とある、ごく普通の一日のはずだった。
金髪の少年、ハイドリヒはいつものように自分の席で読書をしていた。
昼休みの教室。
わいわいと賑やかなクラスメイトの声をBGMに、
読み差しの本を読んでいた彼は、顔をあげた。
いつもより少し、人数が少ない……
嗚呼、そういえば次の授業は体育だったか。
ハイドリヒはそう気がついた。
人数が少ないのは既に着替えに向かった者がいるからだ。
面倒臭いしサボろうかな。
そう思っていたときだった。
不意に、机に影が落ちる。
ハイドリヒが顔をあげれば、数人の男子生徒が立っていた。
クラスメイトの……あまり話はしたことがないから、絡みは薄い。
そんな彼がわざわざ昼休みになんの用事だろう?
そんな思いを込めてハイドリヒが首をかしげると、
その少年は内緒話でもするかのように、顔を近づけてきた。
「ひとつ、ちょっと聞いた噂があってさ」
「噂?」
ハイドリヒはその言葉に少し、眉を寄せる。
基本的に噂話は嫌いなたちだ。
そうして顔をしかめたハイドリヒを見て、その少年は小さく笑って、いった。
「なぁ、お前さ……」
―― 援交してたって本当か?
唐突な問いかけに、ハイドリヒは固まった。
否、思考が停止したのは驚いたからだけではない。
その問いかけが、謂れもない嘘だったなら、噂だったなら、
顔をしかめて終わりに出来ただろう。
しかし……
その噂を否定することが、とっさにできなかったのは……――
ハイドリヒにその質問を投げたその少年は、少し眉を寄せてから、笑った。
「……へぇ、動揺したってことは本当なんだな」
そんな言葉には、嘲笑が滲んでいる気がした。
ハイドリヒは、視線を彷徨わせる。
何処から、ばれたのだろう。
そう考えたけれど、浮かぶ理由なんてひとつもない。
でも、隠し事と言うのはいずれ露見するものだと、
ハイドリヒはよく知っている……――
そう。
今の、少年の発言は事実だった。
中学時代の、隠したい過去……――
と、ハイドリヒが反応できずにいる間に、
ハイドリヒに声をかけてきた少年が隣にいる少年の肩をぽんと叩きつつ、いった。
「コイツが中学時代の先輩に聞いたんだってさ。
中学のときっていうからまさかなぁって思ってたけど……」
本当だったんだなぁ、とからかうような口調で言われる。
ハイドリヒは否定も肯定もせずに、目を伏せた。
本を閉じて、立ち上がって、逃げるように教室を出ていく。
後ろから、笑い声が追いかけてきた気がした。
それから、ハイドリヒは一層クラスで孤立した。
元々、あまり人付き合いが得意な方ではなかったけれど、
"あの噂"が広まってしまったらしく、クラスメイトの視線が痛い。
気にしていないふりをしようとした。
でも、それは出来なくて……
***
ハイドリヒの身にそんなことがあってから、数日後……
赤髪の少年は携帯電話の画面を見つめながら、小さく溜め息を吐き出した。
揺れる、電車の座席。
いつもなら隣にいる金髪の少年の姿が、ここ数日はない。
「風邪、なのかなあ……」
そんなに悪いのかなといいながら、赤髪の彼……アネットは携帯の画面をつける。
表示されているのは、メールの画面。
差出人は、アネットの愛しい人、ハイドリヒ。
"体調を崩していて学校にいけない"と言う、そっけないメールだった。
彼からのメールが愛想がよかったためしはないために、
別に文面がどうこうとは思わなかったのだが、欠席日数が延びてきている。
それが、心配だった。
そんなに具合が悪いのだろうか、と。
そんなに悪いのか、とメールはした。
でも、返ってくるのはいつも同じ、"大丈夫"と言うメール。
でも、その大丈夫の一言が無理したものである気がしてならなくて、
こうして見舞いに来たのである。
「俺がいって役にたつとも思いにくいんだけど……」
別に看病が出来る訳でもない。
でも、放っておけないから……と、見舞いがてら、
こうしてハイドリヒの家を訪ねるに至った次第。
うろ覚えの道を辿って、ハイドリヒの家に辿り着いた。
そこで足を止めて、アネットは少し悩む。
風邪を引いているのなら、下手にチャイムを鳴らして起こすのも気が引ける……
そう思って躊躇っていると。
「おや、貴方は……」
後ろで、不意に声が聞こえた。
アネットは驚いた顔をして、振り向く。
「え?あ……」
そこにたっていたのは、黒髪に金色の瞳の青年だった。
一度だけ、アネットも顔を会わせたことがある、ハイドリヒの旧友だと言う、彼……
アネットは少し考えて、彼の名前を思い出す。
「カナリス、さんだっけ」
「えぇ。先日は、どうも」
軽く会釈をしてから、彼……カナリスはハイドリヒの家の方を見た。
そしてアネットに視線を戻して、小さく首をかしげる。
「ライニに、会いに来たのですか?」
「……そうだけど」
相変わらずハイドリヒのことを愛称で呼ぶカナリスに、アネットは少し眉を寄せる。
しかし、カナリスはそれを気に止めたようすなく"そうですか"と呟いた。
アネットは少し迷う表情を浮かべてから、彼に問いかけた。
「なぁ、ラインハルトのこと……何か聞いてないっすか。
そんなに、体調悪いんすかね」
隣人である彼ならばなにか知っているかもしれない。
アネットはそう思ったのである。
彼の問いかけを聞いて、カナリスは少し、眉を寄せた。
知っている。
今の、彼の状況。状態。
そして……彼が、学校を欠席している理由も。
でも、それは話しても良いものなのか、わからずにいた。
「……?カナリスさん?」
アネットに呼ばれて、カナリスははっとする。
彼はとても心配そうな顔をしていた。
そんなに、ハイドリヒの具合は悪いのか、と訊ねる。
そんな彼の表情、声色を感じて、カナリスは決意した。
「大丈夫ですよ、ライニは……少なくとも、病気ではありません」
「え?何、ソレ……?」
アネットは怪訝そうな顔をした。
病気ではない。
だったら、どうして?
ズル休み?
そんなことをするようなタイプには見えないのだけれど……
アネットのそんな表情を見て、カナリスは小さく溜め息を吐き出す。
そして、アネットにいった。
「今から話すことは、他言無用です」
「え?」
「……他人に話すな、と言うことですよ」
カナリスはそう前置くと、アネットに"あること"を説明し始めた。
***
―― 今から、数年前。
まだ、ハイドリヒが中等部の生徒だった頃のことだ。
カナリスは彼の学校へ、クラスへ、教育実習でいった。
物静かで、冷静な、大人びた生徒。
他人と馴れ合おうとしない、一匹狼。
それが、カナリスにとって隣人である金髪の少年への印象だった。
そして、彼からは何か独特な雰囲気を感じた。
普通の中学生にはない、独特の雰囲気を……
そして、それはカナリスの教育実習中に起きた。
ハイドリヒが体育の授業に出ずに保健室にいっていると聞いて、
カナリスは様子を見に行った。
確か、夏のことだった。
他の生徒たちは暑さに負けて、少し制服を着崩していて、
教師に叱られていると言うのに、ハイドリヒだけはきちっと着ていたのだ。
ただそれだけならば偉いな、で終わったのかもしれないけれど……
その姿には、違和感があった。
きっちりしすぎている。
そんな、違和感。
この暑いのにシャツの第一ボタンまで留める者など、教師にもいない。
でも、ハイドリヒはそうだった。
シャツをまくろうともしない。
そんな彼を見ていて、カナリスは気になっていたのである。
保健室に入れば、養護教諭は不在だった。
保健室には彼以外はいなくて、カナリスは声をかけてから、
彼がいるベッドのしきりカーテンのなかに入った。
なかに入ってきたカナリスに、彼は驚いた様子だった。
少しだけ緩められていたワイシャツの隙間から見えたのは……
赤紫色の、アザだった。
それが一体何を意味しているのか。
どうしたらつくものなのか……
ハイドリヒたちよりずっと年上であるカナリスには、すぐにわかった。
「それは、一体どうしてつけられたものですか……?」
「!……あ」
ハイドリヒは慌ててシャツのボタンを止めようとした。
しかし、その手をカナリスが掴む。
動揺した表情を浮かべるハイドリヒを、カナリスはじっと見つめた。
ハイドリヒは暫しいいわけを考えるように視線を彷徨わせていたが、
やがて観念したように口を開いた。
―― 援助交際をしていた、と。
確かに容姿が綺麗な彼だったら出来ないことはなかろう、
そう客観的には思うが、真面目そうな彼が、と言うのが印象。
カナリスは悪いと思いつつ保健室の鍵をかけると、
ハイドリヒにその理由を問いかけた。
暫くは頑なに口を閉ざしていた彼だったが、
少しして、ぽつりと呟くようにいった。
「……寂しかった、から」
「え……」
ハイドリヒの返答に、カナリスは一瞬驚いた。
彼は顔をあげ、カナリスの方を見ながら、いった。
「……誰かと、一緒に過ごす……時間が、ほしかったんです」
別に、金がほしかった訳ではない。
ただ……求めていたのは、温もり。
無償の愛情。
ほんの一時の遊戯(あそび)ではあったけれど、
その時間は、相手が自分を愛してくれた。
好きだよ、と偽りであっても言葉をくれた。
だから、そういうことをしていた、と。
ハイドリヒはそう語った。
教室でハイドリヒが孤立していることには、カナリスも気がついていた。
そして、彼とは性格が真逆とも言えるような弟と折り合いが悪いことも知っていた。
だから……彼が、そんな行動に走った理由は、すぐに理解できた。
……悲しい理由だと、そう思った。
「……ライニ」
「……もう、しませんよ。気の迷い、です」
こうしてばれてしまったわけですしね、といって、ハイドリヒは肩を竦めた。
ゲーム終了とでも言いたげなそっけない口調ではあったけれど……
その肩が、声が震えていることに、カナリスはとっくに気がついていた。
***
そんな、昔の話を聞いて、アネットは驚いて固まっていた。
やっとのことで、口を開く。
「んなこと、あったんだ……」
「えぇ。ひた隠しにしているとは、思いますが……」
カナリスは自分でも、何故それを話してしまったのかはわからなかった。
ハイドリヒがそれを隠し続けていて、
それがばれた時にアネットが逆上するのを恐れたのか、
或いは……それを知ってなお彼、アネットが、
ハイドリヒを大切にするかを確かめたかったのか。
「その時のことが、学校でばれたらしくて。
あからさまになにかをされる、と言うことは今のところないらしいのですが……
少し、精神的にキているみたいで」
疲れた顔をして帰ってきたハイドリヒに事情をきいて、
休んだ方がよい、と勧めたのはカナリスだった。
無理をしていって、途中で倒れてもその方が大変だろう、と。
元々勉学面は出来が良い彼。
暫く休んだからといって勉強についていけなくなるなんてこともないのだし、と。
「そう、なんだ……俺、気がつかなかった」
アネットは少し落ち込んだ顔をして、そういう。
いつそんなことがあったのか、アネットは知らなかった。
確かに、ここ最近ハイドリヒの元気がない気はしていたが、
まさか……そんな問題を抱えていたなんて。
カナリスはそんな彼を見て、小さく息を吐く。
「気づかなくて当然でしょう。たぶん、ライニは……」
―― 貴方にだけは、知られたくないはずですから。
カナリスがそういおうとした、その時だった。
「アネット、さん……先生?」
不意に聞こえた、高い声。
二人が視線を向ければ、金髪の彼……ハイドリヒがドアから顔を出していた。
アネットはそんな彼を見て、ガーネットの瞳を大きく見開く。
「あ……」
「ライニ。ごめんなさい、僕が彼を呼び止めたのですよ」
「そう、ですか」
カナリスの言葉にハイドリヒは小さく頷く。
けれど、その表情は何処かぎこちない。
アネットとカナリスが二人で何を話していたのかが気になっているのか、
それとも……もしかして話の断片が聞こえていたのか。
それはわからなかったけれど、アネットはいつも通りに笑う。
「ラインハルト、調子はどうだ?」
「え?えぇ……大丈夫、ですよ」
「そっか……上がっても、いい?」
アネットが問いかけると、ハイドリヒは少し躊躇う表情を浮かべてから小さく頷いた。
アネットは微笑んで、"ありがとう"と言うと、彼の家の方へ歩き出す。
カナリスはその背中をじっと見つめた。
アネットの気概をはかろうとするかのように。
その視線に気がついてか、アネットはひらりと手を振った。
"心配すんな"とでも言いたげに。
***
ハイドリヒはアネットを部屋に招き入れた。
彼の弟はまだ学校にいっていて、いない。
もう少ししたら帰ってくるかもしれないけれど……そう思いつつ、小さく息を吐く。
「お茶でも、いれてきますね」
「あ、いいよ。俺、そういうつもりで来たんじゃないし」
茶をいれてくる、といったハイドリヒにアネットはあっさりとそういった。
ハイドリヒは手持ち無沙汰になって、視線を逃がす。
アネットは暫しそんな彼を見つめていたが……
そっと、華奢なハイドリヒの手を握った。
「なー、ラインハルト……」
「何、ですか?」
ハイドリヒは隣にいるアネットを見る。
いつものような人懐っこい表情ではなくて、
真剣な顔をしているアネットの表情に、少し面食らった。
アネットは話の切り出しかたに少し迷った末、ストレートにいった。
「カナリスさんからさ、話聞いたよ。お前の、中学の時の……その」
「……私が、援助交際をしてたって話、ですか」
静かに、ハイドリヒはいった。
やはり、カナリスとの会話が聞こえていたと見える。
アネットはこくり、と頷いた。
ハイドリヒは"そうですか"と呟いたきり、黙りこんでしまった。
アネットはそんな彼を見る。
目を伏せて、顔を伏せている彼の表情は見えにくい。
でも、その華奢な肩が小さく震えていた。
アネットはそれを見つめつつ、小さな声で問いかけた。
「……それが、原因だったんだろ?今、休んでんの。
それがばれて、気まずい……違う?」
アネットの問いかけに、ハイドリヒはこくりと頷いた。
今さら、隠すことは何もない。
嘘をつかずに答えることが、せめてもの"罪滅ぼし"と、思っていた。
「仕方が、ないとはわかっています……
していたことは、事実ですし……そんなの、"穢らわしい"ですしね」
最後の辺りは、自嘲の色を含んでいた。
アネットはそんな彼の言葉に、声色に、顔をしかめる。
そんなアネットの表情をちらと見たハイドリヒは、顔をあげた。
そして、少し……泣き出しそうな顔をする。
そのまま、アネットの手首をぐっと掴んだ。
「でも、アネットさん……聞いてください、今は、もうしてな……っ」
信じてください、と言いたげに顔をあげたハイドリヒの唇を、アネットは塞いだ。
驚いて見開かれる、ハイドリヒの青い瞳。
逃げようとしたハイドリヒの背中に腕を回して、
アネットは下手くそな長いキスを続けた。
二人の呼吸が少し上がったタイミングでアネットはキスを止める。
そして、少し呼吸を整えてから、いった。
「ん。大丈夫。わかってるよ」
それくらい、といってアネットは微笑んだ。
ハイドリヒは驚いたように幾度もまばたきをする。
アネットはおずおずと、服越しにハイドリヒの胸元に触れた。
ぴくり、と跳ねるハイドリヒの体。
アネットは彼の顔を見ながら、悪戯っぽく笑った。
「……ラインハルトの体にあるキスマークは、俺がつけたもんばっかだよ。
あれ見てりゃ、他の人間にそういうことさせてないことくらい……すぐわかる」
恥ずかしげもなくそういうアネットにハイドリヒは頬を赤くした。
確かに、幾らか彼に刻まれたキスマークが肌に残っている。
けれど、それを堂々と言われるのは気恥ずかしくて……
抗議しようとした唇を、アネットに再び塞がれる。
今度は一瞬だけのキス。
その後に、体を抱き寄せられた。
「……寂しかった、んだろ?」
耳元で、アネットがそうささやいた。
その言葉が、中学の時の……
見も知らぬ人間に抱かれていた時のことを示しているのに、すぐ気づいた。
こくり、とハイドリヒは頷く。
そう、寂しかった。
傍にいてくれる人が、自分を理解してくれる人が……温もりが、ほしくて。
そんなハイドリヒの呟きを聴いて、アネットはハイドリヒを抱き締める腕に力を込める。
そして、いった。
「なら、今はもう大丈夫?」
「え……」
戸惑いの表情を、ハイドリヒは浮かべる。
どういう意味?と言いたげな彼の声を聴いて、アネットは一度彼の体を離した。
そして、まっすぐにハイドリヒを見つめつつ、いった。
「寂しいなら、俺を呼べばいいよ。
俺、ちゃんとラインハルトのこと愛してるから」
「!」
彼の言葉に、ハイドリヒは大きく目を見開く。
アネットは微笑みながら、優しくハイドリヒの金髪を撫でる。
そして、強く、優しい声でいった。
「名前も、なにも知らないような人間に、
その場かぎりの愛情もらう必要なんか、もうないって思わせてやるから」
だから、大丈夫だよ。
そういいながら、アネットは再びハイドリヒを抱き締めた。
暖かい体。
優しい声。
……嗚呼、そうだ。
あのときも、これがほしかった……
そう思いながら、ハイドリヒはおずおずと、大きなアネットの背中に腕を回す。
つっと、頬を暖かな涙が伝っていくのを感じた。
アネットは静かに嗚咽を漏らし始めた彼を抱き止め、小さく息を吐き出す。
そしてごめんな、と呟いた。
上手い慰めが浮かばないこと。
そして此処までそんな彼の過去を知らずにいたこと。
彼が内心で求めていたSOSに気づけなかったことを詫びて……――
―― 求めていた、モノ ――
(もうしていないから、と必死に訴えたのは…
漸く見つけた、安らげる場所を失いたくなかったから?)
(大丈夫、大丈夫。
お前がそれを求めるなら、俺がそれをあげるよ。
愛してる、大好きだ。そんな言葉と、暖かい抱擁とを…)