「んんー……終わったぁ」
そう声を上げて伸びをする、金髪の男性……メイアン。
ずっと座ったまま書類の仕事をこなしていたから、だいぶ体が凝っている。
疲れたあ、と声を上げつつ、彼は時計のほうへ視線を向けた。
だいぶ長く仕事をしていたつもりだったが、まだそんなに遅い時間ではない。
まだ恋人である西は、部活中だろう。
久しぶりに部室に顔を出すことができそうだな、と思いながら彼は目を細めた。
そのまま、カバンに書類の類をすべて突っ込んで、彼は立ち上がる。
そうしてもう一つ伸びをし絵tから、彼は外に出て行ったのだった。
***
そうして彼が向かったのは、行くのにもだいぶ慣れてきた恋人の部活の、部室。
まだ部活中らしく、部室の周囲に生徒の姿は見えない。
恐らく顧問たちは中にいるだろう、と思いながら彼はドアを軽くノックしてから中に入った。
「お、メイアン先生、お久しぶりですね」
開いたドアのほうを見てそう笑みを浮かべたのは、この部活……馬術部の顧問である遊佐。
恋人である西が懐いている少ない人間の一人でもある。
メイアンはそんな彼に微笑みかけて"お久しぶり"と返す。
そして、彼の隣で活動報告書を作っていた栗林にもこんにちは、と挨拶をしてから、小さく首をかしげた。
「まだ部活中かしら?」
「あぁ、もうすぐ大会だから……」
みんな張り切ってるよ、と遊佐は笑う。
メイアンはその言葉にふわりと笑った。
恐らく、自分の恋人……西も、愛馬ウラヌスにまたがって頑張っていることだろう。
無理をされてしまうのはつらいけれど、精一杯に頑張っている彼の姿を見るのは好きだ。
そう思いながらメイアンはほほ笑む。
「後で西をねぎらってあげないとね」
そういって、メイアンは微笑む。
遊佐もそんな彼の言葉に笑っていたが、ふと何かを思い出したような顔をした。
「そういえば……」
そんな声を上げる遊佐。
メイアンは彼の様子を見てきょとんと首をかしげた。
「どうかした?」
「メイアン先生は西のこと、竹一って呼んでやったりしないんですか?」
遊佐が口に出したのはそんな言葉。
それを聞いてメイアンは緑の瞳を丸くした。
「え?」
一層キョトンとするメイアン。
名前?
西の、名前?
メイアンがそういうと遊佐は小さくうなずいた。
そして、不思議そうな顔をしながら、言った。
「そういえばいつも苗字で呼んでるな、って……名前、知らない訳じゃないでしょ?」
どうやら、彼はメイアンが西のことをファミリーネーム……つまり、名字で呼ぶことが不思議でならないらしい。
あれほど親しいのにどうして名前よびではないのか、と。
メイアンはそんな遊佐の言葉に少し考え込んだ。
そして、呟くように言う。
「知ってるけど……呼んだことはないわね」
西の名前は、知っている。
それを彼の従兄が呼んでいるのも見ている。
けれど思い返すに、名前で呼んだことはなかった。
メイアンがそういうと遊佐はもう一度"名前で呼んでやればいいのに"といって笑った。
そんな彼の言葉にうぅん、と声を漏らし、メイアンはいった。
「確かに、ファミリーネームで呼ばれるより嬉しいかしら……」
「メイアン先生のことは名前でよんでるもんな」
栗林もそういう。
そういえば、そうね、とメイアンは思う。
今さらファミリーネームで呼ばれたらショックだろう、とも。
「今日帰ったらそう呼んでみることにするわ」
メイアンはそういってふわりと微笑んだ。
遊佐はに、と笑って"そのときの西の反応、あとで教えてくださいよ?"といったのだった。
***
そんなわけで、放課後。
メイアンはいつも通り西と一緒に家に帰った。
どうにかして名前を呼ぼうとするのだけれど……
やはり名字で呼ぶのになれているためにか、なかなか呼ぶことが出来ずにいた。
そんな彼の様子は何処かおかしかったようで、西も心配して"なんかあったのか?"と訊ねたくらいだ。
そんなこんなで、夕食後……
メイアンは食事の片付けを済ませて、リビングで茶を飲んでいた西を見た。
そしてすぅ、と息を吸ってから、何でもない風を装いつつ、彼を呼んだ。
「……ねぇ、竹一さん」
呼び捨てにするのは何だか照れ臭く感じてとりあえず、さん付け。
そう呼んだのだけれど……
瞬間、西が盛大に噎せた。
「げほっ、ごほ……な、なんだよ、いきなり!」
そう声をあげる西。
気管に入ったらしく、彼はげほげほと咳き込んでいる。
メイアンはそんな彼を見て眉を寄せつつ、いった。
「汚いわねぇ、吹き出さないでよ」
「お前のせいだろ?!」
そう声をあげる西。
メイアンはそれを見てくすくすと笑いながら、いった。
「ちょっと、新婚さんみたいでいいかなぁ、って想ったのよ」
「だから、なんで行きなり名前で……っ」
西が動揺した声をあげるため、メイアンは事情を説明した。
遊佐に言われたこと。
そういえば名前で呼んだことはなかったとおもったこと。
じゃあ呼んでみましょうと思った結果、さっきの呼び方をしたこと。
それを聞いて西は盛大に溜め息を吐き出した。
何も竹一さん何て呼ばなくても、とぼやく彼を見て、メイアンは唇を尖らせながらいった。
「じゃあ、どう呼んだらいいの?」
せっかくだから名前でよびたいわ。
メイアンがそういうと、西は視線を揺らした。
そして照れ臭そうに頬を真っ赤に染めつつぼそぼそと答える。
「ふ、普通に……竹一で、いい」
普通に、とそういう彼の耳は真っ赤だ。
どうやら相当照れているらしい。
そう思いつつ目を細めて、メイアンはいった。
「そう、じゃあこれから竹一って呼ぶわね?」
ね、竹一?
そういいながら、メイアンは西の髪を指先で撫でる。
西はその手を受けつつ少し照れ臭そうに、いった。
「伊佐兄に呼ばれるときはそうでもないのになんだかむずむずする、な」
普段、従兄である伊佐次にはそう呼ばれている。
だから名前で呼ばれるのに不慣れ、と言うわけでもないはずなのだけれど……
西がそういうと、メイアンはふわりと笑いながら、いった。
「ふふ、慣れてないからかしら?嫌?」
私にそう呼ばれるのは嫌?
メイアンがそう問いかけると、西は小さく首を振った。
「嫌じゃないけど……なんか、くすぐったい」
くすぐったい。
照れ臭い。
恥ずかしい、とはまた少し違う感覚だった。
メイアンの柔らかく高い声で呼ばれる度に、そんな気持ちになるのだ。
西がそういうと、メイアンは愛しそうに目を細めた。
そして、西の頭を撫でながら、耳元に甘く囁く。
「慣れるまで呼び続けてあげるわ?竹一」
そういいながら軽く耳を食む。
その感触に西はぴくりと体を強張らせた。
「ん……っ」
小さく声を漏らす西。
彼が抗議の視線を送るとメイアンはくすりと笑って、優しく彼の頭を撫でたのだった。
***
それから、数日。
西はいつも通りに部活に出てきていた。
メイアンに名前で呼ばれるようになって、数日……
相変わらずくすぐったさは抜けないものの大分慣れてきた。
慣れてくれば、名前で呼ばれると言うのはこんなに嬉しいことか、とも思って……
「おい西、終了だ終了!」
そんな遊佐の声が聞こえるまで、夢中でウラヌスを駆けさせていた。
終わりだと言う声に応じつつ、彼は部室の方へ戻る。
と、部室のドアを開ければそこに見慣れた姿があった。
長い金髪をふわりと揺らしたメイアンが嬉しそうな笑みを浮かべて、言う。
「あ、竹一!お帰りなさい!」
さらりとそう、名前で呼ぶメイアン。
西はそれに目を丸くして、いった。
「ば……っ学校では西って呼べっていっただろ?!」
一応、学校ではメイアンと西は"教師と生徒"だ。
恋人どうしであると言うことがばれたら問題である。
メイアンもそれを失念していたようで"あ"と小さく声をあげた。
幸い、此処にいたのは気心の知れた馬術部の教師たち……
否、ある意味では幸いではなかった、だろうか。
「お、名前で呼んでもらえるようになったんだなぁ?」
そういって遊佐は笑う。
西はあわあわしつつ否定の言葉をはこうとするが、事実だから否定のしようもない。
そんなほほえましい彼の様子を見て、遊佐は嬉しそうに、楽しそうに、笑っている。
「っ、もう!メイアンが呼び方間違えるから!」
「いいじゃないのよ、遊佐さんも栗林さんも私たちの関係は知ってるんでしょ?」
問題ないわ、とメイアンは開き直る。
そしてもう一度"お帰り、竹一"と彼の名を呼んで、微笑んだのだった。
―― Call your name ――
(愛おしい恋人の名前。
呼べば呼ぶほどに、その愛しさはつのっていって…)
(慈しむように俺の名前を紡ぐ、恋人の声。
少しくすぐったくて、でもいやと言う気はしなくて…)