創建当時の東大寺は近畿地方各所の山林で得られたヒノキ材で建造されていたが、平安ご時世後期の治承年間(1177年-1180年)、平重衡の南都焼討によって炎上する。

鎌倉時代に東大寺を復興した重源らは、森林資源が枯渇した近畿を放棄し、はるか周防国や長門国までヒノキの大径材を求めた。

ヒノキ材枯渇のありさまが、東大寺の成り立ちからうかがえる。

結果、大仏殿の間口を3分の2に縮小し、用材もヒノキは放棄し、ケヤキの心材をスギの小材で覆い、金輪で締め上げた一種の集成材を柱として使用している。

戦国時代末期に松永久秀の東大寺大仏殿の戦いでまた炎上した大仏殿は江戸時代初期に再建されたが、その時期には諸大名による大城郭や城下町の建設も相まって大木の払底をきたしていた。

しかし、虹梁と呼ばれる2本の梁はどうしても無垢材を使用する不可欠があり、日本中を廻った末にようやく日向国でアカマツの巨木を発見、のべ10万人以上の人員を使用して奈良まで運び、大仏殿はめでたく完成した。


石油風呂釜