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バンドの話。今までの事も。


2月くらいからだっけ?あれ4月だっけ?とにかくまだそのくらいの時からですね。
まだ、作品集の入稿が、とか嘆いてる時期です。

ツイッターにあれだけ散々喚いておきながら
正式に発表していなかった、そう言えば。


バンドが決まりました。

そう報告ができるとしたら6月に入ってからくらいかな。それくらい。


詳しいことは書かなかったから、
直接会う機会の人にしか何も話さなかった。

ここに来る前に自分の目指したいものへの大きな変化があったから
どう対応していったら良いのだろうとか
自分の色を生かせるだろうかとか
技術的にも付いていけるだろうかとか

不安が沢山。

寧ろ、初めは良い候補が見つかったという安堵に、
あとは不安と危機感しかなかった。

今まで何度もダメになって何年も見つからなかった。重さ。
あんまりにも長かったから
今回もその一つになる方が確率は高いのではないか。喜んでなんていられない、と。

少しづつ、時間をかけて
手探りに、でも確実に不安は消化していけた。

今までにない手応え。

世界に色がつくなんて、誰が言ったんだろうね。良い表現だと思う。
意識なんかしてないけど、バンドと全く関係ないじゃんって所まで
もう全てが体が軽くて。意識のどこかで常に心躍ってる。

昔を思い出した。

幾度かバンドを転々とした。サポート、仮加入、
インディーズデビューを売り文句にしてる所から、完全に気晴らしで遊んでるような所まで。
色んな原因はあれど、結局は「楽しくなかった。」
可能性を感じられなくて、賭けられなかった。だから辞めた。
忘れていたけどそう言えば私はこんなバンドを組みたかったんだと思い出した。
私がバンドを続けたくて上京した理由ってこれだったなと思い出した。



嬉しかった。


今はより具体的な目的があるけれど
当時はバンドで成功するんだと夢を見て上京した。

高校まではずっと絵の道で来た。
でもそれは高校時代には捨てていた。
「私は絵で夢を掲げません、プロなんか目指さない。バンドがやりたい」
やっぱり、バンドのボーカルじゃなきゃ嫌だった。
ただのボーカルも嫌。バンドじゃなきゃ嫌。
進学校だったから、白い目でしか見られなかった。
親とも長いあいだ険悪になった。
でもバンドがやりたかった。
 

群馬でやって、上京して、

転々としてきた所では、元々あった色や作曲者の好みを押し付けられる事が多かった。
1人でいるときに、作曲はできないけれどメロくらいはいいものを作れないかと作曲の本を読みあさった。
楽器全然わからないのに楽器の事とか出てくる。意味がわからない。
かなり時間はかかったけれど多少活かせる基本くらいは身に付いたと思う。

今回は、オケからの始まりだったから
勉強した事で結構助かった実感はあるけど
それより曲からイメージがどんどん湧いたから
「引き出されている」実感がした。
多分、私がソロでやる技術を持って出来たとしてもこの感覚は味わえない。 
 楽しかった。






ーーーーーーー





そう言えば去年、丁度1年前に私が加入する筈だったバンドは
お披露目直前で解散しました。
音源製作に向かっていた所でした。
 
その前にね
上京する直前のバンドでも
結構曲が好きだったんだけど音源の話が出た所で終わった。
 
 
 
これだけ、こんなにやって来てまともに残してきた「正式なもの」が何一つ無いんですか。
この悔しさは音楽に限らず表現やってる人ならわかると思う。
自分の足跡がないんですよ。
 
 
そういうのもあって
ようやくここで、って感じでした。
やってもいないことを、どう諦めろというのだろうと。
それがようやくここでやりきれそうだと。
 
 
 
「東京に来て一度も無かった、今度ようやく言えます。もう直ぐ」と仄めかしていたのは
あの時以来自分の携わったバンドを言葉にして褒めたことは無かったって事。
私は嘘はつけないどストレートな激情型の性格だから
誰も知らないしだろうけど、
「好き」だとか「かっこいい」とか一切使えなかった。意図的に使わなかった。
 
 
このバンドで、言えるぞ。
 
 
 
 
 
 
そう思って前のめりになってた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
本当にごめんなさい。嫌な書き方をしたかも知れない。
 
もしまだプロ思考だったらこういう載せ方はしないんだろうな。
 
 
 
 
製作に携わった人に最低限しか連絡してない。誰にも話せてない事。
 
察しはつく人もいたと思います。
 
 
 
 
 
 
少し混乱してる。ご容赦。
 
 
 
 
 
 
 
 
数日前、
企画が倒れました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今回こそは行けると思っていたのだけれどな。
 
 
 
 
今までとは違って
今回は特に誰がどうしたとかそういう拗れがあったわけではないです。
ただメンバーそれぞれやっていく内により明確に目指したいものや違いが見え始めて
 
より早く気づいて覚悟を決めたメンバーが動いた、それがきっかけになった。そんな感じ。
お互いにどう思っていたかは感づく程でもないくらい早かったから、驚きで混乱した。
人を引っ張れる眼を持つ人は決断が早いね。
 
 
解ってるんだ、解ってるつもりなんだけど
多分頭が拒否しすぎて、毎日何度も自分に言い聞かせないといけないくらい(笑)
どうやら一番混乱して、一番ダメージ受けてるのも私のようです。
 
1日顔はずっとぼーっとしてる。頭の中では凄いせめぎ合い。
無気力ともまた違うみたい(笑)
人と話すより今は考えさせて欲しいと。受け入れたい。落ち着きたい。
頭で分かっていることを受け入れないと先には進めない、解ってる。
 
なんか昔世話になった人が気にかけてくれてるみたいだ、
合わせる顔も何もなくて応じられてない。
その人に真っ先に報告したかったから。
どうでもいい人なら適当に流せるんだけどさ。
 
 
今までの生活に戻るのかと思うと、結構怖い。
良いものを良いと感じられなくなる色のない味気もない視界。
 
次のバンドが見つかるまで仮初の願い事で自己暗示をかける。
「私には絵もありますよ。」
 
助かるために、また忘れないといけないのかな。
 
 
 
 
 
 
 
まだ救いだったのは
製作中の音源はちゃんと出来上がるという事。
ここに確かに、時を賭けた事の証として。
 
私自身が体は強くなかったり、周りの環境や人の不幸もあって
結構「死」に触れて考えることが多くて。
 
 
足跡をね、確実に残して死にたいんだ。
 
 
 
知ってるんだよ。音源は持ってない私でも。
表現は物心つく前からやってる。画集の作品を厳選する時も特に思った。
 
いつか何年もたった後もこの大事に作った作品が本当に自分の大事な足跡になる。
 
だから、妥協してバンドなんかしないと決めた。
何度も妥協して自分ではない自分で目隠しをしてステージに立った。
凄く褒められた。
 
 
それが死ぬほど悔しかった。
あれだけ耐えて食いしばって、足跡になんかならなかった。
 
 
 
妥協バンドしか組めないなら引退したほうがマシだろうと覚悟をしていた。
 
 
 
「誰も褒めても叱ってもくれない所で独りで何ができるかが、決めるのだ」と私は偉そうに言った。
 
これは私のモットーの内の一つだ。
挫けては、この言葉を何度も自分に言い聞かせた。
 
でも諦めないで勉強し続けていた訳じゃない。
何年もそろそろ精神的にも限界だと思い始めた頃だった。
下積みで、足跡も残せないまま、終わるんだろうかと。
 
ここで。
今年画集に走っていた頃の話に飛ぶんだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そこまでへこむかとちょっと目を向かれるので、へこむまでのいきさつを綴ってみた。
誰かの愚痴じゃありませんでした。
 
ようやく好きだなと思えるバンドになりかけていたからこそ
これ程トドメを刺されたってだけの訳です。
 
酷い裏切りもされてないし(寧ろその逆)
誰かに慰めてくれとアピールしている訳ではないんだ。
今はまだ話しても仕方のないこと。何度も聞いてきた慰めの言葉も、今は本気で要らない。
 
無言で、うんと言ってくれるだけで良い。わがままに誰かの存在に縋る。
 
 
 
話すなら、愚痴ではなくて
どれだけ魅力的だったんだよって。
辛いほど、自覚。
 
 
 
 
 
 
 
悔しい。
 
 
悔しい。
 
 
皆、バンドが続くのは難しいと言ってる。
私は未だ正規で組むことすら出来ない。
 
のは、
自分に原因があると思った。
 
 
良い人にはちゃんといい人が集まります。
メンバーはこの先多分大丈夫だろうな。
 
 
 
 
やっぱり絵じゃだめだと思った。
あまりにも辛いから、少しの間自己暗示で忘れていた、楽しさを思い出してしまったんだ。
 
 
 
 
 
 
ライブ、したかったなぁ。

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