ゆっくりと、何でもないありふれた町並を眺めながら歩くのが、土門は嫌いではない。
何をするでもない、どこに向かうわけでもない、ただただ、ぶらりと歩くのだ。
雷門の町並みは、基本的には長閑で穏やかで、慌ただしく過ぎることのない時間の流れを感じられるのがいい。
雷門中に転校はしてきたものの、基本的にはサッカーに明け暮れていたから、この辺りの様子は実はまだあまり詳しくは知らない。
雷門中と、仲間たちと行き来する商店街と河川敷と、せいぜいがそんなところだ、知っていると胸を張って言えるのは。
だから、時折時間ができると土門はこうやって雷門の町をぶらぶらと歩く。
普段は通らない道を選んで。
本当に、ただ歩くだけだ。
そうして見つけた小さな公園のベンチに座ってみたり、塀の上をとてとて進む猫に歩調をあわせてみたり、のどかでいい街だななんてことを再確認する。
今も人懐こい黒猫の相手をしばしの間して、それから青い空を見上げながら足を進めていたところだ。
ぽかりと浮かぶ雲が青と白のコントラストを生み出して、ああきれいだな、とそんなことを思う。
もしかしたら自分は、元来のんびりとした性格なのかもしれない。
忙しい毎日ももちろん充実していてよいのだけれど、時折、こんな時間がとても愛おしくなる。
でも、ああ、こんな空なら誰かと分かち合うのもよかったかもしれない。
誰かにメールでもしようか、なんて考えた時だった。
差しかかった十字路を何を考えるでもなく右に曲がって、ふと下ろした視界に映ったのは見慣れた後姿だった。
学校や部活で会うようなジャージ姿ではないが、その人の背中を見間違うなんてことが自分にあるはずがない。
あ、と思わず声をあげて、気配を感じたのか見慣れた背中が振り返る。
いつもならゴーグル越しに鋭く光る眼が今は隠されることもなく赤をさらして、小さく見開かれ、
「鬼道さん、」
声をかけると微かではあるけれど、その目が優しげに細められたような気がした。
勘違いでなければいい、と密かに嬉しく感じながら、自分のために足をとめた鬼道の立つ方へとつま先を向ける。
「…ああ、どうしたんだ、こんなところで」
「鬼道さんこそ、こんなところで」
ここは雷門の町中、しかも雷門中とも河川敷とも離れている。
もともと雷門の人間ではない鬼道が何か用事があるとは思えないような場所だ。
口にせずとも、疑問は顔にしっかりと出てしまっていたらしい。
鬼道の口元が小さく笑みを形取る。
俺が町を歩いていたらおかしいか、と笑うから、おかしくはないですけど、と慌てて手を振った。
「少しな、雷門の町を見ておきたくなった」
意外に知らないものだな、近くの中学に通っているというのに、と辺りを見回す鬼道を、思わずまじまじと見てしまう。
「…………」
「……なんだ?」
「い、え、…なんでも……」
怪訝そうな視線に、にこりと微笑んでごまかして、ひっそりと土門は考える。
見たところ鬼道は一人だ。
誰と待ち合わせるでも落ち合うでも、目的地があるわけでもなく、ただ、町を見てみたかったから。
まさか、鬼道が自分と同じような思考で同じような行動をしていたなんて、なんて、
「嬉しい、かも……」
「何か言ったか?」
ぽつりと漏れてしまった言葉、それも、いえなんでも、とごまかす自分に鬼道は少し不機嫌そうに眉を寄せたが、せっかくだから一緒に歩きませんかと提案をすると眉間のしわは途端に消えて、かまわないが、と答えが返る。
機嫌良く、今の答えはもらったような気が、する。
もしも自分といることが彼の心に何か、どんなに小さな欠片でも残すなら、それだけで自分は嬉しい。
隣に並んだ。
さっき猫と遊んだんです、向こうに小さな公園もありましたよ、そういえば今日は空が綺麗なんですよね、と自分が見聞きしてきたものを伝えれば、そのたびにそうかと短い返事だけが返る。
そっけない返事だけれど、返してもらえるだけで土門は嬉しかった。
だって、誰かに空の青さを伝えたいと思った、その直後に出会ったのが鬼道さんで、そのままあてもないのに一緒に歩いて、一緒の時間を共有している。
広がる空に感謝したい気持ちになって、また見上げた。
それが、ちょうど踏み切りにさしかかった時だった。
土門が空を見上げた瞬間、かんかんかんと無機質な音が響いた。
赤い点滅がまもなくの電車の通過を知らせている。
ああ行くぞ、と鬼道が小さく呟いて、それから駈け出した。
思い切り上を見上げていた土門は足を出すのが一瞬遅れた。
「あ……」
身軽に前に進む姿をなんとなくぼんやりと見つめて、そうしたら降りてくる黄色と黒の棒に阻まれて、土門はこちら側に取り残されてしまった。
すぐ隣にあったひとが、遠くに離れてしまう、いとも簡単に。
かんかんと、踏切の鐘が青い空に響く。
土門の足が止まったことに気づかない様子で向こう側へと駆けて行った背中が、遠い。
あちらとこちら、二本の棒に阻まれて、自分はもう届かない、
手の、届かないところにいるんだ。
唐突に、思った。
ここに横たわるのは、まるで越えられない絶対的な壁。
距離にしてはたった数メートル、けれど、たった二本の棒に阻まれて、それから固い鋼鉄に視界を遮られて、その姿さえ、途切れ途切れになってしまう。
車両の隙間からのぞくのは、いまだに土門が追い付いていないことに気づいていないのだろうか、鬼道の後姿だ。
行って、しまう。
辺りの空気が通過する電車に飲み込まれて、ざあ、と風が起こる。
髪が引き込まれるように煽られて、思わず目を閉じた。
かん かん、と踏み切りの警戒音、
傍にいたって、そんなの物理的な距離だけの問題で、実力やそのほか諸々の、すべてが俺とは一段も二段も違うところに立っている。
帝国時代からそれはずっとそうで、雷門に来て、多少近づいたような気がするからといって、結局自分と彼の間にあるものの何が変わったというのか。
彼がその足を置くところは、すべてが、土門とは違うところで。
知っている、
そんなこと、
今更。
かん かん かん 、
ここに横たわるのは、まるで越えられない絶対的な壁。
距離にしてはたった数メートルだ、それでも。
自分はこのわずかな距離を阻むものを、越えるだけの力がない。
かん
と、最後の鐘が余韻を終えて、二本のバーがのろのろと持ち上がる気配がした。
けれど踏み出せない足は、その場から動かなかった。
目も、開けられない。
きっと鬼道は行ってしまった。
向こう側に、自分は、辿り着けない。
追い付くことのできないところに、行ってしまった。
だったらいっそ、もう二度と開いたりしなければよかったのに。
「土門?」
間近の声に驚いて、それから腕をつかむ体温に驚いて、目を開ければ至近距離に覗き込む赤い瞳。
「どうしたんだ、気分でも悪いのか」
わずかながらに心配の色を滲ませて、それから伸ばされた手が頬に当てられて、ひやりとした体温が心地よい。
土門、ともう一度名前を呼ばれて、その声の温度に不覚にも安堵して力が抜けてしまった。
くたりと力が抜けて、へたりこむのだけは辛うじて堪えたけど。
行ってしまうと思ったのに。
届かないと思ったのに。
越えられないと、
思っていたのに。
このひとは、越えてしまうのだ、こんなにもあっさりと。
「土門?」
自分にとっては越えられないものも、いとも簡単にこのひとは、
「どうしたんだ一体」
「…ちょっと……」
「?」
頬に添えられたままの手に、自分の手を重ねて、目を閉じた。
「ちょっと、距離を再確認してました」
「……?」
「そしたら、力が入らなくなっちゃって」
「………」
すみません、なんでもないです、言って目を開けた。
ごまかして、歩きださなければ。
おかしな心配をかけてはいけない、このひとに。
そっと手を外して、微笑んだ。
行きましょう、と体の向きを変える。
けれど、歩きだしたはずの足は、腕をつかんだ鬼道のそれに阻まれた。
ぐいと間近に覗き込む赤い視線に、どきりと胸が鳴る。
細められた瞳が、鋭く光って、きれいだった。
「いつだって迎えに来てやる」
真剣な瞳がまるで土門を睨まんばかりに見つめてくる。
赤い光にとらわれすぎて、一瞬言葉の理解が遅れた。
「……え?」
「お前が動けないのなら、俺が動く、それだけだ」
くるりと鬼道が背を向けた。土門の腕を掴んだまま。
引っ張られてよろめいて、追った視線は鬼道の背中に注がれる。
「…だから、お前は安心して俺の背中を見ていればいい」
俺の背中だけ、見ていればいい。
歩きだした背中から、首だけがわずかに振り返り、
「行くぞ、土門」
いつだって自信ありげに強い瞳。
届かない。多分これからも、届くことはないのだろうけれど、
「……はい、鬼道さん」
横でなくとも後ろでいいから、傍にいろと告げられて土門は小さく返事をした。
『踏み切り越しの背中に』
着いていきます、あなたに。
あなただけに。
2010.2.27