ふわり、と優しい風が吹く。
目を開けて、辺りを見渡す。
一瞬の記憶の混乱。
今、自分は何をしていたのだったか。
いつも通りの、ディアロ城の中庭。
その木陰に座っていたらしい。
目の前では幼い騎士たちが訓練にいそしんでいる。
ほほえましい光景だ。
怪我をする子が出なければ良いけれど。
そう思った、その時。
「あ、こんな所に居たんだ」
聞こえた声に驚いて、顔を上げる。
そこに居た人物を見て、魔術医は藍色の瞳を大きく見開いた。
柔らかく長い、緑髪。
鮮やかな青の瞳。
優しい笑みを浮かべる彼は、魔術医……カルセにとって愛しい人であった、クレース。
「クレース?」
思わず名を呼べば、彼はきょとんとした表情を浮かべる。
小さく首を傾げる彼の長い髪が、柔らかな風に揺れた。
「寝ぼけてるの?こんな所で寝てると風邪ひいちゃうよ」
くすくす、と笑う彼は良く知った姿。
カルセに向かって差し伸べられる手も見慣れたものだ。
カルセはそれをとり、立ち上がる。
そして、しげしげと眼前の青年を見つめた。
自分よりいくらか小さな、同僚。
彼は自分を見つめるカルセを見つめ返して、心配そうな表情を浮かべた。
「カル、大丈夫?」
具合が悪いの?
そう問いながら、彼は手を伸ばしてくる。
頬に触れる、柔らかな手。
それは、確かによく知った彼のものだ。
小さくて優しくて、柔らかな手。
微かに薬草の香りがするのも、深い海のような優しい色の瞳も。
……もう二度と触れることが出来ないはずの、もう二度と見ることが出来ないはずのものだった。
「……えぇ、大丈夫ですよ」
一つ息を吸い込んでカルセは言う。
それから、強く彼を突き飛ばし、腰の剣を抜いた。
よろけた彼はそのまま転び、カルセを見上げる。
彼が抜いた鋭い剣を見つめて大きく目を見開くと、動揺したような声を上げた。
「い、いきなりどうしたの、カル?」
何で、と繰り返す彼は動揺しきった表情だ。
それを見下ろしながら、カルセは口を開いた。
「その姿で、その声で、私を呼ばないでくださいな」
冷たく、鋭く、カルセは言う。
それを聞いたクレースは幾度か瞬いて、悲しげに顔を歪めた。
その頬を一粒、涙が零れ落ちる。
「反吐が出る程、悪趣味ですね……夢魔の類ですか」
確信をもって紡がれる言葉。
それを聞いた"クレース"はゆっくりと瞬くと……口元を歪めて、言った。
「おかしいな、人間は"こういうの"に弱いと思っていたのだけれど」
その言葉が、カルセの胸の中の"仮定"を肯定する。
そう。
クレースは既に死した人間。
眼前に居る彼は、本物ではない。
偽物、と言うには酷く出来過ぎた、恐ろしく悪趣味な偽物だ。
夢魔の類はこうして人間に夢を見せる。
"こうであったなら"と言う心の奥にある願望を夢として見せ、その術中に嵌めた上でその精力を奪うのだ。
一度完全に夢に囚われてしまえば逃げられない。
夢魔が作り出す甘く甘美な夢に囚われて、一生その餌となるのだ。
今も、きっとそうだ。
目の前の城での光景も夢。
無論、眼前のクレースは偽物で、此処はただの虚構だ。
もしあの時、クレースが死ななかったならと言う世界。
あったかもしれない、あたたかい世界。
人間はこういうものに弱いだろう、と夢魔は微笑む。
「えぇ、弱いでしょう。
愛しい人を失くした人間ならば、きっとこのような術に溺れてしまう。
場合によっては、貴方たちが作り出す夢の中で生きる方がマシ、と言う者も居るかもしれませんね」
突き付けた剣を下すことなく、カルセは言う。
それを聞いたクレース……否、魔物は笑みを浮かべる。
ゆっくりと立ち上がった彼はもう一度カルセの頬に触れた。
「じゃあ、溺れてしまえば良い。これでも僕は結構術が得意な方だよ」
歌うように、彼は言う。
それは、カルセが良く知ったクレースの声。
慰めるように、優しく穏やかな声はいつも傍で聞いてきたものだ。
カルセの藍色の瞳を、魔物は見つめる。
剣は下ろされないが、恐れなどなかった。
人間の心は脆い。
偽物であるとわかっていても、"この姿"の魔物を殺せるはずがないのだ。
今までの人間も、ずっとそうだったから。
事実。
今も、彼(カルセ)は動かない。
だから、魔物は笑みを浮かべて、彼に囁く。
「君が"眠る"までずっと、僕は"彼"でいられる。
幸福な夢を見せることが出来る。ねえ、だから……――」
堕ちてしまえ、と呟くその刹那。
ぐさりと、胸を刺す感覚。
ごく僅かに遅れて、痛みが走る。
ごぽり、と口から血が溢れる。
引き抜かれる彼の剣にはべったりと紅色が付いている。
ずるずるとその場に倒れこみながら、魔物はカルセを見上げる。
剣を引き抜いた彼は冷たく魔物を見据えていた。
「っ、なぜ……」
彼の剣は迷いなく魔物の胸を貫いていた。
迷いなく、それを引き抜いた。
術が解けていたのか?
否、そんなはずはない。
困惑の表情を浮かべる魔物を見つめ、カルセは笑って見せた。
「刺せるに決まっているでしょう。貴方はあの子(クレース)ではないのですから」
そう言いながら、彼は魔物の首筋に剣を添える。
ひゅう、と掠れた息を漏らす魔物は、あの日喪った愛しい人と瓜二つの姿をしている。
助けて、いやだよ、と彼と同じ声で呟く。
カルセは藍色の瞳を細めた。
「姿形が同じでも、声が同じでも、貴方はあの子ではない。
あの子は死んでしまった。私の力が及ばぬばかりに命を落とした。
あの子との約束を果たせぬまま、私はあの子を見送った。
あの子は、もう私の傍には居ない。戻ってくることはないのです」
静かな声でそう言って、彼は魔物の首を裂いた。
飛び散る血が、彼の白衣の裾を紅に染める。
ぐにゃり、と景色が歪む。
そっと目を閉じながら、カルセは静かな声で言った。
「だから、こんな悪趣味な夢を見たくはないのですよ。
あの子の記憶を、あの子との思い出を、貴方のような魔物に穢されたくはないのです」
すぅ、と景色が消えていく。
目の前に広がるのは深い森の奥。
あぁ、そうだ。
自分は城に向かおうと思っていたのだった。
そう思い、カルセは足元に転がる魔物の骸がさらさらと灰となり消えていく様を一瞥した後、剣についた血液を拭って鞘に納める。
「……あぁ、本当に悪趣味な」
小さく呟いた彼はそっと息を吐くと、城に向かって歩みを進めたのだった。
―― Luscious nightmare ――
(愛しいと思っていたからこそ。
今でも大切に思っているからこそ、否定するのです)
(幸福な悪夢に沈むことは、きっと楽なことでしょう。
けれど、私は貴方との想い出を抱えて前に進みたいのです)