なつまるです。
今日は奇妙な話をしたい。
(願望どまりなやつだ)
「自然淘汰」という言葉があります。
「天の采配で間引かれて死にたい」、とかいった事を折に触れて思う(私のような)人間が好きな言葉です。
自然のままでいれば、劣る者はやがて生きていけなくなる。自然の摂理で死ぬ。
まぁ現在の人類は不自然だらけで生きているので、少なくとも自然淘汰は起きていないように見えます。
大半の人は自然でない状態、例えば部屋が暗くなってきたら灯りをつけて、テレビ見たりスマホでメッセージを送りあったり、晩ごはんの後は薬を飲んだり……そうやっていいことも悪いことも抱え、たまに文句言いながら生きてます。
あ、今更ですがことのついでに。
最近なんだか死にたい系の話ばっかりしますけれど、別に病状が特別悪化したとか、そういう訳ではありません。
(ただし特別に改善もされていない)
作業時間が短縮され、在宅時間がどんと増え、さすがの私もとうとう暇を実感しはじめたのです。
んで、
「なにもしないよりはいいかなー」
と、今までより言葉を選ばずブログを書いてみたら、内容も精査されなくなってきたという。
今までのフィルター何だったの!?!?
(それでも始めから今までなんだかんだ読者さんが存在するのはありがたい事です)
(でも私は「私の文章だから」と理由をつけて読めるけど、そうでない人はこんなん読んでいられるのかな、という安定の卑屈な自己評価)
もう自然淘汰関係なくなってきてますが、話を戻すにも大変そうだし頭痛いので(笑)、またいつか話します。
障害者という事で生きていると、どうしても劣る自分についてとか、関連して優生主義的な事や植松君(←そう呼んでる)の起こした殺人事件についてとか、考える時もあるのです。主に暇した時に。
「間引かれて死にたい」
と言いつつ、天はそんな理由で死なせてくれないのも承知しています。
ついでに言うと、こういう時に出てきやすい「神様」的な存在はいると思っています。いると思っていた方が楽しいというか、考え事に便利というか。
……うーん、でもあんまりこういう事言わないでいた方がいいのかな。
まぁいいか。
なんだか思考や思索も好きなつもりでいましたが、最近自分の限界を感じています。
今日の所はそろそろやめにして、ほうじ茶ラテでもいただきます。まだ牛乳はあったかなー。
それでは、またいつか。