―― 今世紀最大の一大事だ。
そう思いながら、自分を呼びだした兄を見つめた。
からり、と溶けかけた氷がグラスの中で音を立てる。
凛と澄んだ銀灰の瞳が、少し困ったように細められる。
そんな顔するな、と苦笑まじりに呟いた彼……リスタは、ぽんと弟の頭を撫でた。
クオンが兄であるリスタに呼びだされたのは、ほんの数時間前。
手紙が届いて、話があるのだとあったために、こうして城下町の喫茶店で待ち合わせをした。
二人で一緒にお茶をするのなんて随分久しぶりだと笑いあってから、兄が語ったのは、遠方での任務につくことになった、という話だった。
クオンの兄、リスタは片足を悪くしている。
騎士団に所属していた頃、赴いた任務で足に酷い傷を負ったのが原因で、今も時折痛みが出ることもあると聞いている。
そんな彼は騎士団を辞め、今は魔獣調査局に所属している。
主に研究職だから問題ないよ、という兄の言葉を信じて安心していたのだけれど……
この度は、城から少し離れた地域に住む魔獣の調査ならびに駆除の仕事だという。
脚を酷使すれば歩けなくなるかもしれないとさえ言われている彼が何故そんな仕事に赴くのか、とクオンは眉を下げた。
リスタはそんな彼の表情を見て、笑いながら言った。
「一応これでも元騎士だ。
この仕事に就くと決めたのだって俺自身。
自分の都合で行かない、って訳にはいかないだろ?」
其れは、わかる。
怪我をして騎士団を辞めた後、魔獣調査局に入ることを決めたのは兄(リスタ)自身だ。
周囲に止められもしたが、それでもといったのは彼。
出来うる限りの仕事はしたいのだといっていた。
その意思はクオンも尊重したいと思っているし、事実家に引きこもるのではなく人のためにと働く兄を誇りに思ってもいた。
けれど、それとこれとは話が別だ。
そう思いながら、クオンは言葉を続ける。
「でも、兄さんだけ残って事務仕事をするって手だって……」
「クオ」
少し強い口調で、言葉を遮られた。
思わず口を噤めば、彼は優しくクオンの頭を撫で、言った。
「俺の我儘だけで仕事拒むことは出来ない。
それに、俺からいくっていったんだ。
無論仲間は無理するなっていってくれた、足手まといだともいわれたさ」
リスタの足の怪我のことは、彼の職場の人間も皆知っている。
無理を出来ない体であることも、理解している。
だから今回の任務の時も本部に残るようにといわれたらしい。
しかしそれをリスタ自身が拒んだのだという。
「それなら、なんで」
クオンの掠れた声での問いかけに、リスタは微笑む。
「今回相手にする魔獣は、俺が以前騎士だったころに見たこともある魔獣だ。
研究室で生態調査をしていた仲間たちより俺の方が余程良く知ってる。
幸いなことにそこまで素早い魔獣でもない。
俺に出来ないことは仲間にサポートしてもらうさ」
そういって、彼は笑う。
すっかり氷の溶けてしまったアイスコーヒーのグラスを揺らしながら、言葉を続けた。
「出来るだけ近くで、仲間を守りたい。
そう言う考え方は変わっていないつもりだよ」
怪我が原因で騎士として、風隼の騎士として働くことが出来なくなった。
弟であるクオンの部隊にいられないならと騎士を辞めた。
それでも、誰かを守る仕事がしたいと、今の仕事に就いて……――
騎士をしていたころから根底にある思いは変わらないのだとリスタは言う。
其れを聞いて、クオンは眉を寄せた。
そして、絞りだすような声で言う。
「じゃあ、何でわざわざ俺に言いに来たんだよ」
決めたことだというのなら、何故わざわざ自分にその任務のことを話しに来たんだ、と。
話せば自分が止めるであろうことくらいは、リスタにも予測出来たはずだ、と。
そうクオンが言えば、リスタは明るく笑って、言った。
「そりゃあ、クオには伝えとかないとと思ったからさ」
一応危険な任務でもあるんだし。
そう言った彼は軽くストローを噛んで、言った。
「俺に万が一のことがあった時、気遣ってくれるのはお前だけだからさ」
その言葉に、一瞬息が詰まる。
そんなことはない、といえないままに、クオンは固く拳を握った。
自分たちの家が歪んでいるという自覚は、クオンにもあった。
家柄を一番に考える親族。
それ故に、足の怪我で騎士を辞めざるを得なくなったリスタは居ないもののように扱われ、その代替品のようにクオンが大切にされて。
そんな状態だから、リスタが"気遣ってくれるのはお前だけ"というのも頷けてしまう。
其れが酷く悲しかった。
「……そうかもしれない」
クオンは静かにそう言った。
一つ、二つと息をして、顔を上げる。
そして、リスタに言った。
「でも、だから……俺は、兄さんが無事に帰るのを、待ってるから。
だから、ちゃんと帰ってきてくれ」
無理はしないでほしい。
"万が一"なんて起こさないでほしい。
クオンははっきりとそう告げる。
リスタはそれを聞いて驚いたように銀の瞳を大きく見開いた。
それから、照れくさそうに笑って、頷いた。
「勿論。可愛い弟に悲しい顔なんてさせられないからな」
そう言った彼はまたクオンの頭を撫でた。
幼い時からの、リスタの癖。
クオンは昔から、優しい兄の手が大好きだった。
自分や兄が就く仕事柄、其れがいつまでも傍にあるものだとは思っていない。
けれどそれでも。
喪うかもしれないと思うのは恐ろしい。
けれどそんな感情を彼に見せては、いけない。
そう思いながらクオンは顔を上げ、リスタに言う。
「気を付けて、行ってきて」
精一杯に微笑む弟を見つめ、リスタは笑顔で頷いて見せた。
***
それから、どれくらいの時間が経っただろう。
一日がまるで何年ものように感じた。
兄からの手紙や連絡はなく、それが無いことに安心もしたし、逆に不安にもなった。
兄は無事なのだろうか。
怪我をしたりはしていないだろうか。
或いは……――
最悪の場合を想定しては、首を振る。
駄目だ、こんなことでは自身の任務に支障が出る。
そう思いはすれど、脳内をよぎるのは兄の姿で。
「クオン!」
友人の声が、自分を呼ぶ。
これではいけないと首を振って、返事をした。
聞けば、来客だという。
珍しいことでもない。
任務の依頼か何かだろう。
そうおもいながらクオンは応接室に向かった。
今は、自分がこなすべき仕事をこなさなければならない。
騎士としての務めを果たさなければならない。
軽く首を振り、クオンは応接室のドアをノックした。
「失礼いたします」
そう声をかけて中に入る。
応接室のソファに腰かけているのは、城の中では見慣れない制服を身に付けた青年だった。
長い銀色の髪。
優し気な銀の瞳。
それを見て、クオンは思わず固まる。
彼はクオンを見て、微笑んだ。
「びっくりしただろ」
驚かせようと思って、こうやって会いに来たんだ。
そういって笑う兄を見て、クオンは言葉を失くす。
―― 本当に嬉しいとき、言葉よりも涙が出るのだと知った。
―― 溢れる感情は ――
(兄自身が決めたこと。
それは理解していても、恐ろしいことに違いはなくて)
(彼に何かあったらと不安になる。
俺はただ無事を祈るしか出来ないから…)