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いらいらする

誰が最初に言い出したか知らないけど、簡単に股開くんでしょ。違うの?部員全員と何かしらあるんでしょ。違うの?元カレと別れてもやってたんでしょ。違うの?誰にも言えないこといっぱいしたんだよね。違うの?
何怒ってんの?図星だから怒ってんのかwww

しょうもない女

自我がないのか自我がありすぎるのか、生きていくのに不都合なことが多すぎるみたいに見える。消えたいなら消えたらいいのに(^ω^)

結局、好きの反対は無関心だってことはわかってる

男に依存して束縛して都合よく性欲処理しあって、捨てられたり捨てられたり飽きたり捨てられたり(笑)したら、次に寄りかかる誰かが必要で、あの子はそのサイクルを延々と繰り返すんじゃないかと。
腹の中の闇が黒すぎてにじみだしてるwww
誰かといつかは幸せになれると思ってるんだろうか。甚だ疑問。それとも自分には特別な魅力があるとでも思ってるんだろうか。

日本のCSR:今後のあり方

CSRは日本語で「企業の社会的責任」と呼ばれている。日本においてCSRということばは1970年代から使われており、その本質は、企業が持続可能な社会の実現と発展のために、さまざまなステークホルダーの要求に応じた活動をすることである。しかし諸外国と比較して日本のCSRは、地域社会に貢献するというよりも、企業イメージを向上させ企業自体の発展へつながる活動に偏っていると言われている。さらにヨーロッパにおいても、近年欧州委員会が方針を変更したことによってもともとCSRの推進を先導していた各国政府も方針を変更し、「社会」のためのCSRと「企業」のためのCSRが混同されているという。このような現状を問題視する声は多いが、イメージアップを目的としているとは言え企業の資金面や技術面の援助は享受する側にとっては大変ありがたいものであると思う。私は一度、アフラックペアレンツハウスという施設を見学したことがある。都市の病院で小児がんを治療するために、地方からやってきた子供の家族のための格安の宿泊施設で、アフラックの寄付によって運営されている。メセナやフィランソロピーとCSRは別のものであるから、線引きをする必要があるのかもしれないが、このようなCSRも社会にとって必要なものではないだろうか。

臓器移植法改正

臓器移植法の第六条において、生前に臓器移植の意思を書面で示していて遺族が拒まない場合には「脳死した者」を「死体」に含むとし、その臓器を提供できると定められている。この「臓器の提供意思」を表明するに際して、2010年7月までは、15歳以上の者の意思表明のみが有効であると規定されていたが、法改正によって本人の意思が不明な場合にも家族の同意のみによって臓器提供が可能になったため、15歳未満の子供の臓器提供も可能になった。この法改正が進められた裏側には「移植後進国」と呼ばれるような日本の臓器移植件数の伸び悩みの現状、また小さな子供が重病のために海外で移植を行うというケースが目立ってきたためである。
提供される側にとっては、今回の法改正は大変ありがたいものとなったことは間違いない。しかし、提供する側の家族にとって「脳死は人の死」と定義された今回の改正が良いものになるとは考えにくい。もし家族が脳死になった場合、これまでは本人の意思表明がない限り臓器提供者になる可能性が0だったのに対して、今後は家族に大きな負担がかかると考えられるからである。数名の命を救うことが出来るかもしれないと迫られれば、意図せぬ臓器提供が起きかねない。さらに親族に優先的に臓器を提供できるという改正点については、養子縁組の問題や臓器を提供するために自殺する者が出てくるかもしれないという懸念がある。
しかし私はここが改正の限界点になると考える。これ以上移植の障壁が取り払われるには世論の風当たりも強くなり難しいだろう。今後医療に期待するべきことは、移植に頼らずEPS細胞などの研究の発展であり、これ以上臓器移植に依存するべきではない。 
 
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