静かな、夜の食堂。
その奥にある調理スペースに、紫髪の少年はいた。
今日は任務もなく、穏やかな一日だった。
珍しく明日も休みで、少し時間を持て余している。
親しい仲間も休みなら、一緒に出かけたりすることもできたのだが、生憎みんな任務だという。
その結果、彼……シストが選んだのは、料理をするという選択肢だったのである。
料理をするのは、割と好きだ。
誰かが食べてくれれば素直に嬉しいし、上手く作れた時は達成感がある。
それに……使っている間は、なんだか無心になれるのも、気に入っているところだ。
だから、たまに、思いついたタイミングで料理をしている。
流石に夜にガッツリとした料理を作っても、持て余すだけだ。
ならば、明日のおやつにでもなるようなもののほうがいいだろう。
そう考えた冷静な少年は、作り慣れた菓子を作り始めた。
材料は至極シンプルだ。
キッチンにあるものは騎士たちも使って良いことになっている(夜間任務で腹を減らした騎士たちが適当に何か食べられるようになっているのだ)が、あまりあれこれ使うのは流石に申し訳ない。
使うのは卵と砂糖と薄力粉、液体の油、そして少量の水。
バニラオイルも幸いあった。
これなら完璧だな、と一人表情を緩めたシストは卵を手に取った。
卵黄と卵白とを分けて、別の綺麗なボウルに割り入れる。
卵白の方はギリギリまで冷やした方が良いからととりあえず冷蔵庫にしまった。
ついでにオーブンに予熱を入れながら、卵黄に砂糖を入れて、しゃかしゃかとホイッパーで泡立てる。
菓子作りなんて女性のような趣味だと笑われるかも知らないが、その実菓子作りにはなかなかに力がいる。
今使っている菓子も、なかなかに根気と力とがいるものだった。
初めはサラサラとしていた卵黄がだんだん白く、まったりとしてきた。
そこで手を休めることなく、泡だて続ける。
そのまま焼いてもふわふわのオムレツになるのではないかと思うほど、白っぽくもったりとしたキメの細かな泡が出来上がったところで、液体の油をゴムベラを伝わせて投入する。
液体というなら溶かしバターでも良いのではないか、と自分の調理姿を見ていたかつてな相棒が言っていたのをふと思い出して、一瞬手が止まった。
初めはシストもそう思っていた。
けれどどうやらこのケーキに関しては重たい動物性の油脂よりも軽い植物性の油脂の方が好都合なのだと本を読んでいるうちに知った。
呑気に浸っている場合ではない。
ふるふると首を振ったシストは作業を再開した。
油が馴染んだところで今度はバニラオイルを振り入れた甘い香りのする水を加え、さっくりと混ぜる。
そうしたら薄力粉を少し高い位置からふるい入れて、素早く、優しく、しっかりと馴染ませる。
生地を掬ってボウルに落とした時、てろてろとリボンのように流れれば上出来だ。
その見極めがどうやっても上手くいかないと相棒はぼやいていたっけ。
続いて冷やしていた卵白に砂糖を少し入れて緩く混ぜる。
少し泡立ち始めたら残りの砂糖の半分を入れて、緩くツノが立つメレンゲに仕上げていく。
今日は少し手が滑って、砂糖が半分よりたくさん入った。
ーー あ、今の絶対砂糖入れすぎだ!!
笑いながらそう指摘する緑髪の少年が見えた気がして、苦笑する。
菓子に関しては俺は食べる専門だから、と言ってシストの作業の様子を眺めていたパートナーは、シストが手際良く作業をしていても喜んだし、些細な失敗をした時も笑っていた。
メレンゲ作りはなかなかに骨が折れるから手伝ってくれとボウルを押し付けたのも一度や二度ではない。
向いてないって、と笑いながらもそれを受け取っていつも何だかんだ手伝ってくれていたっけ。
「あー……流石に、疲れるなあ」
一人で仕上げるのは。
そう呟いて、ふっと息を吐く。
暫しキッチンには卵白を泡立てる音だけが響いていた。
残った砂糖も加えて、ボウルをひっくり返しても落ちてこないくらいしっかりしたメレンゲを完成させる。
それを先に作った卵黄の生地に三度に分けて加え、さっくりと混ぜた。
一度目はしっかり馴染むまで、二度目はまだらになるくらいざっくりと、最後は泡の塊がないように、けれど泡を潰さないように混ぜる。
せっかくのふわふわな泡が消えないように混ぜるのが最大のコツだ。
作業は単純だけれど見極め一つで出来栄えが変わる菓子。
それを作るのがシストは割と好きだった。
完成した時に喜んでくれる人がいれば、なおさら。
独特な、真ん中に筒を刺したような型に生地を流し込んで、空気を抜く。
それをオーブンの天板に乗せて、バタンと戸を閉める。
このまま50分くらい、じっくり焼けば完成だ。
ふー、と息を吐く。
洗い物を片付けながら、紅茶でも淹れようか、と思ったところで、ひょいと目の前に長い桃色の髪が映り込んだ。
「しーすちゃん!」
ニコニコしながらそうシストを呼ぶ、女性。
少女という歳ではないのだけれど、立ち居振る舞いは完全に子供のそれだ。
見慣れているとはいえ少し驚いて目を丸くしたシストは、すぐに呆れたような息を吐くと、言った。
「だから姉貴、勝手に城に入ってきちゃダメだろ……」
そう。
彼女はシストの姉であるロゼ。
城に無断で入り込む常習犯だ。
セキュリティ面で物申すべきだろうなとは常々思っている。
しかし今日は少し違ったようで。
「えへへ、今日はちゃーんと許可をとって入ってきてるのです!」
そう言いながら姉……ロゼが得意げに見せつけるのは、確かに城の入場許可。
……今日の日付のそれは、もうすぐ期限が切れるわけなのだけれど……まぁ、セーフか。
そう思いながら、シストはふっと笑う。
「まぁ、それならいいんだけどな」
そう言って、シストは洗い物を続行する。
ロゼはシストが何を作っていたかまではわからなかったようだったが、予備のためにと出していた独特な形の型を見て、パッと顔を輝かせた。
「あ、シフォンケーキ」
「……久しぶりに、作りたくなってさ」
シストがやや言い訳めいた口調でそういうと、ロゼは笑いながら言った。
「ふふ、シスちゃんのシフォンケーキ、楽しみ!」
食べられる前提で満面の笑みを浮かべる姉を見て、シストは少し意地悪な声音で言う。
「食べる気満々だな」
「えー?ダメなのー?」
唇を尖らせ、拗ねた顔をするロゼ。
見るからにしゅんとしたその顔を見て、シストは軽く頬をかいてから、ぼそりとこたえた。
「ダメじゃないけどさ……」
「わーい」
嬉しそうに笑ったロゼは椅子を引いて、そこに腰掛ける。
彼女のマイペースさを誰よりよく知るシストは、ティーセットを二組出してきて、紅茶を淹れ始めた。
紅茶の芳しい香りと、オーブンの方から漂う甘い甘い焼き菓子の香り。
バターがたっぷりと入ったパウンドケーキの香りとは少し違う、卵と砂糖の焼ける匂いは優しく鼻をくすぐっていく。
「エルちゃんも好きだったよね、シスちゃんが作るシフォンケーキ」
頬杖をついたロゼが、ふとそんな言葉をこぼした。
紅茶を注いでいた手が一瞬止まったが、シストはすぐに返す。
「……そうだな」
彼女のいい通りだ。
シフォンケーキは、かつての相棒……エルドが好きだった菓子だ。
材料こそ簡単に揃うが地味に面倒くさいし時間がか刈るから、と、言っても彼はシストにシフォンケーキをねだった。
「ロゼちゃんは紅茶のが一番好きかなー」
味のバリエーションの話らしい。
シストは彼女と自分の前にカップを置きながら言った。
「そうだったよな。エルは割となんでも食べたけど気分で今日はこれがいい!って言ってくるやつだった」
それを思い出して、シストは小さく笑う。
今日はココアがいい、今日は紅茶がいいと何かとリクエストをしてきたエルド。
人懐こいエメラルドの瞳を煌めかせてねだられては、なかなか無碍にもできなくて。
「ふふふ、それにシスちゃんはいっつも応えてあげてたんだ?」
くすくす、と、笑いながらロゼは言う。
シストは軽く肩をすくめながら、言った。
「俺はシンプルなのが一番好きなんだけどな」
それで喧嘩になったこともあったっけ。
そんなことを思い出して、シストはアメジストの瞳を細めた。
ふわり、と漂ってくる香りが強くなる。
甘い甘い、幸せな匂い。
それを嗅ぎながら、ロゼはほうっと息を吐いた。
うっとりした顔をしている。
焼き上がったら、ケーキは逆さにしておいておかなければならない。
そのまま置いておくと、せっかくふわふわに膨らんだ生地が潰れてしまうのだ。
砂時計みたいだ、とエルドが笑っていたのを思い出して、少し切なくなる。
「焼けたら一緒に切り分けて食べよーね」
そう言ってニコニコと笑う、ロゼ。
シストはその言葉に頷きながら、少し冷めてしまった紅茶を口に含んだのだった。
ーー 思い出の…ーー
(レシピなんて見なくても作れるくらい作り慣れたケーキ)
(ああもう一度、なんて…叶わないことはよくよく知っているのだけれど)