なんだか体が揺れている気がする…。
マッサージチェアにでも腰掛けてる気分だ…。
「あ・き・ら・ちゃん…」
重たい瞼を上げると、俺の見知った顔がすぐ傍まで接近していた。
「!?!?!?」
声にならない声をあげ、体を一気に後ろに引く。
そりゃあもう物凄い速さで。
「ゆ、ゆゆ、ゆづ、き、げほっごほっ!」
あまりに驚きすぎて噎せてしまった俺に、夕月がコップ一杯の水を差し出した。
思わずコップを手に取ってしまった俺だが、口に運ぶ寸前で手を止める。
何か入ってるのではないか。
そんな考えがふと頭をよぎった。
夕月との腐れ縁は今年で十六年目をむかえる。
それこそ生まれたときからの付き合いなのだが、未だに謎な部分が多い。
家が隣同士、おまけに親同士の仲も良い、ということもあり、彼女の生活環境についてはそこら辺の奴らよりは知っていると自負している。
が、しかし。
二桁の年を一緒に過ごしても、彼女の考えを全て読み取ることはできない。
ましてや、夕月は高校で化学部なんてものに入りやがった。
いや、別に化学部を悪く言いたい訳じゃないんだ。
ただ、夕月の独特な雰囲気と化学部が運命的な出会いを果たしてしまい、もう俺には手がつけられない。
……つまりは、相当不気味で相当恐ろしい、ということだ。
まるで黒魔術でも始めそうな彼女の行動を、全て実験に繋がっているのではないか…と考えても、おかしくないはずだ。
自分はモルモットにされるのではないかと考えても、おかしくないはずだ。
…さすがに人にモルモット的役割を望むほど、夕月は冷酷な奴ではないが。
とにかく、彼女が人というものに多大なる興味を持っているのは事実。
その証拠に、夕月がよく人を見て薄ら笑いを浮かべている光景を、俺は何度も目にしてきた。
今回はそのターゲットが俺かもしれない。
などと長考に入っていた俺から何かを感じ取ったらしい彼女が、コップをジッと見つめた後、俺の顔を見上げ、ゆっくりと口を開いた。
このスローペース具合が夕月らしい。
「晶ちゃん…、私に…怪しげな液体を開発する力なんてなくてよ…?」
これが夕月の得意技、読心術である。
周りからは「晶がわかりやすすぎる」などと言われるが、決してそうではない。
夕月が読心術を取得しているのだ。
俺はコップを前に出し、強気な姿勢を見せ、なんとか誤魔化そうとする。
「べ、別に飲むのが怖いとかじゃねーからな!夕月が怖いんだからな!」
あれ。手が小刻みに揺れて止まらない。
震えている訳じゃない、決して。
「晶ちゃん…。私いま傷付いたわ…」
「あ。いや、えと、ち、違う!間違った!その、あっ、と……悪」
かった、と言いかけて、床についている方の手に目線を移した。
夕月の目がそちらに動いたから。
「晶ちゃん…、先ほどからずっと言おうと思っていたのだけれど…、」
夕月は何かを渋るように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「私…、晶ちゃんを起こしたのは、晶ちゃんの電話が鳴っていたからなの…」
ああ。
俺、寝てたのか。
夕月は俺が起きたか確認するために、体を揺すりながら顔を覗き込んでいたって訳だ。
だから、顔があんなに近くに…
「って、ちょっと待て。電話…?」
嫌な汗が垂れる。
「ええ…。…晶ちゃんが起きた反動で…通話ボタンが押さ…」
夕月の言葉を最後まで待たずに、恐る恐る左手に握られた携帯電話を耳にあてた。
「…か、なた…先輩じゃ、ないです…よね?」
『お。やっと気付いたか。バイトの時間過ぎてるぞ』
受話器の向こうから聞こえたのは、そうであって欲しくないと願った先輩の声であった。
「す、すみません!すぐ向かいます!」
慌てて膝を折り、頭を下げる。
電話の向こう側から見えないことを知っていながらも、やってしまうのが日本人の性だ。
『はは。お前今正座しただろ?店は空いてるし、こっちへ来るのは、話終わらせてからでいいよ』
「夕づ…じゃなくて、は、や…、ゆ、は、羽矢!羽矢はいません!」
『とりあえず落ち着け。羽矢がいないのはわかった。晶、深呼吸だ深呼吸』
俺は精一杯の大きな声で返事をし、金太先輩の言う通り大きく息を吸った。
吸った。
吸った。
吸いすぎて噎せた。
「晶ちゃん…お水…」
夕月に指差され、ずっとコップを持っていたことに気付いた俺は、すぐさまコップの水を一気に飲み干した。
『晶、深呼吸っていうのは、吸った後に吐かなきゃダメなんだ』
「俺は“ちゃん”付けなんかで呼ばれてません!」
『わかってるよ。ちょっと羽矢に代わってくれないか?』
俺はまた、返事を覚えたての幼稚園児ばりの、元気の良い「はい」を先輩に返すと、夕月に携帯を差し出した。
渡す瞬間、「変なこと言うなよ!」と小声で注意を促すことを忘れない。
余計なことを言わないかと見張っていたのだが、彼女の声はあまりにも小さく、聞き取ることが出来ないということを、すっかり忘れていた俺は、全く無意味なことをしていたのだと気付いた。
そうしている内に、話は終わってしまったようだ。
話を終えた夕月が勝手に電話を切ってしまったものだから、俺は抗議の声を挙げたが、時計を見て我に帰り、慌てて荷物をまとめて化学室を出た。
その晩。
俺は謎の腹痛に苦しむこととなる。
今まで一度も食べ物にあたったことなどないのに…と、家族全員が困惑した夜だった。
***夕月と金太の電話***
『晶ちゃん…今とても混乱していて…』
「だろうな…。羽矢、晶をこっちに寄越すのは、落ち着かせてからにしてくれ」
『わかりました…。でも晶ちゃん…、きっと私が止める前に…飛んでいってしまうので…。ご了承願います…』
「だろうな…。わかった。まあ後は任せてくれ」
『はい…。金太先輩…相変わらずお可愛らしいですね…。ふふ…。それでは…』
プツッと電話が切れる音を確認し、受話器を置く。
途端、静けさが際立ち、一人のお客さんもいないことを証明した。
今日はもう店仕舞いしてしまおうか。
そう考えた矢先、入口のドアが開いた。
振動に合わせ、チリンチリン、と鈴の音が鳴る。
「いらっしゃいま…って、お前か」
「ちょっ…!お前かって酷くない!?愛しのま・な・と・くんっ!でしょーっ?」
「…お客様、この場から速やかに消えて頂けないでしょうか?」
今日初の営業スマイル。
を、こんな奴に使うとは。
真人が顔面蒼白を絵に描いたようなことになっているが、まあ気にしないでおこう。
「か、金太さん…、今誰かと電話しておりませんでした…?」
何故か真人の声が震えている。
俺の殺気を感じ取ったのだろうか。
「ああ。……羽矢は相変わらずだった…」
「夕月ちゃん?なにっ?また可愛いとかなんとか言われたのっ?」
ケロッとした様子で、真人の声はいつも通りに戻った。
調子の良い奴だ。
「羽矢の言い方ってこう…何か含みがあって…ゾッとするんだよな…」
思い出すだけで鳥肌が立つ。
「いいなーあっ!俺も可愛いって言われたいっ!」
「羽矢は世辞が言えないから無理だな」
「酷い!今日は一段と酷い!」
その後も真人がブーブー嘆いていたが、やはりこれも気にしないでおこう。