※突発SS
数年後設定、志朗・薫
「……さむ」
寒さで目が覚める、というのは、暑さで目が覚めることに比べれば不快感は少ないが、どちらにしろ気分が良いものではない。薫はぎゅっと目を瞑り布団へ顔を埋めると、何かを探るように腕を伸ばす。
薫の腕はすぐに、横で眠る志朗の背中に当たった。求めていた熱を得た薫は、満足そうに頬を緩めると志朗の背中へ体を寄せ、その腰に腕を絡める。赤い髪へ顔を埋めると、薫自身と同じシャンプーの香りが鼻をくすぐった。
「…なんだよ、薫」
「志朗の匂い嗅いでた」
「変な奴だな」
「だって安心するんだ…ごめん、起こした?」
「いや、目が覚めた。寒みいな、この部屋」
そう言うと、志朗はベッド脇にあるチェストの上へ手を伸ばす。暖房機のリモコンを探したが、目当ての物がそこに無いことを悟ると忌々しげに舌を鳴らし、代わりに煙草を手に取った。
「…志朗。そういえば、美人くんが訪ねてきたよ」
「…そうか。いつだ」
「うーん…3日前?いや、4日前かな」
「その日に言えよ」
志朗は銜え煙草のままベッドから上体を起こし、チェストの上にある灰皿を引き寄せた。ゴトリ、という重厚な音がしんとした室内に響く。
「…俺、美人くんに嫌われてるから」
「答えになってねえぞ。お前が、あいつを嫌いなんだろ?」
「…でも、美人くんが俺を嫌ってるのも、嘘じゃないよ」
薄い唇の端を歪めて、志朗は楽しそうに笑っている。その表情を見た薫は「意地悪」と呟き、自身の枕に顔を埋めた。
「まあ、知ってたけどな。3日前、訪ねたら私が不在だったと連絡があった」
「…美人くんと連絡取り合ってるの?」
「家族だからな。嫌か?」
「……嫌だけど。我慢する」
「なんで我慢すんだ」
ふう、と紫煙を吐き出す志朗が問うた。枕に埋めていた顔を持ち上げた薫は、俯いたまま小さな声で答える。
「嫌だ、って…美人くんに志朗が取られるって言ったら、志郎は俺が嫌になるから。俺のそばから、居なくなる……」
喉奥から絞り出すような言葉は、最後には殆ど聞こえなかった。俯いた薫の不揃いな髪がさらりと流れ、青白く細い首筋が露になる。
「…此処に居るさ。お前が、誰かと一緒になるまで」
「…要らない。志朗以外の人間なんて、要らない…!」
ひどく穏やかな手つきで薫の髪を撫ぜる志朗の瞳は、冬の空気のように澄んでいた。志朗は、目の前で震える男を、まるで少女のようだと思う。穢れを知らず、小さな箱庭が世界のすべてだと信じている。そしてその箱庭の住人に愛されなければ、生きてゆくことなど到底できないと思っているのだ。
「…そんなことはねえよ。あいつにも、大事な奴が出来たんだ。…お前とあいつは、よく似てる」
「……」
薫が顔を上げると、志朗は瞳を細めて微笑んだ。そして「寒みいからコーヒー淹れてくる」と言い残し、緩慢な動きで寝室を後にした。
「…でも、あの子は」
冷えた室内に残された薫がひとりごちる。
あのうつくしい子供は、今でも志朗を愛している。きっとずっと、愛しているよ…
「俺には、分かるんだ……あの子と俺は、似てるから」
けれど、違う。あの子と俺は違う。
あの子の指に光る、うつくしい首輪。あんなもの俺は欲しくない。俺が死ぬほど焦がれるものは、眠るように心安らぐものはーーー
「薫」
「…志朗」
「リビングで飲もうぜ。暖房入れといた」
「…うん、そうする」
薫は、裸足で触れたフローリングの冷たさに肩を震わせながら、寝室のドアに凭れ掛かる志朗の胸に飛び込んだ。自身よりも幾分背が低く、しかし自身よりずっと力強いその身体に、縋るように身を寄せる。
「なんだよ」
「…志朗の匂いだ」
「…ふ、変な奴」
志朗の手が薫の髪を撫ぜる。熱を帯びた薫の瞳が、震えた。
ああ、これなんだ。体温の低い、骨ばった志朗の手。この温もりと感触だけが、俺の心を焦がして安らぎを与える。俺が欲しいのは、
「…志朗だけだ」
「あ?」
「志朗がいれば、それでいい。…他はなにも要らない、なにも」
「……」
志朗は何も言わず、薫の背を押しながら寝室のドアを閉める。
薫の青白く細い腕を、振り払うことは多分、とても容易だ。それが出来ずに居るのは、恐らく優しさなんかではない。もっと別の、善とは言い難いものだろう。
ただ、今はこの気持ちに身を委ねても構わないと思っている。そうして、そのままこの少女のような男と離れることが出来なくなっても、後悔はしないだろう。多分、二人とも。
「……砂糖が切れてる。これじゃあコーヒーが飲めない……」
「練乳ならあるぞ」
誰も居なくなった寝室では、微かな煙草の香りがいつまでも漂っていた。