ひとりの時間はなんて穏やかなのだろう。
少し心が広くなった気がする。
夜になればまたもとに戻ってしまいそうな、つかの間の一時。
何でも出来ます
という人は
少し恐ろしくなる。
完璧だな。と感じても
完全ではないのだと知っているけど。
それが出来て普通ですから、
という価値観ならば
敬遠してしまう。
たぶん、自分のダメを思い知らされるから。
自分にとってマイナスな要素となってしまうから。
ニートと呼ばれ
役立たずだなと言われ
引きこもりになろうと
それでも、
現状を良くしたいと(本当は)望んでいる人に親近感がわく。
私の状態が(社会一般的にみて)良くないものとされているから、
私の状態を知った人は
よく励ましの言葉をくれる。
特に親を通して。
周りは親を慰めたいのかも。
「でも、そのうちきっと良くなりますよ。私も大変だったけれど(略)大丈夫ですよ。」
とかね…。
励めなければならないほど
酷いことなの?
親は、余計なお世話だなぁ。と思いながらも
はいはい、と話しをしているらしい。
「人間不信で引きこもってます。人嫌いなので」
とか公言しちゃうから、周りはよけいに慰めたがる。
はぁ。
おもいっ。
これが親切のカタチですか?
引きこもりにも種類はある。
何でもかんでも
自室に閉じこもり、扉の前に食事をおき、呼びかけると物投げる。
みたいなオーソドックスなイメージは抱かないで欲しい。
慰めは必要ではない。
慰められなくてはならない情けなさがあるからだ。
悲しいことがあり、
あまり落ちこむなよ。
というのとはまた違う。
当人の受け取り方しだいでもあるが。
かわいそうに
かわいそうに
と同情されても困る。
だってね
現状を悪くした現状は自分と思っているからね…。
誰か他人のせい、と思ってもそこから出れない(依存するしかない)自分のせいでもあるんだよ。
かわいそう。
と慰めてもらったら
私→かわいそうなやつ、
になっちゃうんだね。
自分はなんてかわいそう
と言い出せば悲劇のヒロインだし。
まだもがいてるし
あきらめきったわけではないのだから
終わってしまったかのような慰めはいらないんだ。
いつか良くなりますから。頑張ってくださいね。
と慰められて帰ってくる親と
そんな話を報告される私。
私が"迷惑なもの""良くないもの"として存在してるんだな。
としみじみと思わされる。
おそらく、この発想が"病的"なもとなのかな。
でもそう思ってしまう。
自分へたいする自己評価がそれをうんでる気もする。
これはマイナスな連鎖かも。
今日は外食中、ふと思い出すことがあった。
もうすぐ、一年だ。
お店の中で意識朦朧になりぶっ倒れてしまったことから。
当時飲んでた精神安定剤(重度不眠に眠剤変わりに使用することもある薬)の影響なんだけど。
あれから外は怖いし
人ごみにいくと体が浮くし
ぐるぐると、立つのもしんどい。
で、
今日はその時のお店で、倒れた時と同じ場所に行ったのだ。
そしたら
サッパリ綺麗に
"過去の話"になって
忘れていたくらい、何も思わなくなっていた。
おぉ。私回復してるっぽい。
と、ちょっと感動した。
一年近くかかってしまったが、
なんとか自分が治っている気がする。
何もしない毎日も無駄な日々ではなかったかもしれない。
と思っていたら
「なんか、包帯みたいな…退廃…いや腐敗?したみたいな感じだよね」
と、突然わけのわからない話をふられた。
最近の私が腐っている。という話らしい。
地べたと同化するように、ぐたーと、
腐敗。
なんでも、
乾いた血のついた包帯を巻きつけ、
片足にだけ靴を履いて、
傷んだ人。
そして無風状態に歩いてる。
ように見える。
そうだ。
なんか…それってちょっと………どうかと思う。
あー、
にじみ出る廃人さをなんとかしたい…。