お人形、ねぇ。
敏樹は横森のやや斜め後ろに立つ女を眺めながら思った。
女の名前は確か如月といったか。下の名は知らない。名乗っていたような記憶も無いことはないが、実を言えば興味がなかったので努めて覚えようと思わなかったのだ。それはこれ以上関わることがないだろうと判断したからで、敏樹にとってそれ以上思考を廻らせるに値しないことだった。
如月は横森の説明を聞いているのかいないのか、熱心な瞳で横森を見詰めている。
学内を見渡すこともなく、横森の声を耳にし、横森の姿を視界に納めて、それで今日の目標は達成されたに違いない。
敏樹は一歩退き、防火壁に背を凭れる。二人の姿は、どう贔屓目に見ても仲の良い友人同士には見えない。それは二人に温度差がありすぎるからかもしれないなと敏樹は思った。
結局その忙しい人形のような女の手を煩わせる結果になったのだが、この状況を如月が申し訳ないと思っているようには思えず、なら初めから横森を指名して欲しかった―と敏樹は小さく息を吐く。
たった数十秒間のあの閉鎖的な空間での重力は、思っていた以上に敏樹に疲労を感じさせた。
如月はきっと、成り行きで案内することになった敏樹に罪悪感を抱いたのではなく、敏樹の威圧的な雰囲気に気圧され、やる気のなさに嫌悪したのだろう。だから敏樹を直視しようとせず、本当のことを話そうとしない。
腕を組んだまま敏樹は顔を上げてまた二人を眺める。横森の口許には、微笑。あぁ、飾りの笑顔だ、と敏樹は思った。
横森が人形だというならば、と敏樹は思考を飛ばす。あの錦織が形を造り上げ、あの神尾が魂を吹き込んだ。そこら辺のビスク・ドールなどよりもずっと精巧で価値のあるものに見えるだろう。いや、見えなければおかしいのだ。
アルカイク・スマイル―つまり微笑は、古代ギリシアでは呪術的な力を持つと信じられていた。敏樹は何となくそれが解るような気がする。微笑から連想させらるのは、慈悲だ。
横森が振り返る。少し首を傾けて唇に手を添える仕種は、完璧だ。敏樹は今日の横森に93点をつけた。残りの7点は、あとで横森にでも訊いてみようか。
「私はこれからこの書類を片さなければならないのだけれど、もし良かったらカフェか展望レストランに案内してあげてもらえないかしら」
「お前が来るまで待ってろって?」
「勿論、無理にとは言わないわ」
としき、と、声には出さず唇だけで呼ばれ、敏樹は思わず口端を上げた。珍しいことに、どうやら横森は腕も指も、その髪の毛一本すら如月にやる気はないらしい。
「良いも何も、俺が引き受けた仕事だしな、最後までやり遂げるさ」
「まあ」
「ごゆるりと、どうぞ」
態とらしく横森に腰を折れば、如月はぎゅうと鞄を握り締め、おどおどとしたように敏樹を見た。
――捕って喰おうと思えるほど、楽しそうじゃないんだよな。
綺麗に手入れされた黒髪を見ながら敏樹は思う。
横森が人形なら、如月には俺が何に見えているんだろう、と。
敏樹はエレベーターに乗る横森をじっと、それこそすがるように見詰める如月を見て、思わず宙を仰いだ。
ああ、やっぱりこんなこと引き受けるんじゃなかった。
チーズのこうじくんの続き。
直す気力がなかったらこのままチーズに載ります(笑←