書類に走らせていたペンを止め、一つ息を吐き出す。
仕上がったそれに端から目を通し、間違いがないか確認すると、青年はそっと溜息を吐いた。
紫の髪を軽く掻き揚げ、伸びをする。
ちらりと視線を投げた時計は、既に午後七時を示している。
案外早く片付いたな、と思いながら彼……ラヴェントは立ち上がって仕上がった書類をファイルに綴じた。
今日中に仕上げなければならない書類は片付いた。
後は明日やれば問題ない、はずだ。
そう脳内で残りの仕事の割り振りを考えた後、彼は帰り支度をし始めた。
共用スペースに向かい、退勤の処理をしていれば、後ろから何か……基誰かに抱き着かれた。
……この警察署内で迷いなくそんなことをしてくる人間はそう多くない。
予測は簡単についた。
「ラーヴィちゃん!」
案の定、背後から聞こえたのは男性にしては幾分高い声。
上機嫌なそれに一度苦笑を漏らし、ラヴェントは振り向き、言う。
「メイアン。……ラヴィちゃんはやめてくれったら」
自分に飛びついてきた犯人にそう声をかければ、相手はくすくすと笑ってラヴェントから離れた。
くすくすと笑う姿は、相変わらずに可愛らしい。
尤も、付き合いの長いラヴェントは相手……メイアンのそんな姿は見慣れているし、性別もよくよく知っている訳なのだけれど。
「ふふ、ごめんなさい。でもそういうリアクションが可愛いから」
そう言ってぱちんとウィンクをして見せる辺り、確信犯だ。
やれやれ、と首を振って、ラヴェントは笑う。
「あのなぁ……まぁ、良いや。メイアンも仕事終わったのか?」
メイアンの肩にもいつも持っている仕事用の鞄がかかっている。
どうやら彼も今日は日勤だったらしい、と思いながらラヴェントが言えば、メイアンは微笑んで頷いた。
「えぇ、一段落したとこよ。メイアンも、ってことはラヴェントも?」
「あぁ。やっと終わったんだ」
大量の書類がな、と呟くように言えばメイアンはぱちりと緑の目を瞬かせた後、くすくすと笑った。
「お疲れさま。またライシスが何かやらかしたの?」
その問いかけにラヴェントは少しだけ苦い顔をする。
図星、である。
ラヴェントが大量の書類に追われるのは専ら彼の部下である問題児が何かしでかした時なのだから。
「ちょっとな。……ま、フォローには慣れたよ」
そう言って肩を竦めるラヴェントを見て、メイアンは苦笑を漏らす。
そしてぽんぽんとラヴェントの頭を撫でて、言った。
「ちょっとだけ飲んでいかない?久しぶりに」
その言葉にラヴェントは少しだけ考える顔をする。
思ったより仕事が早く片付いたし、今日は帰って夕飯の支度をする必要はない。
"同居人たち"はディアロ城での用事があるとかで出かけているし、夕飯も向こうで済ませてくると言っていた。
恐らくまだ帰ってきていないだろう。
そう思いながらラヴェントはメイアンに向かって頷いて見せる。
「今日は急いで帰らないといけない理由もないし、良いけど……酔い潰れるなよ?」
そう言われてメイアンはぷくっと頬を膨らませる。
「わかってるわよー。私をなんだと思ってるのよ」
そんな拗ねた顔もかわいらしく見えるのだからずるいものだ、とラヴェントは思う。
同僚である自分が同じ顔をしたら熱でもあるのかと思われて終わりだろう。
そんなことを考えながら、ラヴェントは彼の問いに答えた。
「案外酒乱」
「あらご挨拶ね」
わざと拗ねたような顔をしながらメイアンはラヴェントの腕を小突く。
しかしすぐに笑みを浮かべると、彼の腕をつかんで歩き出した。
***
二人が入ったのは、いつも訪れている店。
若い(今も十分二人とも若いのだが)頃からよく来ている店。
馴染みのバーテンダーが二人の姿を見て"おや、仲の良いカップルかと思ったら"と笑う。
ラヴェントはそれを聞くと苦笑を浮かべて、肩を竦める。
「その揶揄いもそろそろ賞味期限切れだよマスター」
「じゃあ新しいネタ考えないとなぁ」
そんな他愛のないやり取りをしながら、二人はいつもの席に腰かける。
少し高いカウンターチェアに腰かけ、足をぶらぶらと揺らしながら、メイアンは上機嫌に言った。
「久しぶりね、このお店来るの」
「そうだなぁ。あんまり外食もしなくなったしなあ」
そう言いながら、ラヴェントはいつも二人が最初に頼むカクテルを注文する。
メイアンはそんな彼を見て微笑むと、少し揶揄うような声音で言った。
「おうちで待っててくれる人がいれば猶更、ね?」
その言葉にラヴェントは一瞬息を呑んで、視線を揺らす。
それから、少しだけ上ずった声を上げた。
「……まぁな」
「ふふ、可愛い」
あっさりと流せないあたりが、彼だ。
メイアンも彼の"恋人"のことは良く知っているし、付き合い始めてから大分経つというのに、こういう初心な反応が返ってくるのがとても愛らしい。
ラヴェントはそんな彼の揶揄いに少しだけ頬を赤くして、ぷいとそっぽを向いた。
「本当にあんまりべろべろに酔うなよ?
ナンパされてもほっとくぞ」
出されたカクテルのグラスの縁についた塩を軽く舐めて、言うラヴェント。
ソルティドッグは二人が気に入っていつも此処で頼むカクテルだった。
飾りに添えられたレモンがいつも綺麗な飾り切りになっているのが可愛らしいと思っている。
メイアンは緑の瞳を細めて、レモンのような色の髪を揺らしながら首を傾げる。
「そう言っても助けてくれるからラヴィちゃん好きよ?」
甘えるようにそう言う彼。
それを聞いてラヴェントは茶の瞳を大きく見開く。
それから、がしがしと頭を掻いて、溜息を吐き出した。
「……あぁもう」
降参だよ、と手を上げたラヴェントは肩を竦める。
それこそ拗ねた顔をしている彼を見て、メイアンは笑った。
「ごめんごめん、揶揄い過ぎたわ。今日は私が奢るから許して?」
「……別に奢ってほしくて言ってる訳じゃないぞ」
じとりとした目を向けられてメイアンは目を細める。
―― あぁ本当に、彼は変わらないわねえ。
素直で優しい。
どうしても大変な仕事で気分が荒んで冷たくなったりする同僚も多い中で、彼は本当に変わらない。
それはとても好ましく感じる。
そう思いながらメイアンも自分のグラスをそっと傾けて、微笑んだのだった。
―― 変わらないもの ――
(可愛い、私の同僚)
(貴方のその変わらなさが私は本当に、とても好きよ?)