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194n)回想G

◆ 5月14日



手術しなければ、普通に来ていたであろう母の誕生日…



今年は何を買おうか?

と、考えていて、
入院途中からまだリハビリ中で退院できない事を見込んで
簡単な介護用の車椅子を考えていた。







今日の誕生日に、
あの日(5月7日)を回想してみたいと思う。



--------キリトリ-------


7日は、最愛の母が永眠した日…



私にとって、何かが大きく変わりはじめた日になりマシタ。



母の具合が安定せず、
中々単身赴任先に帰れない兄から、
朝携帯がきた。



兄『今病院からで、少し早めに病院に来てだって。』

私『え?危ないの?』

兄『そんな焦った感じではなかったから大丈夫だとは思うよ』



5月1日の夜中に病院から呼び出されて以来、まともに寝た事なんて一度もなかった。

1時間おきに携帯がなってないか?着信をチェックする日々だった。

実際、早朝6時に着信があった事もあり、
そんな時は決まって良い話しではないので、
心臓が止まりそうなくらいデシタ。

着信がある度に毎回 震え上がる気持ちデシタ。



この日の朝は、兄に言われて仕度をして…

土曜日で子供達は皆寝ていたけど、

何だろ?妙に胸騒ぎがして…

皆を起こして連れて行く事にした。



家を出て、実家に泊まってる兄貴と兄貴の長女をひろい、病院へと向かった。



病院に着くと防災センターで面会の札をもらうんですが、毎日きてるから、おじさんと顔なじみになりマシタ。



2階に上がり、ICUの待ち合い室からICU内へ内線をかけると、
いつになく早口で

『入り口にどうぞ来て下さい』

って、言われた。

手を消毒して、入り口に入って母が居る方向を見ると…



衝撃的な光景が、私の目に飛び込んできた



よくドラマで見る心臓マッサージをしていたのだ!


後から聞いた話しだと、
ICUに1番に入るなり
私がイキナリ走り出してビックリしたって。。。

残りの皆も、事態を察知して続いて走ったそう…



母が亡くなった直後は、この辺りの記憶が全く無かったけど、今はほぼ思い出してきました。

私は、冷たくなりはじめた母の手や足を必死に摩り

『お母さん、いっちゃ嫌だ〜』

『お母さん、帰ってきて〜』

と、必死に叫んでいた。



きっとICUに響き渡るくらいデカイ声だったと思う。



数分後、子供達にも声をかける様にお願いした。

心臓マッサージで母の胸からは大量の血が溢れ出し、ガーゼを何度も変えていた。



凄く惨い光景だ!

医師が代わる代わる交代しながら、心臓マッサージを続ける。
目の前に繰り広げられる光景に、末っ子はしゃがみ込み
目を持っていたリュックで覆い
号泣していた。


これも後日談だけど、辺りは血の臭いで凄かったらしい。

それは今も私の記憶にはないデス。


長女は、足や手を摩りながら

『おばあちゃん!
おばあちゃん!』って声にならない声を発していた。

長男は
何度も手で涙を拭いながら

『おばあちゃん、死なないで』と…

心臓マッサージをして脈を見るとない…

あの画面が
0━━━━━━━━
ピー
って。

そして医師が交代する。
1時間続けると告げられ、
最初は行かないでって叫んでたけど、
40分を過ぎた頃、
フッと…
もうダメだって思えた…



それから、父の時に言えなかった

[ありがとう]

を言わなきゃって思った。



私は、子供達に

『おばあちゃんに、今まで色々と沢山ありがとう』って言いなさい。

まだ聞こえてるから、後悔しないように。

と、言った。

長女と長男は

『おばあちゃん、今までありがとう』

って言った。



末っ子は床の角にしゃがんだままだ。

無理もない。

入院前日に元気な母と出かけていたし、

入院中も
[死]
なんて事は全く考えてなくて

『おばあちゃんが元気になったら…』
と、
しきりに[タラレバ話]をしていたのだから…。



だけど脇を持って、何とか立たせて、おばあちゃんに最後のお礼を言わせマシタ。



悔いのないように…と



兄貴は

『何でありがとうなんだよ』

って、諦めきれない様子だったけど、
目の前で血まみれで身体がむくみあがった母を見て
諦めるってより、
もう心臓マッサージをやめてほしくて…



50分を過ぎた時、兄貴に

『もうぃぃょ…
お母さんが壊れちゃう…』

兄貴も同意して医師に止める様に促した。

ちょうど女医サンがマッサージしていたケド、
ICUの医師に肩を叩かれ止めた。

ICUの医師が
脈と心音の確認
瞳孔の確認の後

『午前10時12分…
大変残念ですが
お亡くなりになりマシタ』
m(_ _)m

と告げた…。



皆、泣き疲れた状態で母を見つめた。



まだ若干暖かい母の温もりを身体に焼き付けたくて探した。



これも後から聞いた話だが、
担当医と外科部長は、
相当ヤバイ事になったって顔をしていたらしい。



いらないクダを抜くので、
その間、医師から話があります。
と言われ、
兄と私は別室に通された。



母の手術から治療に関して、多々納得いかない部分があったケド、
母がもう大丈夫って安心できる時か、
又は、最悪死んでしまった時までは、
命を預けているから何も言わないと決めていた。



むしろ
頭を下げて

『母を助けて下さい』

って懇願してきた。

ケド、亡くなった後の説明で、兄と私の気持ちにセーブがきかなくなった。



【手術の失敗】



この言葉に、担当医は、一瞬まゆを動かしたが、否定はしなかった。

手術が下手なんぢゃ?や、
経験不足なのでは?
と言われても、黙っているか、頷いているかだ。

まだ母が生きていた頃、何かと自分達は悪くないとアピっていた外科部長も、
言い返す言葉がないようで、

『おっしゃる事はよくわかります。
私がそちら側だとしたら同じ事を思います』と
言った。

後から聞くと、ここまで認めるのは珍しいらしい。

だから医療過誤なんだと。



私は、泣きながら、母の無念を訴えた。



最初から全て見てきてる私と、最初からずーっと関わってきた担当医。

私がどんな気持ちで、母の回復を信じ、祈り、願っていたのか…彼は痛いほどわかっているはずだから…。



今にも倒れそうだったけど、最後に

『カルテを全て提出してよ。
間違っても抜いたり、改ざんしないで。』

と言った。

医師達は、頷いて約束した。

少し落ち着いてから、病理解剖をお願いされた。

病理解剖は、内蔵全てを身体から取りだして顕微鏡で細かい細菌までも調べたり、
死の直接の原因などを病理の先生が調べる事です。
私は、脳と心臓は、肉体があるうちは
[記憶]や[気持ち]が残ってる気がして取られるのが嫌だったけど、
曖昧な流れしか説明を受けてないから
原因は絶対知りたかった。

なので、頭(脳)以外の解剖を承諾した。

その後、職場や友人など沢山連絡した。
話をする度に涙が止まらなくて
声がつまり
上手く話せない。

日程がまだ決まっていない為に報告だけになってしまったが、実際は信じられない気持ちでいっぱいだった。



ユカ




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