ひんやりとした空気が鼻先を掠める、或る冬の朝。
目を覚ましてリビングルームに向かうと母がキッチンに立っている。
起きてきた"娘"の姿を見て微笑んだ母は優しい声で言う。
「お誕生日おめでとう、フィア。今日は貴女の好きなものをたくさん作るからね」
優しい声。
ふわりと漂ってくるのは甘いチョコレートの香り。
オーブンの中で焼かれているのはきっと大好物のガトーショコラだ。
「お父さんも今日は早く帰ってこられるって言ってたわ。帰ってきたら一緒にお祝いしましょうね」
優しくそう言った母から、頬に口づけられる。
甘く、優しい香り。
柔らかな感触。
久しく忘れていた、"幸せだった"幼少のころの記憶だ。
誕生日おめでとう。
そんな、ありふれた言葉。
毎年もらえると思っていたそれを受け取ることが出来なくなったのは、あれからすぐあとだった。
そんなことを考えると同時、意識が浮上した。
***
目を覚ましても、薄らに残る夢の記憶。
ふ、と一つ息を吐き出したフィアは机の上のカレンダーに視線をやる。
道理であんな夢を見た訳だ。
今日は、自分の誕生日。
ひんやりと冷えた空気は、夢の中と同じだ。
「今日は任務も特にないんだったな」
それはそれで退屈なのだが、と呟いて苦笑を漏らす。
自分の従兄であり上官であるルカの計らいによって今日は完全な休暇だ。
そうしないとお前は自分の誕生日だってこと忘れて仕事し続けるだろ、と言うのが彼の言である。
否定はできないしな、と思って彼の厚意を受けとることにしたのはほんの数日前のことだ。
折角だからゆっくりしようか、と思ったが、あんな夢を見たためか……ほんの少しだけ寂しさのようなものを感じて、フィアは起き上がる。
ぐっと伸びをした彼は手近にあった制服を手に取り、着替えることにしたのだった。
***
「お誕生日おめでとうございます、フィア先輩」
明るい挨拶を投げかけ、笑っているのは幼い騎士。
本来の姿は邪神と言う、或る意味フィアと同じように正体を隠して騎士団で過ごしている仲間だ。
幼い姿をとっているときはこうして人懐こく自分にも絡んでくる。
その実相当強い力を持っている彼だが、この姿だと守ってやらないとと言う想いに駆られたり、何かと世話を焼いてしまったりする。
その結果か、彼は自分にも大分懐いてくれているようだった。
「ありがとう、アンシュ」
そう礼を言えば、アンシュは小さな包みをフィアに差し出した。
少し驚いた顔をする彼を見つめ、アンシュは言う。
「ちょっとしたものですが、これ」
プレゼントです、とはにかんだように笑うアンシュ。
ルカが見たら"あざとい"と笑うのだろうが……フィアからすれば普通に可愛らしい"後輩"だ。
「ありがとう、開けても良いか?」
「勿論」
頷くアンシュを見て微笑むと、フィアは彼に貰った包みを開ける。
ふわり、と甘い香りが漂う。
包みの中身はかわいらしい焼き菓子だった。
「装飾品の類よりこういったものの方が喜ぶだろう、と統率官が言っていたので」
お嫌いでした?と言いながらアンシュはこてり、と首を傾げる。
フィアは小さく笑うと、軽く肩を竦めて、言った。
「ルカは俺をなんだと思ってるんだ。……でも、ありがとう、実際嬉しい。後でお茶の時間に貰うよ。今度、何か美味しいものを見つけたらお返しで買ってくる」
いつも任務の帰りなどに美味しそうな菓子を見つけると買ってくるのはフィアの方なのだ。
それをアンシュに渡すとアンシュが嬉しそうにするものだからついつい甘やかしてしまうのである。
アンシュはフィアの言葉にぱちぱちと瞬いた。
それからくすくすと笑って、言う。
「誕生日プレゼントなんですから気を使わなくても良いのに。でも楽しみにしてますね」
嬉しそうに笑ってそういうアンシュにフィアはもう一度礼を言って、彼と別れたのだった。
***
「お、フィア。おはよう」
中庭に差し掛かったところで出会ったのはフィアのパートナーであるシスト。
彼は剣術の訓練をしていたらしく、外の寒さにも関わらず薄らに汗をかいていた。
「おはよう、シスト」
「あぁ。……あと誕生日おめでとうな。これ、俺からのプレゼントだ」
ほんの少し迷うように視線を揺らした彼はポケットから小さな包みを取り出して差し出してきた。
どうやら此処で会ったのは半分は偶然、半分は必然だったようだ。
恰好つけたことが苦手なシストらしい、とフィアは笑って、彼のプレゼントを受け取った。
「ありがとう、シスト。開けても良いか?」
「良いよ。大したものじゃないけど……」
そう言って笑うシスト。
フィアは包みを開けて、目を細める。
「栞か、嬉しい。ありがとう」
彼からのプレゼントは小さな栞だった。
硝子のように透き通った栞の中には綺麗な蒼い花が閉じ込められている。
彼らしい、控えめだがセンスの良い贈り物だ。
フィアに礼を言われて、シストはほっとしたように笑った。
「喜んでくれたなら良かった。……あぁ、そうだ」
ふと思い出したようにシストは言う。
「あと、ルカが食堂でなんかやってたぞ。程々のタイミングで来てくれってさ」
食堂で何かやっていた。
そう言われて、フィアはサファイアの瞳を細めた。
「程々って……まぁ、何を作ってるかは想像がつくけどな」
夢で見た光景。
あの夢で"それ"を作っていたのは母だったが……今は、その母は居ないから。
従兄が、それを真似て作ってくれているのだろう。
「お前、本当に好きだもんな」
シストも、彼が何を作っているのかはわかっているらしくそう言った。
案外甘党で可愛らしい、と言う彼の言葉にフィアは頬を紅に染めてふいとそっぽを向いた。
「……煩い」
シストはそんな彼の反応に小さく笑った。
「ごめんって、拗ねるなよ」
「拗ねてない」
むくれた顔をしながらも、フィアの表情は緩んでいる。
―― あの夢のような幸福とは違うけれど。
今も、十分に幸福だ。
そう思いながら、フィアは穏やかな笑みを浮かべて、もう一度シストに礼を言ったのだった。
―― 幸福の形 ――
(誕生日を祝ってくれる人も、その形も変わってしまったけれど)
(今のこの生活も、一緒に居てくれる人たちのことも、大切に思っているから)