坂崎教授の研究室で、僕はダ・ヴィンチを読んで、彼は携帯電話をいじっていた。風の流れの少ない穏やかな午前中だったと思う。
「俺はかめはめ波を打ちたい。」
と、彼は静寂をゆっくり切り出した。僕はふうん。と頷いた。
さすがに、5回も似たようなことが続けば、別に驚かない。
前回のバハムート召喚より幾分マシに思える。
「かめはめ波を打つには何が必要だと思う?」
「気じゃない?」
僕はダ・ヴィンチを読みながら答えた。乙一は映画も撮るのか。
「それは漫画の中の話だ。現実に気は存在しない。存在しないものは必要とは言えない。」
彼は淡々と続ける。僕はずっと記事を読んでいたので、彼がどんな顔だったか、想像するより他ないが、おそらく眉間に皺を寄せていたのだろう。
「要はあの掛け声とポーズを取ったとき、光線が出て岩を破壊すればそれは、かめはめ波として認識するに足る。工学部か。ちょっと行ってくる。」
彼はそうして出て行った。今回の犠牲は工学部か。前回は生物学部だった。
ドアの閉まる勢いで、書類のひと山が舞い上がった。ひらりと散ったレポート用紙の一枚が、ちょうど僕の足元に滑り込んできたので、それを拾い上げてみた。
『発達行動心理学からみる帆布裁断』
という一節が目に入って、ここが心理学部だということを思い出した。
どうやったら、彼を分析できるかな。
僕はダ・ヴィンチを放り投げて、思案に入った。
「どうも、私はスチュアートと申します。」
と、ペンギンは鮮やかにターンして言った。
非常に綺麗な弧を描いた回転だった。空気を真一文字に切り裂いて、寸分違わぬ位置で静止。ペタリ。そしてオペラハットを取って一礼。ペタリ。
ブロードウェイの役者でもこうはいかないだろう。僕は今、世界で最も華麗なターンを目の当たりにしたんだと思う。僕達は呆然とした。
「私が皆様の案内役を仰せつかりましたので、以後、お見知り置き下さい。」
さらにペンギンが続けた。
僕達は呆気にとられつづけている。誰も返答しない。
そんな僕達の様子を見て、ペンギンは、全てを承知しているかのように深く頷いた。
「なるほど。案内役のご説明が抜けておりました。言うなれば、執事のようなものです。」
僕にはペンギンが何を言ってるのか分からなかった。言葉は耳に入る。今言ったことを繰り返すこともできる。
でも分からない。
意味の理解が言葉に追いつかないのだ。まずどこから理解をすれば良いのだろうか。
「ペンギン…」
と、誰かが呟いた。
そう、ペンギンだ。
まずは、そこから始めよう。
ちょうど、その一言が皆の思考回路の電源を繋げたのだと思う。
ペンギンが止めた時間が動きだすのを感じた。僕達は誰ともなく目を見合わせ、声を合わせて言った。
「ペンギンが、しゃべってる(かわいい)。」
誰か一人だけ、かわいいと言った。僕はそれを聞き逃さなかった。
うちのおじーさん。
軽トラに若葉マークと落葉マーク両方くっつけて走ってるけど、
あれは良いのだろうか(-`;
あと僕の車に「地域見回り中」って札を引っ掛けたまま放置しないで(-`;;
壊れるような願いなら、最初から祈らなければ良かった。
窓際に滴る水滴を人差し指で拭って、ふと思い出す。
水滴が出来るのは、外気と内気の差からだって。昔、理科の授業で習った。
じゃあ、自分と他人の思いの差から涙ができるのか。
窓を正面から見据える。雨が降っている。
きっとこの雨の中には、私の涙も混じっている。
誓ってもいい、プラスがマイナスを感化させて、どっちもプラスになるなんてことはない。
プラスがマイナスに引きずり込まれてマイナスになるだけだ。
誓っても?誓えるほどのものがあっただろうか。
窓を開けた。一気に雨と寒気が流れ込んでくる。
身を切るような冷気だ。吐息が一気に白く染まり、皮膚が粗目に硬直する。
雨はその皮膚の上を薄く広がって、私の身に纏わりつく。
この涙も誰かがこぼした一滴なのかな。
そう考えると、不思議と心地良く、口元が緩んで笑みがこぼれた。
誰かが階段を置いてくれた。私はその階段をゆっくり一段ずつ登る。
登りきったところで、雲を掴むように片手を差しのばした。
雲は掴めなかった。
そうして私は飛び降りた。
「まっずい。」
彼女は500mlのペットボトルを口から放すと、そう吐いた。
「緑茶?美味しいのに。」
私はそう言うと、自分のペットボトルを口に含んだ。
太陽がいま最も強く輝いている。蝉が鳴き、風がなびいて木陰が少し揺らめいた。
なぜ暑い時期に体育をするのだろう。運動場のトラックが地獄の釜に見えた。何もかも煮え立っている。
「烏龍茶の方が良い。脂肪落ちるらしいし。」
彼女はペットボトルを宙に投げて器用に回す。あの器用さを持ちながら、言葉のガサツさが不思議だ。
「でも喉も痩せて、声量も落ちるらしいよ。」
私はネットで得た知識を彼女にわけてあげた。彼女はペットボトル遊びを止めて、真剣に考える。
「声か。」
みんなトラックで茹で上げられている。私達の言葉なんて届いてはいないだろう。
「それ頂戴。」
私は彼女からペットボトルを奪って、飲んでみた。なにこれ。まっずい。
彼女は私のしかめた顔を見て、頷くとペットボトルを奪い返した。
そしてまた彼女は、ペットボトルを宙に投げる。日光が薄緑の液体を貫いて、僅かに濁って屈折した。
つばめが鮮やかに、その遥か上空を駆けていった。