「よし、やるぞ!」
そんないつもと変わらない、けれどいつも以上に気合の入った円堂の声で、その日の活動は始まった。
そしていつも以上に念入りに柔軟をして体を解す面々を前に、円堂は満足気に微笑んだ。
「みんな、今日はがんばろうな!」
やる気に満ち溢れたキャプテンの声に、逆らうものなどあろうはずもない。
全員が元気のよい声でそれに答えて、めいめい手を上げたり拳を突き出したりしている。
今日は、サッカー部の練習試合なのだ。
「お、来たな」
アップを終えてボールを使う練習を始めた頃になると、二台のバスが到着した。
次々と雷門の門前に下り立つ帝国と木戸川、全国でも有数のサッカー名門校が公式戦以外で一同に会しているというのは中々に貴重な光景だ。
これは練習試合を申し込んだり申し込まれたりした響木監督が日程調整と相手校への連絡をこまめに行った結果で、三校戦ともなれば選手たちはもれなく奮い立つ。
雷門の面々に負けず劣らずやる気に満ち満ちた表情で、どの選手も雷門の門をくぐる。
中には旧知の友人に駆け寄るものもいて、あちこちで人の輪ができた。
「西垣!」
木戸川の一団に手を振ったのは一之瀬で、所属の一団からひょいと抜け出てそちらに駆け寄ったのはその西垣。
「一之瀬、久しぶりだな」
「ああ、今日はよろしくな!」
「今日こそ負けないからな」
「俺たちだって負けないよ」
そんな会話を交わしていると、一之瀬があれ、と校門外に視線を向ける。
どうかしたかと西垣もそちらを見て、
「うわ」
あんぐりと口を開けた。
特別大きいとは言いがたい雷門中の正門前に、さらに一台のバスが到着したかと思ったら、そこから続々と降りてくる人の波。
そして、その後にもどうやらまだバスが続いている。
「なんだ、あれ」
「………帝国の制服、か?」
確か前に試合をしたときにスタンドを埋め尽くしてた制服だ、と西垣が記憶を探りながら言った。
ジャージではなく制服姿の帝国の生徒が、列になって雷門中の敷地に入ってくる。
「土門、あれ、なに」
西垣の姿を見つけて駆け寄ってきた土門にそう問いかけると、ああ、応援だろと事もなげに土門が答えた。
帝国は何をやるにも徹底しているから、たとえ練習試合でもこうやってでき得る限りの人員を狩り出してくるのだという。
「でもまあ今日は、三校戦だから特別、かな」
普段はさすがにここまで大勢連れてこないよと土門は軽く笑ったが、西垣はさすがにやりすぎだろこれは、とグラウンドを囲む人の波に目を丸くしつつ呆れ果てた。
一之瀬がへえすごいねとにこにこしているのが信じられない。
相変わらず何が起きても動じない性格のままらしい。
「おおい西垣、アップ始めるぞ」
そこへ木戸川の監督から声がかかり、また後でなと手を上げて西垣が仲間の元に戻って行った。
「俺たちも戻るか」
「そうだね」
一之瀬と土門はまっすぐグラウンドに向かってしまったので、連れ立って戻る二人の背中をじっと見つめる人影があるのに気付かなかった。
三校がそれぞれ二戦ずつを追え、しばらく休憩を挟んで残りの時間は合同練習を行うことになった。
雷門の円堂くんのキーパー技を破る手がかりを得られたらいいんだが、と木戸川清修監督の二階堂修吾は考える。
帝国のフォワード陣の的確な貪欲さも、学ばせたい。
いや、雷門の全員サッカーの精神も、ぜひ取り入れたいところだ。
あれもそれもこれもどれも、と頭の中でいろいろと希望を出しすぎて、自分に苦笑した。
普段はそう欲のある人間ではないつもりだが、サッカーのことになるとどうにもいけない。
「監督」
呼ばれて顔を上げると、少しだけ懐かしい顔が少しだけ遠慮がちにこちらに向かっていて、二階堂は破顔した。
「豪炎寺」
元木戸川の教え子は、今日の練習試合でも当然のように最前線で、これでもかというほど活躍していた。
監督として指示を出すのが自分ではないのが、正直悔やまれるほどに。
いや、豪炎寺は雷門でとてもうまくやっているようだから、そんなことを言ってはいけないのだが。
「大活躍だったじゃないか。また上手くなったな」
誉めると豪炎寺は照れたように微笑んだ。
試合、ありがとうございましたと礼儀正しくお礼を言ったりするから、相変わらずの様子に嬉しくなった。
試合中のプレイを思い出して、あれもよかったこれもよかったと誉めてやろうと思ったときだった。
「あの…っ、」
背後から声をかけられた。
見たところ自分の周りには豪炎寺の他に誰もいないから、呼びかけられたのは自分か豪炎寺のどちらかしかいない。
首をぐるりと巡らせると、首元に大きなリボンを揺らした制服姿の女の子が数人立っている。
どうやら雷門中の制服だろう、ということは、この子達は雷門中の生徒。
豪炎寺に用事なのかと思ったのだが、どうやら彼女たちの視線は、真直ぐ自分に向けられているようだ。
木戸川の監督である自分に、おそらくサッカー部とは関連が無いと思われる女子生徒たちがいったいなんだろうと首を傾げる思いだったが、女子生徒たちはなにやらもじもじしているだけで、中々話し出さない。
見知らぬとはいえ子どもを無下に扱うことができない性格だから、努めて優しい声で応えた。
「何、かな」
豪炎寺から視線を外して向き直る。
「二階堂修吾さん、ですよね?元日本代表の」
それまでのもじもじはなんだったのか、という風に、勢いで込んで詰め寄ってきた女子生徒は総じて頬を紅く染めている。
現役時代ならともかく、ここ最近、ついぞそんな女性に囲まれた記憶がない二階堂は、いったい何事かと頭に手をやった。
「え?ああ、そうだけど」
「やっぱり!ファンなんです、握手してください!!」
「ええ?いや手洗ってないから汚いけど」
「構いません!」
若い女の子とはいうのはどうしてこう勢いが激しいんだろうとは結構昔から思っていたが、半ば強引に手を捕られてぶんぶんと振り回す勢いに苦笑した。
木戸川に落ち着いてからはしばらくこういうこともなかったのだが、他所に試合で出て行けば時々やはり、あるにはあるのだ。
ファンだといってもらえるのは嬉しい。
現役時代、自分を支えたのは自分の努力と精神力だけではなかった、と思っている。
周りの支えと応援があってこそ。
だから二階堂はできる限りファンを大切にしてきた。
それは今でも変わらないつもりだ。だから、
「ありがとう」
心から礼を言った。
サッカーを好きでいてくれる存在が、これからのサッカーを支えていってくれる、たとえ、プレイヤーでなくとも。
それはきっとこれからサッカーを志す少年たちの力となるはずだ。
なんでか二階堂監督は、やたらとにこにこ上機嫌に優しい顔で見知らぬ女子たちと話している。
せっかく話をしに来たというのに放置された形の豪炎寺は、不機嫌を隠すこともできずにむっと押し黙って監督の後ろに立っていた。
甲高い声で群がる数人の女子は、たいして実のあるわけでもない言葉を監督にかけては返事を返してもらって頬を染めているではないか。
せっかく久しぶりに話せる機会をもてたというのに、なんだというのだ。
あんなに優しい顔をするなんて。
そんなに女がいいのだろうか。
のんきに見えてそういうところはしっかりしているひとだったのかと、むかむかしてくる。
だいたいこの女子たちは、よく見れば普段は豪炎寺とか鬼道とか一之瀬とか、グラウンドの脇で散々騒いでいる女子どもだ。
練習に集中できないことこの上なくて、正直迷惑していたのに、さらに二階堂監督にまで。
……いやしかし、二階堂監督の現役時代を知っているということは、単なるミーハーではなくてもしかして純粋にサッカーファンの一面もあるのだろうか。
そう考えると、現役時代の監督がどれだけすごくてかっこよくて、魅力的だったか中学生ながらに分かっているというのはちょっと嬉しかったりもして。
自分でサッカーをするプレイヤーならともかく、プレイしたことのない人間には、本当のすごさというのはわかりにくいものらしいから。
などとぐるぐる考えていたのだが、
「二階堂さんに会えて感激です!」
そうかな、とでれでれと表情を崩した監督を見て、そんな考えはどこかに行ってしまった。
一方、雷門のベンチ側では、それぞれがストレッチをしたりドリンクを飲んだりと、散り散りになって過ごしていた。
秋から手渡されたドリンクをサンキュと受け取って飲んでいた土門に、一之瀬は俺にもちょうだいとねだって容器を手渡してもらったところだった。
新しいのもらえばいいだろと土門は呆れているが、分かっていない。
土門のがいいんだと言おうとして、
「あ、あの、土門、くん」
背後から遠慮がちに声をかけられて、土門だけでなく一之瀬も反射的に振り向く。
「ん?なに……って、あれ…?」
そこには一人の女の子がちょっと不安そうに立っていて、土門はそれを見て少し驚いた顔をした。
「えっと、……君、帝国の」
え、と一之瀬は土門の横顔を見上げたが、土門の方は小さな驚きに支配されてこちらに答える余裕もないようだ。
驚きと、それから多少の嬉しさを伴って、土門の表情は相好を崩している。
「久しぶり、だな」
「……!うん!」
土門が声をかけるとぱっと顔を上げてほっとしたように微笑む彼女は、いったい誰なのだろう。
「……土門、誰…?」
なんとなく不機嫌そうな声の一之瀬が尋ねてくるのに、しかしそんな一之瀬の様子に気付きもしない様子で土門は嬉しそうに答えた。
「クラスメイトだよ、帝国の時の」
「…………クラス、メイト」
一之瀬の声が少し沈んだ。
今まであまり気にしたこともなかったのだ。
雷門での彼はアメリカでの彼と何ら変わりが無くて、そして一之瀬の一番近くに常にいたから、離れた間に雷門での土門がどうだったかなんて、気にならなかった。
でも今、土門は彼自身が語りたがらない帝国の時の、一之瀬が知らない相手とはにかみながら話をしている。
自分の知らない土門の歴史を見せ付けられたようで、胸が痛かった。
ぎゅ、とジャージの上着の裾を掴んだのに、ごめんと土門は言った。
「悪い、ちょっと話してくる。一之瀬、後でな」
するりと掌からすり抜けた土門は、知らない女の子と連れ立って離れていってしまう。
やだ、と思うのに口は思うように動かなくて、ぽつんと取り残された俺はそこに立ち尽くすしかなかった。
「土門の、クラスメイト……」
自分の知らない土門、なんて、
知らない。
「豪炎寺、どうかしたのか?」
雷門の女子生徒がやっと行って、解放された二階堂はやれやれと待たせたままだった豪炎寺に振り返ったのだが、
「なあ、豪炎寺?」
何度呼びかけてもさっきから目を合わせない。
若干頬が膨れているようにも見えるのだが。
「豪炎寺?」
何か怒っているのだろうか。
何を怒っているのだろうか。
かと言って立ち去る風でもないから、言いたいことでもあるのだろうとは思うのだが。
ちらりと、視線だけが一瞬こちらを向いた。
それにこの状況の突破口を見つけた気がして、二階堂は豪炎寺の次の動きをじっと待った。
「…教え子より、見知らぬ女子の方が大事ですか」
ぼそりと呟いた声は、恐らく聞かせるというよりも思わず口から出てしまっただけの言葉だったのだろう。
言い終わった後ではっとして口を押さえた豪炎寺は、もしかして聞こえてしまったかとこちらを気まずそうに伺っているから。
"教え子より見知らぬ女子の方が大事ですか"
そんなわけがない。
断然、豪炎寺の方が大事に決まっている。
わずか一年足らずとはいえ、木戸川時代の豪炎寺にどれだけ自分が目をかけてきたことか。
そんなわけがないのだが。
「…………ん?」
いったいそれはどういう、意味だ?
まじまじと豪炎寺を見つめると、"大事な可愛い"教え子は気まずそうに視線を逸らした。
けれど、時折ちらちらと視線を寄越す。
多少、不安げに。
"女子の方が"
"大事ですか"
いったいそれは、
「豪炎寺」
呼びかけて近寄ろうとしたら、びくりと肩を震わせて豪炎寺が避けた。
「俺、これで、し、失礼します!」
くるりと勢い良く踵を返して、立ち去ろうとするその腕を慌てて掴まえる。
辛うじて手首を掴むことができて、ぐいとこちらも返す勢いで引っ張った。
「痛…っ」
途端に顔を顰めたので、すまんと慌てて離したが、また逃げられてはと思い直して今度は二の腕辺りを掴んだ。
ぎょっとして体をちぢこめた豪炎寺は、普段は細めの目をまん丸にしている。
「豪炎寺、さっきの、」
「………!」
びくりと体を震わせて、それ以上聞かないでほしいと全身で表すから、俺は少し困って、それから何というか、
「豪炎寺」
いちいち俺の言葉に小さく反応を返す豪炎寺が何だか愛おしくなって、
「お前の方が、大事だぞ!」
ぐいと引き寄せて間近に迫る顔に、思わずそう告げた。
丸くなっていた目がますます真ん丸に見開かれて、それからかあ、と赤くなる。
「大事だ」
もう一度言うと、真っ赤な顔が俯いて、小さな声がぽそぽそと答えた。
「わかり、ました、から、」
離してくださいとまるで懇願するような声。
何だろう、豪炎寺という少年は、こんな小さくて可愛い生き物だったろうか。
いや、教え子としては十分に昔から可愛がってきたが、そうではなくて。
「か、かんとく、」
離してくださいと繰り返した豪炎寺にはっとして、ぱっと腕を離した。
豪炎寺の赤さが伝染したのだろうか、何故だか自分まで頬が熱くなってきた。
動くに動けず、なにを言ったらいいのか分からなくなって結局ふたりそのまま、真っ赤な顔のままで立ち尽くした。
武方三兄弟の次男坊がいったい何してるんですかと不審気な顔で声をかけてくるまで、その状況は続いたのだった。
そろそろ練習再開の時間だろうかと、雷門ベンチに戻ってきた土門は、膝を抱えて座り込んで小さくなった一之瀬を見つけた。
手にはドリンクボトルを持っているが、どうもそれを飲んでいる感じでもない。
あれ、と考える。
あれはさっき土門が渡してやったボトルではないだろうか。
そして、座り込んでいるのは土門と別れた場所、ではないだろうか。
「……お前、もしかしてずっとそこにいたのか?」
そろりと近付いて声をかけると、しかし一之瀬は顔を上げなかった。
「だって、土門、俺を置いてく、から」
拗ねた様子で膝を抱えた一之瀬はまるで子どもだ。
いったいどうしたというのか。
「……さっきの子、何」
口を尖らせたその様子から、ああもしかして、と思う。
もしかしてもしかしなくてもこれは、ヤキモチ、というやつだろうか。
思い当たってちょっと妙な気持ちになった。
土門が女子と話していたところで、一之瀬が妬いたことなど今まで一度もなかったんだが。
いったいどうしたものか。
「あの子、誰」
恨みがましいまでの目で尋ねられて、土門は困り果てた。
あの子は実は帝国にいた頃に土門に告白をしてきた子だ。
クラスの中で特別目立つわけでもなかったが、友人に対して世話焼きなところがあって、面倒見が良くて、ちょっと秋に似た気遣いのできる子で、そんな女の子が自分を好きだと言ってくれた。
責任がもてないしそんな自信もなかったし、そんな余裕そのものが自分には無くて、それから秋と重ねてみているようで申し訳なくて、結局付き合うことは無かった。
無かったが、それでもお互いを意識して二人で過ごしたわずかな時間は、苦しかった帝国の中で唯一といってよいくらい、大切な思い出で。
久しぶりに会った彼女は土門が元気そうでよかったとそれだけを言ってくれた。
帝国にいた頃はどこか危うげな感じがしてそれが心配で、見ているうちに気になり出していつか好きになったんだよと、明らかに過去形のニュアンスを滲ませて話す彼女は、元気で、大好きなサッカー頑張ってねと応援だけをくれて手を振って別れた。
うんありがとうと、茶化すこともごまかすこともせずに素直に、本当に正直な気持ちで礼を言うと、彼女はうん、とにこりと笑った。
それだけだ。
「…ただの、クラスメイトだよ、元の」
だから、彼女の告白は隠してそれだけを告げた。
一応、嘘ではない。
しかし一之瀬はどうにも納得した様子ではない。
「でも、土門嬉しそうだったじゃないか」
「あのな、一之瀬、お前だって久しぶりに昔の仲間に会えたら嬉しいだろ?」
「でもあの子だって、すごく嬉しそうだった」
もしかして応援とかはただのついでで本当は土門に会いに来たんじゃないの、と恨めしそうな声と目で見上げてくる。
「土門だって、すごく嬉しそうだった」
あんな顔、しないでよ、と尻すぼみに一之瀬が呟いた。
いつもは呆れるほどに自信満々で自分に接しているとは思えないほどの憔悴振りだ。
正直、驚いた。
それから正直、嬉しいとも思った。
「ばか、だからっていってお前が一番大事なのが変わるわけじゃないだろ」
だから、土門にしては随分サービスをしてそんな甘い言葉を吐いたつもりだったのだが、今の一之瀬には効果が無かったようだ。
「だって、土門が、俺を置いてく、から」
ぐずぐずと同じ言葉を繰り返している。
あまりに珍しい。
そして、これは簡単には機嫌を直さないかもしれないと内心で大きく溜め息を付いた。
「……ごめん、機嫌直せよ」
「土門のせいだ」
「ごめんて」
「…心がこもってない」
「ごめん」
どれだけ重ねても言い募ろうとするから、少しだけ迷ったが土門は実力行使に出ることにした。
いちのせ、と名前を呼んで、上目遣いの小さな体にぎゅ、と抱きつく。
自分より少しだけ高めの体温は、いつも通りに温かくて、安心させようと思って抱きしめたのに土門の方がかえって安心してしまったような気がする。
「ごめん」
今度こそ、届いただろうか。
小さくなっていた一之瀬が、足を抱えていた腕を解いて、土門の背中に回してきた。
あの子の応援は、確かに嬉しかった。
久しぶりに会えて、嬉しかった。
だけど今、自分を支えて動かす一番のものは
「……お前がいるから、俺は頑張れるんだよ」
『ふたつのやきもち、ふたつのきずな』
それは、だいすきのさいかくにん。
2009.9.7
※※※※※※※
そらさまに捧げます。
リクエストありがとうございました!