「んー……気持ちいいー」
アネットは思いきり伸びをした。
つい先程まで訓練に使っていた剣は脇においてある。
吹いてくる潮風が心地よい。
内陸のディアロ城周辺では嗅ぐことのできない潮の香りに、アネットは目を細める。
たまに来るくらいならこういう場所も良いな、と思った。
「集合っ!」
遠くで聞こえた集合の声にアネットは顔をそちらへ向けた。
辺りに散っていた他の仲間たちも駆け足で集合していく。
そこに集合していたのはアネットたち炎豹の騎士と、見慣れない制服の軍人。
「海軍、かぁ……」
整列しつつアネットはちらりとそちらに視線を向けた。
整列しているディアロ城の騎士たちの隣には、
この街を拠点としている海軍の軍人たちがいた。
アネットは目を細めて彼らを見る。
その刹那、べしっと不意に頭をひっぱたかれて、アネットは背筋を伸ばす。
「前向けアネット」
隣で同期生に叱られる。
アネットはちらと舌を出して、前を向き直した。
「そういえば、ラインハルトも元々海軍の人間だっていってたっけ」
アネットは小さな声でそう呟いた。
行き掛けに"気を付けていってきなさい"とそっけなくいったハイドリヒを思い出す。
彼の蒼の瞳に揺れていた微かな心配の色を読み取って、
アネットは嬉しさを感じていた。
気を付けろ、と言われるほど酷い任務だとは聞いていない。
相手の海軍も無論切れ者だというし、海の傍での任務なのだから、
相手にとっては勝手知ったる、といったところだろう。
―― とはいっても。
慣れない組織との連携はやや不安がある。
殊更、アネットのように少々癖が強い騎士の場合は。
仲が良い相手がいれば励ましあったりすることも出来るのだが、
アネットはこう見えて周囲ととても仲が良いかと言われればそうでもない。
と、全員集まっていることがわかったのか、前に出てくる海軍のトップ。
アネットたち含め全員がびしっと背筋を伸ばした。
「任務遂行は明日の午前五時からとする!それまでは各自訓練に励むように!」
「各々我々の軍の者と同室になってもらう。
わからないことがあったらその相手に聞いてくれ」
軍のトップとおぼしき人間から指示が出て、各々散っていく。
同室となる人間を迎えにいけと言われているのか、
周囲にいた仲間も少しずつ減っていく。
アネットが若干不安げな顔をしたとき。
つんつん、と後ろから背中をつつかれた。
驚いて振り向けば、そこには一人の少年が立っていた。
年は、自分とほぼ同じだろうか。
短い黒髪の少年である。
「いきますよ」
短くそういった彼はアネットを先導して歩き出す。
凛とした雰囲気が誰かに似ている気がした。
部屋につくと、軽くこの建物のことを説明する。
設備や明日の集合時間、準備や心構えなどだ。
「他になにかわからないことは……?」
「ない!ありがとーな!
あ、自己紹介してなかったな。
俺アネット。短い間だけどよろしくな!」
アネットはにかっと笑って、黒髪の少年に手を差し出す。
人懐っこい表情。
黒髪の彼は躊躇うように視線をさまよわせてからアネットの手を握った。
柔らかく細い指。
アネットはそれを見つめて、ふっと笑う。
「きれーな手だな。お前、名前は?」
「……トリスタンです。よろしくお願いします」
少し間を開けて、少年は応えた。
きっちりと礼儀正しい挨拶をする彼にアネットは苦笑。
こういう相手が身近にいるため、付き合いづらいとは思わないが、
もう少し気を抜いてくれても良いのになー、という顔をする。
トリスタンと名乗った少年は短い黒髪を軽くかき揚げて、ちらとアネットを見た。
彼の腰には剣が携えられている。
小さく溜め息を吐き出して、トリスタンはいった。
「あと……剣、手入れした方が良いですよ」
「へ?何で?」
アネットはきょとんとした。
確かに普段もよく剣の手入れはするのだが、
今日は訓練しかしておらず、ものを切った訳でもない。
する必要はないんじゃね?とアネットはいった。
黒髪の少年はやっぱり、と小さく呟く。
そして、いった。
「潮風にずっと当たっていたでしょう。
そのままにしておいたら錆びてしまいます」
「げ、マジ?それはマズいな……」
アネットは慌てて剣を抜く。
彼ら、戦闘部隊の騎士にとって、剣の切れ味が悪いのは致命的。
いざというときに切れない剣では身を守れない。
アネットは剣を抜いて、丁寧に手入れをする。
その手つきは流石に手慣れていて、黒髪の彼も思わず見入った。
と、アネットの手が止まる。
ふっと遠くを見るような顔をしている彼を見て、トリスタンは首をかしげた。
少し心配そうな顔だ。
「どうかしましたか?体調が悪いのならば……」
慣れない環境で体調を崩したのでは、という顔をするトリスタン。
しかしアネットは小さく首を振った。
「否、具合悪いわけじゃねぇよ。
ただ……早く帰りてぇなー……って」
アネットは窓の外を見ながら呟いた。
それを聞いて、トリスタンは小さく首をかしげる。
「何故ですか」
「んー?一緒にいたいやつがいるから」
アネットの言葉にトリスタンはまばたきをする。
アネットは一緒にいるのが"見ず知らずの人間"であることを忘れているかのように、
平然として、いつも通りにいった。
「俺なー、大好きな奴がいるんだよ。
海軍と一緒に任務することになった、いったら何か心配そうな顔しててさ。
大丈夫だよーっていって出てきたけど……
俺もやっぱ離れてると寂しいしさ、早く帰りたいなって……
ん?どうした、トリスタン」
アネットは彼の方を見ながら首をかしげた。
彼はアネットを見たままフリーズしている。
しかしアネットの問いかけにはっとすると、
黒髪の少年はぷいとそっぽを向いて、立ち上がった。
「わ、私たちはこれから会議があるので一旦失礼いたします!」
そういうと彼……トリスタンは勢いよく部屋を出ていった。
一人部屋に取り残されたアネットはキョトンとしている。
「会議……?んなもんあったのかな?
どうしたんだろ、彼奴」
***
―― 数分後。
トイレの個室のドアを閉めて、黒髪の彼は溜め息を吐いた。
同室者の"彼"を思い出して、呟く。
―― 喜ばしいような、悲しいような……
そう呟いた彼の様子が、変わっていく。
夜のような漆黒の髪は艶やかな金色に代わり、長さも伸びる。
美しいその容姿は、アネットにとっても見覚えのある彼……ハイドリヒで。
そう、トリスタンという少年は、ハイドリヒが変身術で姿を変えたものだった。
変身術を使い続けることは正直かなりの魔力を消耗する。
比較的変身魔術は得意な方だが、時々こうして解かなければ、
そのうち倒れてしまうだろう。
そうなればことだ。
「……まったく」
くしゃり、と金色の髪をかき揚げてハイドリヒは呟く。
目を閉じて思い出したのは"此処に至るまでの経緯"である。
アネットも思い返していた通り、ハイドリヒは元々海軍にいた人間だ。
当然その内部のこともよく知っている。
アネットたち炎豹の騎士が彼が元々いた海軍と連携任務に挑むと聞いたとき、
ハイドリヒは一抹の不安を覚えた。
なれない場所、なれない組織での任務。
海の傍で任務をしたことがあるのかと聞けば、
たまにしかないと返していたアネット。
それを聞いて、ハイドリヒはある決意をした。
それが、現在の格好の理由である。
正直、海軍での上官……海軍元帥には会いたくなかった。
因縁が深く、会いたくなどない。
しかし、組織に潜入するには……直接会うしかない。
直接顔を合わせ、交渉した。
そうして姿を変え、組織に紛れ込んだハイドリヒ。
上手くペアを操作して、アネットとペアになるように仕組んだのも彼である。
正面切って参加を申し入れられる立場ではないが、
何かと危なっかしい彼含め、お人好しの騎士たちのサポートをしてやりたくて……
無論、それを顔に出すハイドリヒではないけれど。
それにしても、とハイドリヒは思った。
―― 一緒にいたいやつがいるんだよ。
先ほどのアネットの言葉を思い出して顔が熱くなった。
その本人が目の前にいることにあの少年は一切気付いていないらしい。
確かに容姿はハイドリヒの元の姿に似ても似つかないし、
名前も"一応"は誤魔化している。
けれど、気づく要素はあるだろうに。
ついでに、気づいているのでは、と思うような言動も少々あった。
でも単純な彼は気づいていないようで……
それに安心するやら、がっかりするやら、だ。
「とりあえず……もう少し、此処にいますか……」
魔術が回復するまでは……
基、頬の熱が引くまでは、とハイドリヒは目を閉じたのだった。
***
結局、任務は無事に終えた。
海戦に慣れていない炎豹の騎士たちは少々苦戦していたが、
トリスタン……基、ハイドリヒ含め、海軍の人間がそれをサポートした。
海辺に現れる魔獣は独特の動きをするものが多い。
塩水を被り、皆揃って水浸しではあったが……無事に、完了はした。
「あ、おい!アネット!?」
「悪い、俺先帰るから!」
アネットは自分を呼び止める他の騎士たちをおいて、城へと向かう。
ハイドリヒに会いたいから一刻も早く城に帰りたい、と思っていたのだが……
「あれ!?」
アネットは叫び声をあげた。
道の途中。
見慣れた金髪の少年がたっている。
その隣には黒髪の青年……カナリスも立っていた。
「ラインハルト!ヴィル!」
アネットは二人を呼びつつ大きく手を振った。
それに気づいた二人は手をあげる。
「ただいま!ふたりとも!」
アネットは二人に駆け寄ると、真っ先にハイドリヒに抱きついた。
ハイドリヒは顔を真っ赤にしていう。
「わ、アネットさん……っ離れなさ……っ」
「……ん?ラインハルト、髪濡れてねぇ?」
アネットはいつものようにハイドリヒを抱き締めつつ、その事に気づいた。
長い彼の金髪が少し濡れている気がしたのだ。
ハイドリヒはその言葉に溜め息を吐く。
カナリスはそんな彼とアネットを交互に見て、苦笑を漏らす。
「アネットさん……気づいていませんでした?」
「うん?何が?」
金髪の彼を抱き締めたままきょとん、とするアネット。
ハイドリヒは"カナリス!"と叫んで彼の言葉を遮ろうとする。
しかしカナリスは小さく笑うと、いった。
「ライニ、ずっと貴方の傍にいたでしょうに」
カナリスはアネットにいう。
ずっとハイドリヒは傍にいた。
任務にも参加していたから、髪が濡れているのだと。
しかし当のアネットはきょとん、である。
「え……?ラインハルト、いた?
俺、傍にいたいなぁってずっと思ってたのに……
何処にいたんだよ!」
いってくれればよかったのに!とむくれるアネットに、
カナリスは思わず溜め息を吐いた。
ハイドリヒはといえば、相変わらずに複雑そうな顔をしている。
カナリスはアネットにいった。
「あの、アネットさん……一緒にいた黒髪の少年、覚えていますよね」
「ん?トリスタンのことか?
ラインハルトに似てるなぁーって思って、
だから一層ラインハルトに会いたくなったんだよ」
アネットはハイドリヒを抱き締めながらそういう。
一緒にいた、黒髪の少年。
凛とした雰囲気や、冷静な物言い、綺麗な手……
所々にハイドリヒの雰囲気を感じていた。
それで一層ハイドリヒに会いたいと思ったのだと彼はいう。
ハイドリヒは諦めたのか、もがくのをやめた。
カナリスはそんなアネットの様子を見つつ、いう。
「……あの、アネットさん……
ライニのミドルネーム、わかっています?」
「みどるねーむ……」
なんだそれ、というようにアネットは首をかしげた。
その反応にカナリスは肩を竦めた。
このようすじゃわかってないな、というようにいう。
「……そろそろわかっていると思いますが、その少年がライニですよ。
トリスタンはライニのミドルネームです」
「え!?」
アネットを見開いて、ハイドリヒを見た。
彼はぷい、と顔を背ける。
その頬は、僅かに赤くなっている。
ようやく状況を理解したアネットはハイドリヒにいった。
「何でいってくれなかったんだよー!
ちゃんといってくれたらいつも通りに過ごせたじゃん!」
「堂々顔を曝して海軍にいられる立場じゃないのですよ、私は」
「……まったく、貴方という人は」
ハイドリヒは溜め息をつくばかり。
カナリスはカナリスでアネットを見て、あきれたようにいう。
「貴方は仮にも恋人と呼んでいる人間のフルネームも覚えられないのですか……」
「だ、だって……!
俺最初、ラインハルトの名前だって忘れてたんだぞ!」
覚えてるわけないだろ!とアネットはいう。
確かに、アネットは初めハイドリヒの名前さえ忘れていた。
フルネームは一度名乗ったか名乗ってないかくらいである。
しかし"威張るところではないでしょうに"というハイドリヒの鋭い突っ込みに、
アネットは少々凹んだ顔をした。
「……うー、ラインハルト……ごめん」
ショボくれるアネット。
流石にカナリスの言葉に凹んだらしい。
恋人であるハイドリヒが傍にいてくれたことに気づけなかった。
その事態に沈むアネット。
普段明るい分、その凹みようは一目瞭然だ。
ハイドリヒはそんな彼を見ると……
そっと、アネットの頭に手をおいた。
「……気にしませんよ。
それだけ、魔術は完璧だったというわけですしね。
……ほら、帰りましょう。任務、お疲れさまでした」
そっけなくも優しいハイドリヒの言葉にアネットは顔をあげる。
カナリスもそんな二人の様子を見て、表情を綻ばせた。
すぐに笑顔になるアネットを見て、ハイドリヒも少し笑みを浮かべる。
「よーし帰る!かえって風呂ー!ベタベタして気持ち悪いもんな!
ラインハルト一緒にはいるか?」
「……冗談も大概にしてください」
調子良いんですから、とあきれたようにそういうハイドリヒを見て、
アネットは"なんだよー、いいじゃんかよー"と口を尖らせた。
夕焼け色に染まった道に、三人の影が落ちる。
爽やかな潮風が吹き抜けていった。
―― ただ、傍に… ――
(傍にいることに気づかなかったことは複雑でしたが…
雰囲気は感じてくれていたという事実に、少し喜びを感じて)
(そう、傍にいてやりたかった。
嫌いな人間に顔をあわせることになってでも)