老 犬…3

「安楽死って? 男先生が言ったの!?」

母から報告を受けるなり、祖母は声を尖らせる。




「ええ、私だってもう1度聞き返すとこだったわよ。こっちは全然そんなつもりないのに」

医師の前ではプロの介護士って顔してたが、祖母の前では、母もただの娘になる。

「大学病院は無理ね。検査入院だけで10万円以上かかるって。で、こっからも遠いし。それで手術できないんじゃ、検査する意味ないじゃない」




「安楽死なんて……ダルはちゃんとウチで世話するわよ。最期まで、ちゃんと面倒みてあげるわよ」




意気盛んな女2人に対し、祖父はションボリ肩を落としてる。

ダルはもうダメなのか…

ポツンと呟いたきり、好きなビールもはかどらない。





僕は会話に加わる気にもなれず、ただいろいろ考える。

ダルのこと、祖父母のこと、他にも僕の知らない人たちのことを。



僕の祖父母は60代半で、仕事は引退してるが、それほど老いてるわけじゃない。

祖父の退職金や年金のおかげで、比較的安定した生活も送れてる。

それに、何よりも、3人の子どもの全てが近くに住んでいて、もし何かあれば、こうして実家に駆けつける。




医師が提示した安楽死という選択は、ある人たちにとっては……唯一残された悲しい現実なのかもしれない。

子どもや孫が離れ、仕事も終え人付き合いが疎遠になると、老後の寂しさから新しい家族を迎える。

大半のペットたちは、優しい飼い主に愛され幸せな生涯を送るだろう。

でも、ダルのように、障害を抱えてしまったペットはどうなる。

老犬とはいっても、ダルの体重は20キロ近い。

食事を与え、床ずれしないよう寝返りをうたせ、排泄物で汚れた体を洗ってあげることは、高齢者にとってどれだけの負担になるだろうか。



実は、祖父母の家では先月も猫が急性腎不全で治療を受けていて、それに5万ほど支払っている。

僕は、平均的な年金受取額というのを知らないが、こういったペットにかかる高額治療費を全ての老人が抱えられるとは思えない。

むしろ、そんな余裕があるのは極一部の恵まれた人たちで、今の日本の現状を見る限り、多くのお年寄りは自分の病気にかかる費用の工面すら苦心しておられるように思う。





もし、祖父母があと10才年老いてたら…

今ほど生活に余裕がなかったら…

そして、僕、母、叔父や叔母みんなが、遠く離れた地に暮らしているとしたら……


医師の言った安楽死という言葉は、情け深い響きを持って聞こえたんじゃないかな。

どんなに愛していても、どうしようもない現実と向き合わされる人たちは必ずいる。

それでも、飼い主たちが自分から愛するペットの死を口にすることはない。

そんなことは、自分たちに障害を抱えたペットを飼うことは不可能だと分かりきってたとしても、決して口には出来ないもんだ。

だから、医師は選択のひとつとして安楽死を提示するんだろう。

僕だって、安楽死という言葉を耳にした瞬間は、医師の冷徹さにショックを覚えた。

でも、あの先生は立派な人だ。

責任を持って治療してきた患者とその家族だからこそ、獣医師として、自から最も嫌な役を引き受けてくれたんだ。






「いつ退院させる?」

母は超楽天家だし……

「早いほうがいいわよ。明日にしましょ」




祖母は……

「そうね。じゃあ……家の中で診なくちゃいけないわねえ……

お父さん!!!

お父さんの部屋、ダルと半分コして使いなさいよ」

それを上回る楽天家だ。



母も祖母も、これから重度の障害を抱えたダルを迎えるというのに、異常に張り切ってる。


「大丈夫よ。家に帰ったらダルは良くなるわ。もともと気の小さい犬だから、病院じゃショゲちゃってんのよ」



「そうよねえ……ウチに帰ったら、元気になって、歩けるようになるかもしれないわね」



僕の家系は、代々この楽天家女たちによって支えられてきたものと思われる。