どうも。ホントに3連休中家の敷地を跨がなかった(違う意味で)蜩です。
しかし引きこもりっぱなしだと性格が超ブラック(今日イライラしっぱなし)になる事が分かったので次の連休どうしよう。
やっぱり引きこもるでしょう。←
さてどこから書こうか。
日美(Eテレの方ね)のプライスコレクションの回の録画をさっき見ました。大神社展(だっけ)の回は見事に寝坊したので今週録画します。
プライスさんは今やこの名前を知ってりゃ美術通のフリが出来る(ブラックでごめん)若冲の発掘者である。若冲だけの展覧会なら興味は無いんだが、芦雪等他の作家の良品があるのでちょっと…いやかなり行きたい(しかし東北…に行く事に意義があるって分かってるよ!しかし東北………)
興味深いのは、プライスさんがその眼だけで買い集めた作品が、実は自然と若冲作品が集まっていた、という事。まぁ沢山買った中の何割かなんだろうけど、それでも知らずに集まってたんだから面白い事だ。
よほど若冲と肌が合った…見てるのは作品だけど、多分本人同士巡り会っていても(無理だけど、ifね)ウマが合ったんじゃないかと思う。
絵かきと作品と鑑賞者の関係ってそういうものじゃないかと思う。もちろん大きな例外もある。(笑)
その例外…て言うか、鑑賞者のフリして実は絵の何も見ていない人っているじゃない?名前と値段で見る人種。(だからごめん今日ブラックなの)
そういう人達には絶対に出来ない関係性。
プライスさんの様に純粋な眼で作品と対峙しなければ、そういう出会いは無いんだよね。
彼は『若冲作品』に美を発見した訳ではない。
美しい物を見た、それが若冲作品だった。
最近、青山二郎さんの文章を読んでるんですが(難解なんですが)
『美』というものは無い。『美しい物』がある。
というような言葉があるんですが(違ってたら後で直しに来ます…)、その一端がこういう事なのかな、と。
つまり当時何の評価も無かった作品を、何の曇りの無い眼で『美しい物』と見分けた。
我々がついやってしまうのが、美術館等にご立派に展示してある作品を、これが凄いのか〜と見て、なるほどこれの〇〇な所が美しい、だから立派なんだ、とその価値を知らずに評価してしまう事。…いやうん、言い回しが難しいんだけど。
言い変えれば、近頃流行りの化粧、例えばごっつい付け睫毛を、『これをすれば可愛い』と思い込んで付けて化け物になっている女…みたいな。だからゴメン今日ブラック過ぎるのよ。
ネームバリューに躍らされるなという話の様だが、事はそう単純じゃないと思う。
知識は必要だ、が、知識に囚われ過ぎずいかに眼を使うか、正しく物を見るか、という事だと思う。
若冲の事を言えば、その発見にそれまで見向きもしなかった日本人が飛び付きまくって名前だけが持て囃されて、完全に『ブーム』となってしまった時点で私はウンザリなのだ。流行れば何でもいいんだ、日本人は。(ブラックで以下略)
直接は結び付かないけど(オカシイな頭で考えてた時は結び付いたんだけどな)もう一つ。
ある画家さんが『作品が本物に近付く気がする』という事を書いてたんだけど、『本物』って何ですかとツッコミたかったがチキンで意地悪な私はスルーしたよ。
この場合ツッコんだ方が親切だと思うから意地悪な私はスルーを選んだんだけど。
なんだろうね本物って。
別に写実を目指してる方ではないので、実物に近付くという意味ではないと思うんだけど。
そりゃざっくり『より良く』と解釈しても良いんだろうけど。でも『本物』だよ?今『偽物』なの?て事じゃん。
かばちたれんなって石投げないでね。
…ただ、まぁ偉そうな事を言わせて貰えば、『本物』なんて抽象的な言葉を使っている限り『本物』にはならないと思うんだ。
『本物』が何なのか具体的に突き詰めない限りは、自分の目指す物というのは永遠に現れない。自戒として書くけど。
実体の無い『美』は無いんだ。全てが眼に見える。
眼に見えるように表すのが絵描きの仕事。
観て、頭で想って、手を動かして、観る。
そして想ったものを、誰かが観て、想う。
話繋がった?成功したかな?よしよし。笑