消えたいということ2

会社で上手くいかなかったり、人生において辛いことが起きたとき、消えたいと思う。人間関係でも、むかつく人間とかかわりを持ちたくないとき、自分の心が弱いから消えたいと思う。楽しかったことだってあったはず。生きたいと思う人がたくさんいても、消えたら楽だろうなって思う自分の弱い心。不安だらけ。怖くて生きていけない世の中。なんでこんなにも自分は弱いんだろうかと。心は強くなれない?消えることはこわい。
生きたくても生きれない人もいる。なんでも上手くいって自分の思い描いている人生を送れている人は死にたいなんて思わないだろうな。どこでつまづいてしまったんだろう。50過ぎてもこどものやるようなことをしているような大人には絶対になりたくない。もう、人生終盤むかえているのに。そう、人なんで明日はわが身だ。前の自分は、やられたらやり返すってゆう気持ちだった。今は、やった人間と同じことをやり返していたら、そんな自分が嫌な奴と同じ人間になることを知ったから、かかわりを少しでももたないようにすることにきめた。あの女に言われた言葉ずーっと頭から消えないんだな。ムカつき過ぎて。でも、いいや。必ずひとのきもちを傷つけた人間には罰があたると信じているから。骨まで腐ってる。あいつは。あんな性格のわるい人間みたことない。

消えたいということ

死を望む人の心境とは?
 多くの場合、「死にたい」と訴えるクライアント(患者さん)は、積極的に「死」を望んでいるというよりは、むしろ、終りなく続くように見える苦しみからとにかく解放されたいという気持ちを強く抱いて、「死にたい」という言葉を口にされるものです。

「死にたいなんて、とんでもないことを考えてはいけない」
「死んだら周りの人がどんなに悲しむか、考えてごらんなさい」
「死ぬのは罪であって、人は生きなければならないものだ」
「生きるのはとても素晴らしいことなのだから、死んではいけません」

「死にたい」と告げられた周囲の人は、このような言い方で反応することがとても多いようです。どれも「どうにか生きてほしい」という強い願いから発せられたはずの言葉なのですが、しかし、これらの表現では意図に反して相手に「理解してもらえなかった」という落胆をひき起し、さらにその人の自責の気持ちを強める結果を招いてしまうことになってしまうのです。

 さて、それはなぜなのでしょうか?

「死にたい」という言葉
の裏にある気持ち
「死にたい」という気持ちを口にする人は、たとえわずかでも「ひょっとしてこれを話すことによって何らかの救いが得られるかもしれない」という期待を持っています。だからこそ、言いにくい気持を思い切って打ち明けているのだ、ということを聴く側は見落としてはなりません。

 打ち明けている本人は、「死にたい」と思っていることについて、決して罪悪感を持っていないわけではありません。むしろ、そんなことを考えてしまう自分を、執拗に責め続けてさえいるのです。

 そんなところに、先ほどのような「道徳的な説教」をされてしまいますと、「道徳的に自分を律することもできないダメな自分」という形で、さらに自己否定を強化する方向に追いつめてしまうことになるわけです。

 このような場合にまず必要なのは、本人の感じている辛さへの「共感」の作業です。「死にたい」という言葉が発せられている時点では、まだ「死ぬ」こととイコールなのではありません。むしろ、「死にたいくらい辛い」というSOSのメッセージなのです。

 ですから、何ら有効な助言などできなくともかまいません。中途半端に口を差し挟まずに、ただひたすらに「聴いてくれる」人間がいるだけでも、「死にたい」ほどの辛さは少しでも軽くなる部分があるのです。
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