永遠とは今の現在のこと







結婚してからも、夫が妻の名前を「ちゃん」付けする癖はやっぱり治らなかった。
いつまでも子供扱いされているみたいだと、夫から見れば昔から子供そのものみたいな妻は、頬をよく膨らませたものだったが、しかし、その実、妻のほうがずっと頑固なのである。






自分の背丈を遥かに凌駕する棚の上のものを取ろうとして、相応に高い台をせっせとその下に運んで、それに足を乗せて背伸びした瞬間、足の下にずるっという妙な摩擦を感じたのと、大きな声で名前を叫ばれたのは同じ瞬間だったように思う。
きゃっ、とか、わあっ、とか、そんな月並みな言葉も出ないままに息を呑んで、ああ、滑ったんだなあと浮遊感に頭だけは妙に冷静に状況を把握した。あ、ぶつかる。滑ったといえば次にくるのは恐らく、床への体ごとの追突で、咄嗟に目をつむって、無意識に腹を庇うかたちで来る衝撃に構えようとした神楽の体は、しかし予想した衝撃を喰らうことは無かった。


どん。


何かがぶつかった音には違いないのだけど、床に転げ落ちた割には体はどこも痛くない。しばらく体を竦めていた神楽は、いつまでたっても来ない痛みと、床にしてはどこか浮遊感がある不可思議な感覚に、はて、と小首を傾げ、そろそろと瞳を開いた。


……あれ。


真っ先に目に入ったのは白い、どこかで見たような、あれ、もしかして着流し? そうして次に知覚したのはふわりと、服にしみこんでいる甘い匂いで、そこで漸く、神楽はふっと自分の今いるところに思い当たって、恐る恐る顔を上げた。


視線が向かう先には、やっぱり見慣れた顔があって、なんとも珍しい、普段の泰然とした雰囲気をかなぐり捨てて、口角を引きつらせた強張った表情である。
こっちも声も出ないのか、口をかすかにぱくつかせていて、ひたすら何か言いたそうな瞳がじっとりと神楽を見下ろしていた。確かに木刀を腰にかけて出かける直前に、いきなり人が落ちるところを見たのでは、驚きもするだろう。それでも、さっき落ちる前に聞いた叫び声はどうやら銀時の声で、今こうやって咄嗟に自分を抱きとめてくれたのも彼らしい。
体の下にしっかりと自分を抱える両腕を感じる。さすがの俊敏さだと、神楽は他人事のように感心した。
しばらく二人何も言わず、というか相手が何も言わないので神楽も何も言えず、姫抱っこのように抱えられて、開放されたのは、どうやら漸く銀時の頭が状況を把握したらしい頃合だった。


(どうやら、本当に体だけで反応したアルな……)


自分の腕の中で丸まっていた壊れ物を恐る恐る下ろすような、酷くぎこちない手つきでそろそろと地面に下ろされる。
神楽の足が完全に床についたころで、銀時が大きく安堵したような息を吐いて、ようやく喋れる雰囲気になった神楽は、夫に向かって、申し訳なさそうに小さく詫びた。


「………ごめんなさい、銀ちゃん」



銀時の前に所在なさげに身を小さくして立ちすくんで、怒られるかな、怒られるよね、と俯きながら思っていたら、やっぱり落ちて来たのは常より低い声だった。


「……神楽ちゃん、そういうときは銀さん呼んで、って、ちゃんと言ったよね」


その声は子供を叱る父親みたいで、むしろ叱るというか呆れた口調ですらある。
しかし、決して頭ごなしに怒る声ではなかったはずなのに、それまで殊勝に俯いていたはずの神楽は、床に視線は投げたままだったけれど、少しむっとした表情を見せた。


「……だって、」


困ったように自分を見下ろしているその人の、声は確かに自分を案じたもので、普段見ないようなさっきの驚いた表情を通り越して、慄いた表情とあわせれば、自分は反省こそすべきであると分かってはいるのだけれど、それでもついと口から出たのは拗ねるような響きの往生際の悪い言葉だった。
自分に非はあると知っているので、声は小さな水滴を落とすように小さくか細かったが、大きな瞳は伏せられたまま、銀時を写すことはない。
謝った気持ちに嘘はないし、銀時を心配させたのは悪いとは本当に思っているんだけど。けど、その中に自分への子供扱いの匂いを嗅ぎ取ってしまったのだ。……また。


(……子ども怒るみたいに)


確かに銀時と自分は14歳も離れていて、兄妹どころか下手すれば親子であってもおかしくないくらいで、実際にも目の前の人は自分よりずっとずっと体も心も大人の男であることは知っている。けど、だからといって、銀時が自分の事をいつまでたってもどこか子供としてみている事が、神楽にとっては釈然としない。いつだってそうだ。別に上から偉そうに見られてるとかそんなんじゃ決してないけれど。それでもいつだって、こんなふうに銀時の言葉の端々には、自分を宥めるような響きがあって、触れる手にはあやされている。子供みたいに甘やかされている、そう思う。それは追いつきたいと思うくらいに、大人として成熟している銀時への憧れを孕んだ僻みの部分もあったかもしれないけれど、それでも銀時がそういう態度を取っているのだけは確かに真実で、銀時と対等になれる人間になりたいと密かに想っている神楽にとっては、どこか歯痒い事実だった。
……そんなことを思うこと自体、どこか子供が必死で背伸びするような愛らしさで、更に銀時の態度を助長させているとは、神楽は知りえないことだったが。


(──私なんて、結局、銀ちゃんにとっては子供みたいな伴侶なんデショ……)


拗ねた神楽は、何か反論してやろうとした。だって銀ちゃんをわざわざ呼びに行かなくたって、アレくらい私にも椅子を使えば取れると思ったし、とか、実際届いたし、とか、……まあ落ちちゃったけど、とか。大体、銀ちゃんは心配性すぎるアルとか、言葉だけいくつも浮かんできたけれど、結局何一つ口にはでなかった。そのどれもがあまりに言い訳じみていると、いくら神楽でも分かったからだ。一人で出来ると過信して無茶をする傾向にある自分に、銀時が珍しく真剣な顔をしてそう約束させたのは、確かに記憶に残る事実であったので。だけど素直に謝るのも癪で、下を向いたままもごもごとものいいたげに口だけ動かしていたら、そのうちに上から、はあ、と大きな溜息が聞こえてきた。
思わずびくりと、身を竦ませる。そうして後で、これじゃ本当に子供そのものじゃないかと、神楽は心中で自分を罵った。


「神楽ちゃん」


大人たる銀時の唇から零れるのは、やはり決して拗ねる幼い妻を犯人のように詰問する口調ではない。


(ほら、やっぱり甘やかしてる)


どこか宥めるような音は、それっきり続きをつむぐことはなく、それは銀時が神楽に何を求めているのか明白だった。
わかって、いる。静かに求める響きは、何だかんだいって銀時に決定的に懐いている神楽の強情を挫くには十分すぎる効果を持っていて、神楽は心の中でたじろく。結局のところ、自分に非があると分かってはいるのだから、こんなところで強情を通しても、銀時を呆れさせるばかりでなんの意味もないのだと決して愚鈍ではなくむしろ賢明な彼女は知っていた。銀時を言いまかせるような屁理屈も思い浮かばない。


(……どんな事を言ったって、銀ちゃんに勝てる気がしないアル……)


それなら、さっさと謝って、また約束をしてしまうしか神楽の取れる道はないのだ。こんなことで朝の忙しい時間を費やしてはいけない。


(知ってるけど……)


最早、あっさりと身を引くには時候を逸している。そもそもが負けず嫌いなのだ。口から出させるはずの、「心配かけてごめんなさい」「もうしません」の言葉は、喉に張り付いたままで、どうしてもでてこない。
落ち着いた大人の男の目が、神楽をじっと見つめている。目を合わせることが出来ないで神楽はずっと下を向いている。


(分かってる、けど…)


けど。


沈黙。銀時は神楽の言葉を待ったまま何も言わない。さすが心理戦は心得ているのか、意識されて作られた沈黙に、神楽は段々心細いような悲しいような気分になってくる。


(こんなんじゃ……)
(けど銀ちゃんも)
(私の馬鹿)
(ばかー……)


頭の中はぐるぐる、色んな思考が渦巻いて。
止まらない。止まんない。思わず唇を噛み締める。そうすると、言葉は何も出てこない。
ぐるぐる。その時間は神楽にとっては永遠に近い時間のようだ。


(ぅー……)


けれど結局、終わりは来て、折れるのは大人で神楽に最高に甘い男のほうだと決まっている。




数分の沈黙、神楽にしてはとてつもなく遥かに長い時間を経た後、こてん。


「ぅわ、」


急に、肩に重力がかかってきたものだから、何が起こったのか一瞬理解できなかった神楽は、思わず顔を上げる。
すると、目の前には、確かにさっきまで神楽に無言の圧力を与えていた銀時が、自分より少しはなれたところにいるはずで。しかし、真っ先に目の端に飛び込んできたのは、銀色の、くるっくる飛び跳ねたクセ毛で。それからふわりとなれた匂いが神楽を包んで、大きな掌が軽く神楽の両腕を掴む。懇願するように。ああ、銀ちゃんが私の肩に頭を置いてきたんだな、と呆然とする視界の中で長身が自分に向かって折り曲げられているのを見て、鈍くなった頭がはじめてそう気づいたのと、「かぐら、」、そう静かに低く、切なげにさえ聞こえるように名前を呼ばれるのは、一緒の瞬間だった。


「言うこと、聞いて」


頼むから、そう続ける男の、神楽を掴む掌は脆いものを抱くように優しくて、そうして声は祈るように切なるものなのだから。
…数年前は、鈍い自分の心の声をあまり聞かせたことは無かったのに、今は神楽のためなら、そんな声は案外簡単に男から降って来る。それが銀時にとって、神楽がどれほど他から切り離された特別な存在である事を示しているのかは、神楽はまだ気づかないけれど。
ぼう、と男に抱擁されながら、狐につままれたように神楽は宙を見る。
何が起こっているんだろう、よく分からない。
ふわんと呆けた瞳で視線を彷徨わせて、だけど手は抱擁を受けるいつもの癖で無意識に軽く男の服を掴む。お互い意志の疎通が出来てないのに、それはまるで抱き合っている形だ。
あれ、銀ちゃん、何が。ぼんやり視線の終着点を、起点と同じ銀時の髪に落ち着かせて。何が? 包まれたカラダが暖かい。違和感は無い。この人は見た目よりも、それほど不器用じゃないことは、もう、当に知っている。


「ぎんちゃん?」
「………な?」


わからないまでも。そんな風に、それにこんな普段は天邪鬼な男に、嘆願するように首筋に顔を埋められて、大きく溜息をはかれたのでは、先ほどあんなに反駁していた幼い妹をあやすような、宥めの声もするっと体の中に入ってきてしまって、噛み締めた唇は落とされた言葉であっさりと溶けてしまう。


「……はい」


無意識なくらい自然に付いて出たのは、銀時に求められながらどうしても答えられなかった音だった。だって、結局のところ惚れた弱みは一緒なのだし。体が、心が、もうそのあまやかで優しい声に最後には答えるようにできている。


「……ごめんね、銀ちゃん」


神楽の声に、銀時は柔らかで温かい首筋に顔を埋めて、ん、と声を零して、その背中に腕を回した。
くすぐったいアル、と身を捩る神楽を逃がすことはせずに、耳元に静かに声を落とす。


「もう、一人の体じゃないんだし」


その声に神楽が気づいたように、ぴくと体を震わせるのを確認して、ゆっくりとその柔らかい髪を撫でながら、また囁いた。あまやかに。愛しげに。


「……お腹の中の、な?」





そう囁かれたのでは、神楽だって、慌てて完全降伏するしかない。






fin


more
07/14 04:52
[銀魂]




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