空が暗くなってから雨が降りだすまではほんの数分だった。
ゴロゴロと低い雷の音が響きだし、大粒の雨が降りだして。
雷の音に怯えるほど子供ではないが、これだけの雨ともなれば真っ黒のスーツが水を吸って重たくなる。
それに思わず舌打ちをしながら、黒髪の青年は自分が根城としている屋敷に入った。
「お帰り、ノアール」
部屋に入れば、のんびりと寛いでいる主(マスター)の姿。
ソファに腰かけてアイスクリームを舐めている。
ノアールがかえってきたのを見て、サファイア色の瞳を細めてひらひらと手を振る彼。
其れを見てノアールは深く礼をした。
「ただいま帰りました」
頭を下げればぽたぽたと雫が床に落ちる。
それを見て眉を寄せるノアールを見たフォルはくすくすと笑った。
「お風呂、入ってきたら?」
風邪ひいちゃうよ?
そう言ってこてりと首を傾げる彼。
特段、心配しているという風ではない。
しかしそれが彼らしさでもある。
過度な干渉のないこの関係が心地よくもあって、ノアールは彼の言葉に素直に頷いて、バスルームに向かった。
風呂に入るのは好きだが、鏡を見るのは好かない。
湯気で曇ったそれがうっかり晴れないように気を付けながら体に湯を浴びせた。
色の白い肌にうっすら残った傷。
火傷の痕もまだ残ったまま。
其れが痛むことはないものの、やはり見ていて良い気はしない。
気味が悪いとも思う。
だから、其れを他人に晒すような真似はしないようにしていた。
まだ脳内にこびりついたままの、女性の金切声と、男性の怒鳴り声。
酒瓶が割れる音と床に縮こまる"子供"の姿を思いだしたところで、ノアールは自身の記憶のスイッチを切った。
軽く頭を振り、濡れた髪をタオルで拭う。
着替えのシャツを身に付け部屋に戻れば、二つ目のアイスクリームを冷凍庫から取り出したフォルと目が合った。
「ノアも食べる?」
呑気にそう言いながら自分の食べかけのアイスクリームを差し出す彼を見て、ノアールは首を振った。
「お気持ちだけで」
甘いものは、そこまで好かない。
なぁんだ、とつまらなそうに呟いた彼はもう一口、アイスクリームを口に運ぶ。
ノアールは彼の近くの小さめのソファに腰かけて、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターのボトルを開ける。
一口それを含んだところで、フォルが声をかけてきた。
「まだ前髪、伸ばしてるんだね」
その言葉に思わず、一度動きを止める。
ボトルのキャップを閉め直してから、ノアールはその言葉に頷いた。
「……えぇ」
反射的に少し俯く。
軽い足音が響いて、自分のすぐ近くに止まった。
足音の主はノアールの顔を覗き込み、首を傾げる。
「顔を見られるのは怖い?」
前髪を伸ばす理由を知っている彼はそう問いかけてくる。
そう。
ノアールが前髪を伸ばしているのは、自分の表情を隠すため。
"母親であった人間"から、そんな目で自分を見るなと罵られたのが原因だろうとフォルが以前分析していた。
其れが事実だともノアール自身、思っている。
だから、他人と目を合わせることをノアールは嫌う。
其れを知りながらこんな問いかけをするのは、なかなかに意地が悪い。
そう思いながら、ノアールは答えた。
「主にならば、全く」
「それは喜んで良いのかなぁ」
フォルはそう言って唇を尖らせる。
え、とノアールが声を漏らせば、彼は少し拗ねたような顔をしながら、言う。
「君が嫌うのは大人の視線だろう?
つまり、僕は大人とみなされていない訳だ」
其れはちょっと複雑だなぁ。
そう言って拗ねた顔をする彼を見て、ノアールは少し視線を彷徨わせた。
彼の言葉は事実で、尚且つ自分がフォルを"大人"と見做していないのも、恐らく事実で。
というのも、自分の主であるこの青年は実年齢よりも幼く見えるのだ。
行動も、言動も、雰囲気も。
主相手に嘘をつくことが苦手な青年は困ったように視線を逃がしている。
それを見てフォルは満足げに笑うと、言った。
「ふふ、冗談だよ。そんな顔をしないで」
そう言いながらフォルは軽くノアールの前髪を指先で払った。
その向こう側の漆黒の瞳が揺れるのを見つめながら、フォルはくすっと笑って、言った。
「君は、大人になったのにまだまだ子供のようだね」
そう言いながら彼はサファイア色の瞳を細める。
深い深い深海のようなそれを見つめ返し、ノアールは口を開く。
「申し訳ございません」
頼りない、という意味だろうか。
そう思いながらノアールが言えば、フォルは笑いながら首を振る。
「謝ることはないさ。僕は子供の方が好きだもの」
そんなノアの方が可愛らしくて好きだよ。
そう言いながらフォルは軽くノアールの額に口づける。
親愛の証だよ、などと冗談めかした声音で言う彼は悪戯をしかけた子供のようだ。
ふわり、と微かに甘いストロベリーの香りがした。
***
―― 誰に好かれる必要もない。
そんなことを口にする、僕の可愛い可愛い操り人形(マリオネット)。
けれどその実、君は愛情を求める子供そのものの表情をするじゃないか。
僕が嫌いだといえば焦るような表情をして。
僕に嫌われないようにと言葉を選び。
其れはきっと幼少時代に覚えた処世術(まぁその実彼の両親に対しては効果なしだったようだけれど)なんだろう。
あの日見つけた傷ついた君は、いつしか僕を慕うようになって。
僕だけに従い、僕だけの心を求めるようになって。
嗚呼、なんて可愛らしいんだろう!
僕に嫌われないようにと心を砕くその様は。
僕の言葉によって表情を変える様は。
天界で不要とされた僕を求める愛しい子。
其れをかわいがりたいと思うのは、至極当然のことだろう?
体に傷があっても構うものか。
心が欠けていても問題などない。
全て全て受け入れて、僕が愛してあげよう。
君が欲しがる言葉を、想いを、すべてあげよう。
―― 例え仮初であっても、それが君を僕に繋ぎ止める楔になるのだから。
―― 仮初の言葉でも ――
(それが、俺を繋ぐための言葉であったとしても構うものか。
あの日俺を拾ったのがこの方であることに違いはないのだから)
(あぁそうだ、彼はとっくに気が付いているだろうとも。
それでも彼は僕を慕うのだ、其れがたまらなく愛おしい)