前々から書きたいと思っていたエマの短編です。
彼の過去をざっくりとSSで書きました。
今は臆病で控えめなエマですが、本来は優しく人が好きな吸血鬼です。
いつかそんな彼の姿が書けたら良いなぁ、と思いつつ。
ともあれ、追記からお話です。
Side Ema
白い、月明かりが降り注ぐ。
昼間の強い光が消えた城の中庭を、一人で静かに歩いた。
"人間"は既に寝静まった時間。
いつもならば賑やかな中庭も、そこから行ける薔薇園も、今は酷く静かで、まるで世界に自分が一人きりになってしまったかのよう。
しかしこうした空気が、僕は嫌いではない。
寧ろ、こうして一人の方が、ある意味では安心できるのだ。
この世界に自分以外の何者もいなければ、誰かを傷つけてしまうこともないのだから。
そっと、自分の手を月明かりにかざす。
色の白い、細い手。
人間と変わらないはずのこの手が真っ赤に染まった日のことは、未だに忘れることが出来ない。
忘れてはならない、と定期的に思いだすのだ。
ふ、と一つ息を吐く。
甘い薔薇の香りが満ちるベンチに腰かけて、空を見上げた。
体が、怠い。
その原因は、わかり切っている。
人の血を摂取する量が、足りていないのだ。
吸血鬼である僕らは、人間の血を必要とする。
昔の伝承のように血を飲んだ人間を殺すような事も、その人間が吸血鬼になるなんてことも、"ほとんど"ない。
ほんの少し血を分けてもらう、ただそれだけのはずなのだ。
そうしなければ、自分たちが死んでしまうから。
……しかし、忘れてはならないのだ。
自分たちは人間に比べたらずっと強い力を有していることを。
***
あの子に出会ったのは、今から三年くらい前。
陽の光を避けて街外れの空き家に住み着いた僕を偶然見つけたのは、人の子だった。
明るい少年だった。
笑顔が素敵な、少年だった。
どうしてそんなところに居るのかと問うて陽の光の下に僕を連れ出そうとして、倒れた僕に必死に詫びた姿を未だに覚えている。
年を取らない自分の傍にいてくれる人が居るなんて、思っていなかった。
陽の光を浴びることが出来ない僕に理由を問うた彼に、僕は素直に自身の素性を語った。
それでもし何か不都合があれば街を離れる覚悟があった。
しかし彼は言ってくれたのだ。
"友達になろう"と。
自分で良ければ、血を飲めば良いよ、と。
正直、僕は人を眠らせることが得意ではなくて、上手く"食事"を取ることが出来なかった。
その所為で弱れば動くことさえできなくなりかねなかったし、そんな彼はまさしく救世主のようで。
それから、彼との交流が始まった。
夜にこっそり家を抜け出して僕のところに遊びに来てくれた。
両親に秘密の時間は決して長くはなかったけれど、その時間が僕は大好きだった。
「僕が、怖くはないの?」
ある夜、僕は彼に問うた。
僕が吸血鬼だと知った上でも、彼の対応は全く変わらなかった。
普通に、人間の子にするような接し方をする彼が不思議でたまらなかったのだ。
その問いかけに彼は不思議そうな顔をした。
「怖がる必要ないよ」
あっさりとそう、彼は答えた。
そしていつもどおりの明るい笑みを浮かべて、言ってくれた。
「だって、君は俺の事を傷つけないだろう?」
その言葉には、思わず目を伏せた。
ちらりと向けた視線の先には、先程僕が付けた傷。
血を飲むためにはどうしてもつけざるを得ない傷、だった。
「……傷つけては、いると思うのだけれど」
ぽそり、と呟くように言う。
少しすまなそうに伏せた僕の額を軽く小突いて、彼は言った。
「でもその手当てはちゃんとしてくれるじゃないか」
「……うん」
それは、当然のことだと思っていた。
本来、僕たちは人間の敵になる種族ではない、はずで。
しかし彼はそれに感謝するのだ。
そして、自分の傍に居てくれるのだ。
「だから、怖くない」
大丈夫だって、と笑う彼は、きっと人間の中でも優しい人、だったのだろう。
そう推測することしか出来ない僕だったけれど、そんな彼に出会うことが出来たことに、僕は感謝していた。
あぁ、そろそろ時間だ。
そういって、彼はいつものように立ち上がった。
「また明日」
「うん、また明日」
いつも通りに、言葉を交わして別れた。
……あの時は、あれが最後になるなんて、一切考えていなかった。
あんなことになるなんて、思っていなかったのだ。
***
あの日は、確か少し体調が良くなかった。
そんなことは、それまでにはあまりなくて、どうしてだろう?と悩むばかりだった。
僕の両親は物心ついた時には姿を消していて、吸血鬼として生きる術は自分で身に付けたといっても過言ではない。
だから、誰にも相談することなど出来なくて、きっと静かに寝ていれば治ると思っていた。
……あの日の記憶は、酷く曖昧だ。
何かの気配を感じて、反射的に手にしたのは自分の武器である、剣で。
いつものことだった。
彼が言ったのだ。
訊ねてきたのが自分ではなく別の人で、自分に対して敵意を抱く人間だったら困るから、ちゃんと自衛はした方が良い、と。
しかしその剣を手にすると同時に意識が薄れたのは、覚えている。
次に意識が戻った時、口の中が酷く鉄臭かった。
ぽたり、と雫が落ちるのを見て、はたと我に返った。
「……え」
赤い、赤い、雫。
それは、慣れ親しんだもの。
口内に広がる味も匂いも、全部よく知ったモノ。
そして、何より。
目の前にあるモノも、見覚えのあるモノ。
斃れた骸。
ピクリとも動かないそれは、いつも僕のところに訊ねてきてくれていた、"彼"で。
その首筋には、深い傷。
それは既に乾いて、赤黒く染まっていて。
……その匂いは、自分の口内のそれと、同じで。
「う、そ……嘘、だ」
自分の手を見る。
そこは真っ赤に染まっていて。
何が起きたかは、わかってしまった。
今のこの状態が、この僕の姿が、目の前の光景が、すべてだ。
「どうして、僕、なんでこんな……ッ!」
そう泣き叫ぶ。
斃れた彼を抱き上げて、揺さぶる。
しかしその体が熱を取り戻すことはなく、答えてくれることもなくて。
彼が暴れた様子は一切なかった。
きっといつものようにこうして来てくれて、僕といつものように言葉を交わすつもりで来たのだろう。
それなのに、僕は。
「なんで、ごめん、だって、君は……ッ」
泣き叫び、懺悔の言葉を紡ぐ。
彼は僕を信頼してくれていた。
自分を傷つけることはないだろうといってくれていた。
それなのに、僕は、一体何をした?
「ぁああ……!」
泣き叫ぶ声を聞く者もなく。
僕はただ、冷たくなった彼の躰を抱きしめたまま、泣き続けた。
***
あの日のことは、僕の胸に突き刺さったまま、消えない棘となった。
大切に思っていた友人を自らの手で殺してしまったこと。
その記憶が一切ないことも含めて。
後で、調べてわかった。
僕が持っていた剣は、吸血鬼の吸血衝動を強める剣。
それを手にすると、吸血衝動が強まる。
吸血鬼を狩ろうとする人間に対抗するために作られたものだった、と。
いつもならば、僕が自分自身の力でそれを抑え込むことが出来ていた。
しかし、少し不調の時にそれを手にしてしまった所為で僕は吸血衝動をコントロールできず……彼を、殺してしまったのだ。
彼は、最期の時に何を思っただろう。
もしかしたら、いつもと様子が違う僕のことを心配してくれたかもしれない。
そんな最期の姿すら、僕の記憶にはないのだ。
自分が吸血鬼であることを疎んだのは、あの時が初めてだった。
人の血を吸うのは当たり前で仕方のないことだと思っていたけれどそう思うこともできず。
また誰かを傷つけてしまうのではないかと、それが怖くて。
それから僕は人の血を飲むことが出来ず、衰弱して……倒れたところを、この城の人に助けられて、此処に居る。
既に色々な種族の者が居るのだから気にすることはない。
この城に居る人たちはみんなそう言うけれど、その親切さが、僕は怖かった。
あの日の、彼のように、誰かの命を奪ってしまうことが。
大切に想う存在を作ることが。
だから、その手を素直に取れずにいる。
でも、もし。
もしも、もう一度だけ、僕がチャンスをもらえるのならば……――
―― 或る吸血鬼の独白 ――
(傷つけたかった訳じゃない。
ただ、同じように慈しみたかっただけなんだ)
(もしも、赦されるなら。
また、あの日のように誰かと笑い合いたい)