ПPECTYПЛEHИE И HAKAЗAHNE
『罪と罰』
フョードル・ドストエフスキー
読む直前に新聞の投書に
『読書で人生を棒に振った』
という記事があった
内容は
中学生で罪と罰を読んだが、他人が皆くだらなく見えてしまう
と、いうもの。
イイ歳したオバサンが何をたわけとんや
と思いつつ
あまりのタイミングの良さに苦笑を禁じ得なかったよ
目下投書コーナーには反論が掲載されているが
専ら読書は素晴らしいよ!という小学校か並の意見で面白くない。
それが言えるのはこの本を読んでいないからだ
もとい、オバサンにあんな幼稚な投書をさせた原因が抜けている。
だってオバサンの思考は
主人公であるラスコーリニコフの思考と
まんま被るモノだと読めばすぐ分かるからだ
つまりオバサンは読んだまんましかこの本を理解していない
重要な部分が削げ落ち、己に心地好い部分しか頭に残していないのだ
全く思考力が働いていない人間の一人だ
それなりの年月を生きた今再読すれば全く違う投書をしていただろうに。
前置きはさておき。
ちょっとガッカリな読後感から一夜明け
大嫌いな読書感想文でも書いてみよう
ガッカリというのは私個人的な意見なので念のため。
あれ以外に落とし所は無いよ確かに!
まあ平たく言えば恋愛オチ?
つまり人間が救われるには他人の存在無くしては不可能だと
まあ至極当然な事をドストエフスキーは言ったのだと思いますよ
あの時代にそれを言った事は新鮮だったのかも知れないし
あの結末だから読み継がれている名作となったんだろうけど
私は人間が孤独なまま救われる方法が欲しかったのかも知れない
単純に目新しい考えが欲しかった、と言うか。
まあエピローグでその辺の結末を纏め過ぎちゃってる感があるけど
ぶっ飛んだ!!愛の一字でぶっ飛ばした!!(笑)的な
アガペーは偉大だよ!!(アガペーなのか?)
まあ主題はやっぱりその名の通り罪と罰ですよね
何が罪であったのか
本当の罰とは何か
ラスコーリニコフは『虱のような老婆』を殺した事にほとんど罪悪感を持っていない
それは百の善行の為なら一つの悪行は許される、という考え方の元に為された犯行だから
しかし彼は己が『卑怯者』である事を知る
そして自首に至るんだが
結局彼自身は殺人に対して罪悪感を抱かない
しかし苦しみ抜いたのは確かだろう
それは自分が『特殊な』存在ではないと知った事、強烈に自覚せざるを得なかった事
それが何よりの罰なのだと思う。
では罪とは妄信か。
作中、(私から見れば)同じ様な妄信に取り付かれた人は多く出てくる。
誰もが自分に対して皆平伏すべきだと信じている。表面には出さないものの。
ラスコーリニコフの視点から見せられる彼ら(彼女ら)は憎々しいを通り越して滑稽である程だ
そして彼、ラスコーリニコフの思考に吸い寄せられていった読者も最後には彼らとそう変わらなかった事を知る。
つまり、自分自身の妄信を内省する為の書なのだと思う。
そりゃ誰だって全人類見下したい時ってあるじゃない?
イライラすりゃ誰でも虱に見えるものよ
そこに冷や水を浴びせる効果は有ると思うね(…まあ全く逆効果になるかも知れんが)
ドストエフスキー自身、この小説の構想は獄中で練ったらしい。
それも死刑判決で執行の直前に特赦されている(!!)
彼は秘密結社に組しており、その為に逮捕されたのだが、逮捕の為に殺人を犯さずに済んだ、という面があるらしい。
だから作者自身の内省の為に書かれた作品なのだろうと思う。
まあもっと色んな読み方は出来るよ
そう堅苦しくは無いのさ
エンターテイメント性も芸術的文学性も有る作品です。だから名作なのですよ。
ところで私は『孤独の中での救い』と言ったが
結局は全てラスコーリニコフ自身が決断した事であるから、あながち孤独ではない訳でも無かったのかも知れない。
ただソーニャというきっかけ(若しくは対象)が在ったというだけで
やはり孤独な中で己が救いを求めた、だから救われた、という結末なのかも知れない
見ようによってはただ単に人恋しくなったかツンデレだったか(オイ)
まあ深い物語じゃあるよ(疲れたな)
しかしやっと寝不足生活が解消できる…
以外と止められないので寝られない寝られない。
長期休暇に読む事をオススメします。
本当に読書感想文は嫌なモノだ
読み返したら恐らくあまりの馬鹿な文章加減に嫌気が挿すだろうね
ロシアの歴史を勉強したいです。