷淡なレグシスの人間臭い部分を見つけた気がする。
「なにニヤけてるんだ」
レグシスに指摘され、自分の表情が緩んでいることに気付く。
「いやいや、お前も変わってきてるんだなと思って」
「なんのことだ」
「一人で生きてきたお前は、今は一人じゃないってことさ」
「ああ、ラザには感謝している」
「うん。お前がいい兄貴に出会えて良かった」
そう言いながら、ナガレは手紙の入った帯に手を当てる。
こうして手紙を届けるたびに、レグシスが少しずつ心を開いてくれているような気がする。少なくとも今は、ニーナの護衛をしていた頃よりは纏う雰囲気がずっとやわらかい。
しかしそれは、この領での生活によるものだ。騎士団や領民との会話や暮らしがレグシスに良い変化をもたらした。
婚約者との手紙のやり取りも、レグシスの欠けた感情を蘇らせるきっかけになれば……。
まだ、その時期は来ていないようだ。
「じゃ、俺は行くわ。またな」
レグシスの肩を軽く叩いて、ナガレは去って行った。



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挿話11・ふたつの血−13



ジークは道標を失った。今まで道を照らしてくれた光が消え、暗闇の中で立ち止まった思いだった。
レグシスという憧れであり目標、騎士としての師を失い、この先どうして良いかわからなくなった。
あのあと、彼の身体は元修道士であるラザフォードによって聖水で清められた。
「昔の経験がこんなとこで役立つなんてな」
そんな皮肉を言って、ラザフォードは一人で義弟を抱え、聖浴室へ入った。さらに、二人だけで話したいとつけ加え、清める間は他の者の入室を禁じた。
聖水浴と着替え、故人を十字架の前に寝かせる清めなど、別れの儀式をラザフォードは一人でこなし、葬儀が終わるまで食事を摂らなかった。正確には食欲が失せたようで、清めの3日間、ずっとレグシスのそばに居て彼に話しかけ続けていた。
それほどに悲しみが深い義兄弟の別れを、ジークは後ろから見守ることしかできなかった。
喪失感よりも、罪悪感。
ジークはひたすら己を責めた。
レグシスを裏切ったがために招いた結果だ。正直にしていれば、侯爵も違った処分だっただろうし、逃亡も防げただろう。
すべて、ジークの選択肢の結末だ。
自分の選択が、レグシスを殺したのだ。

何度責めても、いくら自分を憎んでも、それでも日々は過ぎていく。
ジークはその日々を無理やり生きている感覚だった。
レグシスの遺志を尊重し、騎士団長の地位を継いだが、騎士団を流れる雰囲気は以前と違う。
やはりレグシスの存在が大きかったのだ。領は、侯爵とレグシスという屈強な支えを同時に失い、非常にもろくなっている。
今はとにかく騎士団を立て直さねば。
もとより命は捧げている。騎士になる決意と同時に、天に預けた命だ。
レグシスより譲り受けた団長の地位に、己のすべてを尽くそう。それが犯した過ちに対する最大の償いだ。


しかし、思った以上に状況は厳しい。
主のいないグラファトス領は、待っていたかのように国王が取り上げてしまった。
騎士団は資金源の半分を失い、遠征が厳しくなるなど騎士団の活動は制限された。
そこへ、領の壊滅を狙った王妃が追い打ちをかける。聖堂騎士団へあらぬ罪を被せ、騎士団解散と団員の処罰、財産の没収を命じた。
但し、条件を呑めば団員の処罰だけは免れるという。
その条件は、『団長の処刑』だった。
ジークはそれを、受け入れた。


・・・・・・・・


裁判もなく、家族に便りを出すことも許されず、ジークは騎士団本部の隣の塔の、粗末な牢に閉じ込められた。
そこでぐらつく木の椅子に掛け、ひとり自嘲し、笑んだ。
ここはあの魔女が入っていた部屋だ。あの日、魔女と侯爵の逢い引きを目撃し、罪深い沈黙を約束した牢だ。
今度は自分がそこに入り、裁きを待つ。
これはきっと運命だ。王妃に着せられたのは冤罪だが、自分はすでにそれ以上の罪を犯したのだから。尊敬するあの人を裏切り、死なせた自分にふさわしい。
もう生きる価値のない己の命ひとつで団員を守れるならば、よろこんで死のう。
ふと、廊下から足音が近づいてくる。監視の騎士か。それとも死神か。
湿っぽい壁にもたれながら格子の向こうを見ていると、現れたのは予想外の人物だった。
「ラザフォード殿……」
慌てて立ち上がり、寄っていく。
「天豹の監視がいたはずです。なのにどうして」
「地位と金とコネを使った。そういうのは好きじゃねェが、どうしてもお前と話したかった。今なら誰もいない」
「話ですか。そうですね、皆さん俺に言いたいことがたくさんあるでしょう。騎士団を潰すのですから」
そう言ってうつむく。しかしラザフォードは首を横に振る。
「それに関して悪いのは国王夫妻だ。俺が話したいのはレグシスのことだ。そしてアイツに代わって詫びたい」
「え?詫びる?」
ジークは顔を上げる。疲れたようなラザフォードと目が合った。
「レグがお前に渡した兵法書にサインがあったな。あれは本物だ」
「本物?」
そうだ、あれに王族名でのサインがあった。その真贋と王家の記録を天豹騎士団長のカインに調べてもらっている。
「レグの本当の名前は、あのサインのとおりだ」
「では団長は王族ということですか」
理解が追いつかない。確かに見た目は王族だった。だが、それについて本人は否定していた。
「でも団長は、自分は平民だと……」
「周囲にはそれで通していたが、実際は今の国王の次男だ。王妃である母親に酷い虐待を受けて育って、ある日、一方的に追放された。だから捨て子で平民というわけだ。笑顔がなかったのもそんな生い立ちが原因だ」
「そうだったんですか。なぜ団長は周りに打ち明けてくれなかったのですか」
「あくまで平民として自分の力でのし上がって家族に復讐し、王族名を取り戻す。それが目的だったからだ」
「……貴方には打ち明けていたのですね」
ジークは落胆した。やはりレグシスが本当に心を寄せて信頼していたのは義兄だけだった。
「勘違いするなよ、お前は今もレグに信頼されている。団長を継いだのもそうだろ」
「いえ、異端の件で騙していたのは俺です。裏切りました」
「ずっとそのことを気にしてるみてェだな」
「死んでお詫びします。団長が死ぬべきではなかったのです」
すると突然、ラザフォードが格子を力任せに掴んだ。
「牢に入ってて良かったな。コレがなけりゃお前を殴ってたぜ」
天井まで揺らすその勢いに、ジークはひるんだ。
「アイツの覚悟を、アイツの運命の選択肢を、お前のつまらん後悔で済ませるな。アイツは自分の死を予測してお前に兵法書を渡したンだ」
−−まさか、騎士団を去るおつもりですか?
−−いつか、な。そう遠くない。
兵法書をもらったときのやり取りを、ジークは思い出した。あれは、いつか自身に起こることを予想していたのか。
「レグはずっとお前を気にかけていた。怒ってなんかいない」
「……」
「むしろ謝るのはこちらだ。正体を隠し、周りを騙していた。今になってこれを話すことを、レグシスに代わり詫びさせてくれ」
格子を握ったままうなだれるラザフォードを、ジークはただ見つめることしかできなかった。
そうだ、ずるい。死んでから、いなくなってからこんなに大事なことを明かすなんて。
見た目どおり、深い教養と上品な仕草ひとつひとつが示していたとおり、彼はやはり王族だった。生きていれば王位継承者のひとりではないか。そんな人物を、自分は……!
「それでも俺は自分が許せません。団長の仕事を阻害し、結果的に死なせ、築いたものを壊すのです。恩すら返さず、罪を残すのです」
「お前はレグの復讐を手伝った。それで十分だ」
「兵法書はカイン殿の元にあります。もはや俺ではどうにも出来ません」
「いいや、お前自身のことだよ。レグは考えなしに補佐を置くヤツじゃない。お前だからこそ後釜として育てたンだ」
「……俺だから?」
「そうだ。……復讐に使う為にな」
ラザフォードは牢から離れた。
「お前が心酔していたアイツの本性は、優しさを持ち合わせた冷酷な男だよ」
復讐のため?
彼が冷酷? 自分といた間に、そんな一面があっただろうか。魔女騒動のときの行動では、情けはなかったが正当な理由はあった。
「喋りすぎた。俺はもう行く」
「……ありがとうございます。話を聞けて良かった」
「礼を言うのは俺だ。お前がどう思おうが、少なくとも団員たちは救われる。後のことは心配するな」
そう言ってラザフォードは去って行く。
足音が遠のくのを聞きながら、ジークは椅子に戻って考えた。
自分を復讐に使った、とはどういうことか。
大使の息子であることを指しているのだろうか。
自分が処刑された後、父はどうするだろう。
そもそもなぜ王妃はでっちあげをしてまで騎士団を潰すのか。
実の子を憎んでいたから、彼亡きあともその痕跡を潰す。そのために組織の長であるジークを処刑するのか。
しかし自分は同盟国の大使の子だ。もし冤罪で死なせたと伝われば、母国はどう動く?
「……そうか」
繋がった。レグシスの考えが。
副団長を差しおいて地位のないジークに次期団長を指名したのは、王妃の暴政を予見してのこと。兵法書にサインを残し、ラザフォードが一芝居打ってカインに渡させたのは、国中に王妃からの虐待と追放を知らしめるため。
そこへ大使の子の冤罪と処刑が加われば、今の王家は崩壊するだろう。
自身が死んでも復讐を成すために、ジークの身分を利用したのだ。さらに言えば、レグシスはジークを死なせることを計画の一部にしている。
ジークは薄笑いを浮かべた。
ああ、それでこそレグシスだ。はじめから復讐の材料にするためにジークを育てたのだ。
不気味なくらいに冷静で、緻密で、残酷。
ジークは涙を流しながら天井を仰いだ。
自分に対するレグシスのこれまでの言葉や行動は、すべて彼の仕組んだ計画に組み込むためのもの。
「わかりました。これが俺の最後の任務なんですね」
自分にしか出来ない任務。『死を遂げる』という任務。しかし……。
それでも彼への憧れは消えない。あの日、騎馬槍試合で見た輝かしい姿は本物だ。例え黒い事情があれど、貴族かぶれの遊び人だった自分を育ててくれたのも事実。
そしてやはり、違う道があったのではという思いはどうしても残る。
彼が死ななければこうはならなかったのだから。
わずかに差し込む陽の向きで、夕刻が近いことを知る。
ジークは、濡れたままの目をそっと閉じた。



・終・

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挿話11・ふたつの血−12



その後も、ジークはレグシスから仕事を与えられた。
これまでのように支部からの報告書の回収やまとめをこなし、レグシスの巡回の供をし、さらにはクーグロフの監視も命じられた。
侯爵の監視で裏切り行為をしたにもかかわらず、同じ任務を任される。
ジークは迷った。やはり信頼をしてくれているのか。それとも、これで同じ罪を重ねればとうとう許しはないという念押しなのか。
もちろん、ジークは二度と裏切りをするつもりはない。誠実にこなすのみである。
だから監視には特に注意を払った。レグシスからの呼び出しがない限り、侯爵の城内を歩き回った。
城の様子を見ると、明らかに以前と変わっていた。
侯爵の異端が発覚してから召使いがだいぶ減った。女中のほとんどは出稼ぎだったようで、ほぼすべての者が帰ってしまったらしい。
多く残ったのが兵士だ。騎士団員ではなく、クーグロフが独自に雇い、番人として城で働かせている男たちだ。彼らは身分や職や家のない、いわば『帰るところのない』者たちである。だからここに残り、侯爵に変わらぬ恩義と忠誠を誓っている。
ジークには、騎士団が侯爵の監視を始めてから、兵士たちの不満が募っているのがわかった。城や侯爵の護衛という仕事を奪われたと感じているようで、何かとこちらを睨んでくる。
一方で、クーグロフと兵士たちが稽古をしているのをジークは目撃している。病のために弱っていたクーグロフが活発になったことに違和感を感じぬはずはない。

−−ヤツは何かを企んでいる。
ある夜、ジークは仕事を終えて宿舎への道を歩きながらレグシスの言葉を思い出した。見上げれば星が弱く光っている。
自室に入り、灯りを点け、上着を脱ぎながら机の上を見る。
そこには先日、レグシスからもらった兵法書が置いてある。
椅子に座り、ぼうっと兵法書を眺め、これを渡されたときのことを思い出す。
−−俺が去ったら、お前が団長になれ。
レグシスはそう言っていた。
なぜ急にあのようなことを言い出したのだろう。
なにかを覚悟しているような口調だった。そして、自分がいなくなるのを確信しているようでもあった。
わけを聞こうとしても『いまにわかる』とはぐらかされた。
あとを任されたことは嬉しい。少なくとも仕事は評価されている。
しかし……彼は、あまりにも自分のことを話さない。
兵法書を引き出しにしまうと、ジークは机に伏した。疲れた体が睡眠を求めている。いつの間にかそのまま眠ってしまった。
燭台の蝋が尽きかけ、火が弱まった頃。日付が変わろうとする時刻だった。
ジークは仲間の声に起こされた。
−−侯爵が城を抜け逃走。ただちに城門前に向かえ。
かつてない緊張感。宿舎全体が揺さぶられるように騎士たちが廊下を走り、外へ飛び出て行く。そこへジークも混ざった。
城門前では、騎乗したレグシスが城を睨みつけていた。時折、何か思い詰めたような表情を見せている。
「俺が森に行く」
団員たちに向けてレグシスが言う。侯爵は森に逃げたとみられている。しかし、狼の棲まう、魔女の聖地だ。
「危険です」
ジークが止めるも、
「お前はここで守備に残れ」
きつく言いつけ、レグシスはラザフォードと共に馬を走らせてしまった。
レグシスと侯爵に確執があるのはわかっている。これまでのことから、侯爵はレグシスを誘い出すために逃げたことも読める。
そして、二人にしかわからぬこともある。今回の騒動の目的は、ジークにはわからない。
だが、とてつもなく嫌な予感がする。
夜風が涼しい。夜空を流れる雲は、星をのぞかせつつも今にも雨を呼びそうに重たい。
不吉。この不穏な気持ちはなんだろう。
落ち着かぬままジークは団員の列を組む。
……これが、レグシスとの最期の夜となった。


やがて雨が降り、それから少しして止み、再び空に星が瞬くようになった。
警戒を続けるも城に動きはない。
森の方はどうなったのだろうか。
ジークがそう思ったまさにそのとき、騎士がこちらへ駆けてきた。
「今すぐ森の入口へ。ラザフォード副団長が呼んでいる」
緊迫した様子に、ただ事ではないと直感した。全身に、ぞくりと悪寒が走る。
「一体何事ですか」
答えを聞くのも恐ろしかったが、質問する。騎士は周囲を見渡し、ジークにだけ聞こえるよう言った。
「団長が負傷して森から運ばれてきた」
「……え?」
「とにかく急げ」


城の裏手に回り、森の入口へ着くと、松明の灯りの下に騎士たちがいた。
ラザフォードが何かを抱えたまま座り込んでいる。
ジークには、はっきりと見えた。
彼が抱えているのは人で、上半身はマントにくるまれ、脚だけが出ている。が、どこも血が滲んでいた。特にマントは白いはずが完全に赤色に染まっていた。
そしてラザフォードの腕の中に金髪が見えたことで、それがレグシスだと確信する。
「これは……どうしたのですか」
訳がわからず、周囲に尋ねる。
ラザフォードが、俯いたまま答えた。
「侯爵がレグを刺して逃走した。いったん追跡を中止して、レグを施療院に運ぶ」
淡々と話しているように聞こえるが、レグシスを抱える腕は震えている。
ジークは思考が追いつかない。
刺した?逃走した?追跡をやめるほどの事態ということか?
副団長の腕の中のレグシスは一切動かない。大量の出血からして明らかに重傷だ。意識がないのだろうか。
「団長の怪我のほどは……」
ラザフォードの返事はない。代わりに、被さっていたマントがそっとめくられる。
近づいて、ジークはそれを覗き込んだ。
顔は泥と血に汚れ、瞼は弱く閉じられている。どこか寂しそうな表情で、眠っているようだった。
が、一目でわかった。
レグシスは息をしていない。
ジークは目を見開いたまま動けなくなった。
「……嘘ですよね」
脚から力が抜け、レグシスの前にへたり込む。
「気を失っているだけですよね?起きますよね?」
「森の広場で俺が見つけたとき、すでに倒れていた。侯爵はいなかった。何があったかわからねェが、胸を剣で刺されている」
そう言ってラザフォードはレグシスの頬を撫で、乾いた泥をやさしく払い落とす。
やがて、騎士たちが板を持ってきた。
そこにレグシスを寝かせると、騎士たちは次々とマントを被せていく。街が寝静まっている深夜、団長が戦死したことを知られぬようにするためだ。
不思議だ。なんの感情も起きない。心が空っぽになるというのはこういうことか。
ラザフォードが馬に跨がり、レグシスを運ぶ騎士の列を追う。
ジークもそれについて行った。



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