何度目か分からない溜め息を吐きながら、啓太は携帯を閉じた。瞼を下ろし、自分を落ち着かせようと、そのままベッドへ横になる。
「……」
先ほど自分へ送られてきたメールの内容を頭で反芻し、緩く首を左右に振った。仕方ない、と、小さく呟く。
『ごめん、日曜無理になった』
そう和希からメールが届いたのが、つい十分ほど前。その文章を見た瞬間、切なくなるような、苦しくなるような、そんな感覚が、胸を締め付けた。
ごろりと寝返りを打ち、啓太は枕に顔を埋める。
分かっている。これは、仕方ないことなのだ。和希は理事長なのだから、たびたび学校に来なかったり、土日が潰れてしまうことは少なくない。仕事なのだから、それを優先させるのは当たり前だ。
「……でも、もう三日だよ…………」
ぽつりと、口にする。言葉にして、同時にそれが耳に届くと、事実を改めて実感してしまい、さらに胸が痛んだ。
携帯をベッドの、自分の手が届かない場所に放り投げる。
「……っ……」
頭では分かっているのに、感情がついていかなかった。
和希はもう三日、仕事のために学校へ来ていない。学校に来ないため、啓太は和希と、顔を合わせることができずにいた。しかもメールで、今週いっぱいは帰れそうにないと言われた。
でも、今会えないのは寂しいが、今週の日曜日にデートの約束がある。だからそれを楽しみに待っていよう。そう、思っていた。――なのに。
無理になった、なんて。
そういえば、さっきの和希からのメールに返信していない。そう思うが、しかし、だからといって返事をする気分にもなれず、啓太は枕に顔を埋めたまま動かなかった。
仕方のないことなのだと分かっている。だからこそ啓太は、今の自分の感情が嫌だった。
だったら仕方ないね、と、そうメールを返して、気にしていないフリをすれば、和希に変な心配をかけなくて済む。あの和希のことだから、今頃きっと、落ち込んでいるに違いないから、そう言って、安心させてあげなきゃいけないのに。
しばらくの間動かずにいた啓太は、自分がだんだんと冷静になるのを自覚しながら、ゆっくりと起きあがった。先ほど放り投げた携帯を拾い上げる。まだ画面に映る和希からのメールを見ながら、また、溜め息を吐いた。
「……仕方ないんだから」
呟きつつ自分に言い聞かせ、メールの返信ボタンを押す。新規作成されたメールの内容の部分に、ぽちぽちと文字を打ち始めた。
『そっか。仕事だもんね』
そこまで文字を打ち、適当な顔文字を付けると、啓太は改行のボタンを押した。
「仕事、が、ん、ば、っ、て、ね」
親指で操作しながら、打つ文字を言葉にする。よし、と続け、完成したメールの送信ボタンを押そうとした。
瞬間。
コンコンと、部屋の扉がノックされる。
「……?」
軽く聞こえた音に、啓太は動きを止めた。そのまま動かないでいると、また、誰かが扉を叩く音が聞こえてくる。
こんな時間に、一体誰だろう。もうそろそろもう寝る時間なのに――。
そう考えた瞬間、啓太の脳裏に、恋人の姿が浮かんだ。
まさか、和希?
勢いよくベッドから降りると、啓太は扉へ駆け寄った。反射的に笑顔が浮かぶのを自覚しつつ扉を開ける。
和希が来てくれたんだ。きっと仕事を抜け出して、一目自分に会おうと――……。
「和……ッ」
和希、と。
思わず名前を呼びかけた啓太は、目の前に立つ人物を見て、目を瞬いた。
「……俊、介」
「はーい! お届け物などなんでもござれ、あなたの俊介ちゃんでーす!」
おどけたように笑う彼に、内心がっかりとしつつも、啓太は軽く笑む。
「どうか、した? こんな時間に」
「おれが来る理由言うたら一つしかないやろ」
「え?」
「伊藤啓太君に、お届けもんでーす」
途端、俊介に紙袋を渡される。質量を持ったそれにきょとんとしつつ、啓太は紙袋と俊介を交互に見た。
「え?」
「差出人は匿名やねんけど、特に変な感じでもなさそうやからさ。前払いで学食チケットもらったんもあるけど。あ、中身は見てへんで」
「は、はあ……」
俊介はぺらぺらと言葉を繋ぐと、携帯を開き、今の時間を確認した。そして、今の時間がそろそろヤバいということに気付いたのか、慌てたように踵を返す。
「んじゃ届けたしおれ帰るわ」
「あ、うん。ありがとう」
走っていく俊介の背中を見送り、啓太は部屋の中へ戻った。
「……なんだろ」
先ほど渡された紙袋を、中身を確かめるように揺らし、ベッドへ腰掛ける。
そのまま紙袋をひっくり返すと、可愛い袋にラッピングされたものが出てきた。これではまだ中身は分からない。
一体なんだろう。ますます疑問が募る。今日は自分の誕生日ではないし、だがだからといって理由が分からないのでは不信感が募るばかりで――。
「……まあいっか」
俊介も言っていた。変なものではないと。だったらまず、中身を確かめてみてもいいだろう。
意を決し、啓太は勢いよく、可愛いラッピングの袋を開ける。
中から、出てきたのは。
「……くま?」
袋を捨て、ベッドに転がるそれを持ち上げる。しげしげと眺めたそれは、手作りであろうクマのぬいぐるみだった。
「なんで……こんなのが……?」
訳が分からずに首を傾げていると、そのクマの手が、何かを持っていることに気付いた。
きょとんとしながら、啓太はクマの手から、それを取った。これもまた、可愛い袋にラッピングされている。形的に、中身は何かの箱だろう。
手のひらサイズのそれを開け、中身を出した。出てきたのは、予想通り小さな箱。
「……」
落ちそうになるクマを脇に挟み直し、啓太は箱を開けた。
「え……」
そして、入っていたものを見て、大きく目を、見開く。
そこにあったのは、何の装飾もない、シンプルな指輪だった。
何故こんなものが届けられたんだ? しかも、クマのぬいぐるみと一緒に。
疑問に思い、思考を巡らせていた啓太は、不意にハッとした。
クマの、手作りであろうぬいぐるみ。こんなのを作れて、しかも自分に送ってくる人物を、啓太は一人しか知らない。まさか、この指輪の送り主は――。
「和……」
名前を紡ごうとした、瞬間。
勢いよく、ベッドに放り投げていた携帯が、鳴った。
「!」
自分の世界に入り込んでいた啓太は、思考を遮るように鳴り響いた携帯に驚き、脇に挟んでいたぬいぐるみを落とす。指輪も一緒に落としかけたが、さすがにそれはダメだろうと、すんでのところで落とさずに済んだ。
ずっと鳴り響く着信音は、電話がかかってきたことを告げている。
誰だろうか。
啓太は指輪の入った箱を持ったまま、携帯へと手を伸ばした。相手を確かめるために覗き込んだディスプレイには、遠藤和希と記されている。その名前を見た途端、啓太の頭から色々なことが吹っ飛んだ。通話ボタンを押し、耳に押し当てる。
「和希!?」
『久しぶり、啓太』
「和希……」
電話の向こうから聞こえてくる声は、聞き慣れた恋人のもの。三日ぶりに聞く声に、啓太の胸の奥が熱くなった。
たった三日しか離れていないのに、こんなにも懐かしく思うなんて。
『元気にしてるか?』
「もちろん。和希こそ、体壊したりしてない?」
『ああ。でも……』
「でも?」
切られた言葉に、何かあったのだろうかと不安に駆られる。
思わず息を詰めて和希の言葉を待てば、しばらくの沈黙の後、和希が小さく吹き出した。そして、なにやら楽しそうに笑い声を上げ始める。
「え?」
いきなり笑われ、啓太は何回か瞬きをした。何故笑われているのか、理由が分からない。
「和希?」
『ごめんごめん』
ひとしきり笑ったあと、和希は謝罪を口にする。すうと息を吸った気配がした。
『そんなに心配しなくていいよ』
「でも……」
『別に体壊したとか、そういうんじゃないんだ』
「じゃあ……」
何? と呟く前に、和希が答えた。
『ただ、啓太に会えなくて寂しいなって』
一瞬啓太は、何を言われたのか分からなかった。しかしすぐに、頬が熱くなる。
「か、和希!? な、何言って……!」
『だって、最近全然会えないんだぜ? メールか電話ばっかで……きちんと啓太の顔が、見たいんだよ』
さらりと言われたセリフに、何て返せばいいのか分からなかった。ただ顔が、いや、体中が、熱を持ち、熱い。多分今の自分の顔は、真っ赤に熟れた苺みたいになっているに違いない。
『今週のデートも、さ、ダメになっちゃって……』
「で、でも、仕事だから仕方ないじゃん」
申し訳なさそうな和希の声に慌て、啓太は、見えないと知りながらも、首を左右に振った。
『じゃあ啓太は、寂しくないのか?』
「え……」
『三日会えてない。デートもなくなった。メールばっかり。……――少なくとも、俺は寂しい』
どきりと、啓太の心臓が音を立てる。
和希も、自分と同じことを考えてたんだ。そう思うと、さらに胸の高鳴りは増し、同時に、熱くなった。胸の奥が、苦しいくらいに締め付けられる。だが、不快では、ない。
「……――」
『啓太?』
黙り込んだ啓太に、どうかしたのかと、和希の声が問うてくる。
啓太は啓太を握り直し、息を吸った。
「俺、だって……」
そして、薄く唇を、開く。
「和希に、会いたい。こんなこと言っても困らせるだけだって分かってるけど――会いたいんだ」
言葉にして改めて、啓太は自分がずっとそう思っていたことを悟った。仕方ないと諦めるんじゃなくて、本当はこんな風に、ワガママを言いたかった。
『啓太』
啓太が俯いて黙ると、優しげな声が、耳に届いた。低すぎず、だからと言って高くもない彼の声は、電話越しでも、耳に心地いい。
『本当に、ごめんな』
「っ! べ、別に謝ってほしくて言ったんじゃないよ!」
『でも』
「分かってる。仕事なんだから仕方ないって。なのにこんなこと言って……俺こそ、ごめん」
『啓太……』
少しの間、和希は何も言わなかった。啓太も口を閉ざし、和希の言葉を待つ。
『啓太は、大人だな』
「和希には負けるよ」
『なんだよそれ。どういう意味だ?』
「べっつにー」
明るい調子で言い、啓太はクスクスと笑う。すると和希もそれにつられたのか、電話の向こうから、小さく笑う声がした。
「ところで、あのクマは何?」
ひとしきり笑ったところで、ふと床に落ちているクマが目に入り、啓太は聞いた。そういえばまだ、電話を持った方とは逆の手に、指輪の入った箱を持ったままだ。
『ああ、それ届いたんだ』
「うん。ついさっき俊介が持って来てくれた」
『最近できたんだ。俺の自信作』
「仕事、忙しいんじゃなかったっけ?」
『それはそれ、これはこれ。仕事ばっかじゃ息詰まるから、息抜きにだよ』
「ふーん。あと……」
この、指輪。
そう続けようとしたのに、声が出てこなかった。
なんだか照れくさくて、自分から話題に出すことが躊躇われる。
だが啓太の言いたいことを悟ったらしく、啓太が言葉にする前に、和希は疑問に答えてくれた。
『指輪、サイズ大丈夫そう?』
「え? あ、えっと、まだ着けてないけど、多分大丈夫だと思う」
『多分間違ってないとは思うんだけど……。もし入らなかったら、すぐに言って。取り替えるから』
「う、うん」
『俺の指にも、同じやつ着いてる』
聞こえてきたセリフに、啓太は聞き返しそうになった。
『もちろん、左手の薬指』
見えないのに啓太は、和希が笑っていると感じた。左手の薬指を顔の前に掲げて、幸せそうに笑っている気がする。
『啓太にも、着けてほしいんだ。そしたら、離れてても繋がってるだろ?』
心臓が小さく、鳴った。
自分の指に、和希からもらった指輪が着いている。想像するだけで照れくさいような、恥ずかしいような、でも幸せな、そんな想いが、こみ上げてきた。