すっかり夜も更けた頃……――
美しい金髪の少年はドアを開けて、自室に入った。
真っ暗なその部屋に人の気配は当然なく、彼は小さく息を吐き出した。
綺麗に整えられたベッドに倒れこむように寝転がる。
清潔に洗濯されたシーツは冷たくて、一瞬からだがこわばった。
彼……ハイドリヒはそのまま暫く、ベッドに転がっていた。
美しい蒼の瞳は、閉じられたドアの方へ向いている。
まるで、そのドアが開くのを期待しているかのように。
けれど……当然誰も、訪ねてなどこない。
時計の針はとっくに深夜を示している。
いつも賑やかな城もとっくに静まり返っていて、
部屋に聞こえるのは自身の呼吸と時計の針の音くらいだった。
ハイドリヒは小さく溜め息をはいて、
ベッドサイドのテーブルにおいてある"預かりもの"を手に取った。
ちゃり、と小さく音をたてる、それ。
ハイドリヒの手にはひとつのペンダント。
なかに入っているのは赤髪の少年とその妹が写った写真が入っている。
金具が緩んだらいけないからと開けたのは一度だけだが、
その写真の彼の笑顔が頭には焼き付いていた。
無意識にぎゅ、とペンダントを握りしめるハイドリヒ。
その表情は一見いつも通りの冷静なものだが……
その心の奥に渦巻く感情を読み解けるものは、一体どれくらいいるだろうか。
旧友であるカナリスと双子の弟のジークフリートは何か言いたげな顔をしていたから、
きっとハイドリヒの"内心"に気づいているだろう。
けれどもハイドリヒは何も言わず、なにも言わせず、
いつも通りに仕事をこなしていた。
外での任務も無論完璧。
いつも通りに、振る舞い続けていた。
……まだ、ドアは開かない。
これで、何日目だろうか。
賑やかな声と同時に扉が開かない日は、一体これで何日連続……?
「……ちゃんと、帰ってきなさい……」
思わず、呟いていた。
今はこの国にいない、無鉄砲で無邪気な赤髪の少年に。
***
彼……アネットが国を発ったのは一週間ほど前のことだ。
「ラインハルト、これ持ってて」
相変わらずノックもなしに部屋に入ってきた彼は唐突にハイドリヒに何かを渡した。
仕事中だったハイドリヒは少し顔をしかめてそれを受け取って……目を丸くした。
アネットが渡してきたのはペンダントだった。
彼が肌身離さず身に付けている、宝物。
盲目の妹がプレゼントしてくれたお守りなのだと彼は話していた。
「これ……」
「ラインハルトが持ってて。俺が持ってってなくしたら嫌だし」
持ってって、という言葉に引っ掛かった。
怪訝そうな顔をしてアネットを見つめるハイドリヒに、彼は説明した。
「俺、遠征いくことになったんだよ」
「遠征?」
訊ね返したハイドリヒにアネットはこっくりと頷いた。
「あぁ。ちょっと隣国で面倒な任務があるみたいでさ。
俺もそれに参加することになったんだよな」
明るい口調で彼はそういった。
まるで、遠足にいくとでもいっているかのような、楽しげな口調で。
けれど……
その表情の機微を読み取れないハイドリヒではない。
笑っているけれどその笑みが何処か曇ったものであることにはすぐに気づいた。
だから、訊ねた。
「何故、私にこれを?」
「だから……なくしたら嫌だから」
嘘をつくのが下手な彼はあくまでもそういって逃れようとする。
素直でまっすぐな彼にしては珍しい"逃げ"の姿勢だった。
しかしそんな誤魔化しに応じるようなハイドリヒではない。
彼は畳み掛けるように訊ねた。
「……普段、身に付けているでしょう」
アネットは戦闘部隊の騎士だ。
無論激しく動きもするし、戦いはしょっちゅう。
そんなときにも必ず身に付けているものなのに、
何故自分にこれを渡すのか、とハイドリヒは訊ねる。
彼の問いかけにアネットは曖昧に笑った。
短い赤髪をかき揚げる。
それは、困っているときのアネットの癖だった。
「あー……戦闘も結構厳しそうでさ」
「……それは、つまり」
ハイドリヒは言葉にするのを、躊躇った。
まさかな、という思いが半分。
残り半分は……その仮定が外れたらよいのに、と柄にもなく思っているからで。
アネットは少し迷う顔をしてから、いった。
「結構危険だから、ってアレク様が。
ま、死ぬような任務じゃないとは思うけどさ」
フォローするように付け足された言葉に自信はなさげだった。
だったら何故、と続けられなかったのは、
聡いハイドリヒがアネットの意図に気づいたからで。
「……わかりました。預かっておきましょう。
確かに貴方は慣れないところにいったら落としそうですしね」
「はは、だろ?
だから、ラインハルトが持ってて」
アネットはそういって、ハイドリヒに渡したペンダントごと彼の手を包み込んだ。
暖かくて、大きな手で。
その手が少しだけ震えていることには気づかないフリをした。
アネットにもプライドというものがあるだろう。
きっと、そのプライド故にこんならしくもない、
なおかつ遠回しなことをしているのだろうから。
だから、ハイドリヒもいつも通りに振る舞う。
「……アネットさん、離してください。
手を握られていては仕事が出来ません」
「うわ、ラインハルト薄情ー!
俺、明日から暫くいないのにそういうこというか?」
むぅう、とむくれたアネットはいつも通りで、ハイドリヒもほっとする。
アネットは渋々といった様子で手をほどいた。
ハイドリヒはアネットから預かったペンダントを制服のポケットにいれる。
冷たいはずの金属にはアネットの体温が移っていて、暖かかった。
書類にペンを走らせはじめて数分。
ハイドリヒは再びペンを止めることになった。
その原因は無論アネットで。
彼が、後ろからハイドリヒに抱きついていたのだった。
邪魔ですよ、とハイドリヒがいうより早く、アネットは口を開いた。
「……なー、ラインハルト」
「何ですか」
「お前と初めて戦ったときにも、このペンダントの鎖切れたんだよな」
「……覚えていますよ」
敵として戦ったとき、ハイドリヒの剣が当たって、このペンダントの鎖が切れた。
思えば壊してすまなかったと謝罪をしたときが、
"味方として"初めて会話をしたきっかけではなかったか。
それ以降、やたら絡まれるようになったのは覚えている。
そんなことを思い返したのが何だか気恥ずかしくて、
ハイドリヒは小さく首を振った。
そんな彼を見てくすっと笑うと、アネットは再びハイドリヒを呼んだ。
少し、甘えた声で。
「……ラインハルトー」
「……何ですか」
「大好きだ」
ハイドリヒは蒼の瞳を見開く。
何を言い出すかと思えば、とハイドリヒがツッコミをいれるより先。
アネットが唇を塞いでいた。
すぐに離れる、熱。
間近で見つめあったガーネットの瞳には不安と寂しさの色が揺れていた。
「……何、をするんですか……いきなり」
「理由なきゃ駄目か、キスしちゃ」
むくれるアネットに小さく溜め息を吐いて、"ダメではないですが"という。
アネットはその返答に嬉しそうに笑った。
「へへ、さんきゅ。
……俺、帰ってきたら真っ先にラインハルトの所来るからな!」
「……アレクさんへの報告が先でしょう」
わざとそういってやれば案の定アネットはむくれて。
そんないつも通りなやり取りをして……別れた。
***
―― あれから、何日経っただろう。
一体何れだけの数の騎士が任務に赴いたのかも、
現在の状況もハイドリヒは知らない。
統率官であるアレクはこの城にとどまっている。
その事がハイドリヒを余計に不安にさせた。
さして危険でない任務には統率官は赴かない。
もしそうだとしたら心配する必要は皆無だ。
けれども、もうひとつ可能性があった。
もしものことがあったとき、統率者が倒れてはならない。
だから、本当の本当に危険な任務にも統率官は同行しない。
そのどちらのパターンに当てはまるのか、
ハイドリヒも、そして周囲の騎士たちも図りかねていた。
アレクに聞けばもしかしたら任務の詳細を聞けるかもしれない。
現在の状況を聞くこともできるかもしれない。
恐らく、任務に赴いた騎士から連絡位は来ているだろう。
けれど……それは出来なかった。
自分が心配していることを周囲に悟られたくないというのがひとつ。
他部隊の騎士であるアネットのことをハイドリヒが聞くのは不自然だろう。
そしてもうひとつは……
悪いニュースを聞くのが嫌だった。
否、万が一そんなことがあればすぐにこの城では騒ぎになるはずだから、大丈夫だとは思うけれど……
そんなことを考えている自分が嫌で、ハイドリヒはきつく拳を握った。
爪が手のひらに食い込んで浅い傷を残す。
ずっと一緒だと約束した。
無邪気に笑って指切りまでさせた。
自分はフラグメントだから長くは生きられないと話したときも、
アネットは自分がなんとかするから大丈夫だと自信満々に言い切った。
それなのに。
「……私より、先に死んだら……」
承知しない、とハイドリヒは小さく呟いた。
けれど"死ぬ"というワードを口に出せば、
その事がリアルに頭に浮かんで、少し顔を歪めた。
人がいなくなるのは、騎士という仕事をしていれば日常茶飯事だと思っていた。
誰しもいつかは死ぬ。
自分達のような仕事をしている人間は殊更いつ死んでもおかしくないと知っている。
だから平気だと思っていた。
……けれど。
アネットがいなくなることを考えると、少し胸が苦しい。
いつも明るく笑ってくれた彼のことを、少なからず心配していると思い知らされた。
無事でいるのか。
怪我をしてはいないか。
彼の性格だ、無茶はしていそうだけれど……――
早く無事に帰ってくるように。
そうしたら説教でもなんでもしてやれるから、とハイドリヒは思う。
冷たいペンダントを握りしめて、ハイドリヒは小さく溜め息を漏らした。
***
そんな、ある夜のこと。
ハイドリヒはいつも通りに夜までのパーティの仕事を終えて、部屋に戻っていた。
疲れた体をベッドに横たえて数分でどうやら意識を飛ばしていたらしい。
このまま寝てしまおうか、シャワーを浴びておこうかと悩んだとき。
優しく、髪に触れる感覚に気づいた。
長い金髪を優しく撫で付けている、暖かい手。
慣れた手だった。
けれど、ハイドリヒは驚いて目を開ける。
「あ……」
ばっちり、ガーネットの瞳とかちあった。
"起こしちまった……"と小さく呟いた声にハイドリヒの意識ははっきりした。
慌てて体を起こす。
「アネット、さん……」
そう、ハイドリヒのベッドサイドにいたのは、他でもないアネットで。
決まり悪そうな顔をして、彼は頭を掻く。
「う、ごめん。起こすつもりなかったんだけど……」
あわあわ、と焦って言い訳を考えているアネット。
案の定無茶は多少したらしく、日に焼けた頬には大きな絆創膏が貼ってあった。
けれど、元気そうだ。
「いや、あのな……ほんとは朝まで我慢しようって思ったんだけど、
やっぱ、ラインハルトに一番最初にただいまって言いたかったし……」
ああ、いつも通りの彼だ。
ハイドリヒはそう思って……
思いきり、アネットの頭を小突いた。
「痛っ!?何すんだよラインハルト……」
「遅いです」
帰りが、といってハイドリヒはアネットの首に"預かりもの"をかける。
冷たい鎖が皮膚に触れた瞬間にアネットは小さく声をあげた。
アネットがそれに抗議するより先に、ハイドリヒは言った。
「……お帰りなさい」
「……おう」
アネットはにかっと笑ってハイドリヒを抱き締めた。
勢い余ってハイドリヒをベッドに押し倒した形になる。
ハイドリヒは驚いて少しもがいた。
「っ、アネットさん、離して……」
「やだ。ずっとこうしてる」
"ずっと離れてたんだからいいだろ"とアネットはいう。
痛いほどに強く、アネットはハイドリヒを抱き締めていた。
「……アネット、さん……苦しい、ですし私……」
「煩い。おとなしく抱かれてろっての……」
甘えさせてよ、といってアネットは強引なキスをひとつ。
それからさらに腕に力を込めて、ハイドリヒを抱き締める。
そのままハイドリヒを抱き締めて……アネットは、寝息をたて始めた。
腕をほどこうにもほどけないし、起こそうと声をかけても起きない。
「全く……」
ハイドリヒはひとつ溜め息を吐いて……小さく、笑った。
アネットが見ていたら嬉しそうに笑みを深めるであろう、穏やかな笑み。
これじゃあシャワー浴びるどころではないな、とか。
アネットは明日アレクに叱られるだろうな、とか。
そんなことがハイドリヒの頭に浮かぶ。
けれど、アネットの寝息を聞いているうちにすべてどうでも良くなってしまった。
―― お帰りなさい。
もう一度だけ、優しく呟いて。
ハイドリヒも目を閉じる。
その声が聞こえていたかのように、アネットは嬉しそうに表情を綻ばせた。
―― おかえりとただいまと… ――
(久しぶりに感じた温もりに体の力が抜けた。
明るい笑顔と煩いくらいの声に安心した)
(私だって思っているのですから。
貴方が私を心配するのと同じように……)