俺的理論「+」と「−」
中学生の頃、人生の「運」はいい時と悪い時を合わせて「0」になるんだと考えていた
ちょうどそのころ、自分に起こった出来事などの調子のいい悪いが足したらゼロ付近だなーと感じていたからだ
そのころは毎日「今日のツイてる具合」を測るのがとても楽しかった。友達との会話のたのしさ、登下校中の信号の引っかからなさやかわいいことしゃべれたり、便が快調だったり
授業で当てられたり、忘れ物したり、部活の野球でヒットだせなかったり、便が頑固だったり
そういう「+」の面と「−」の面を、その凸凹をはめていくのが楽しくてしょうがなかった
あれから10数年…人生はそんなもんでは測れんよと、そう今は考える
ファクターが多すぎるファクツァーが
人によっては何万分の1という確率の難病にかかったり不慮の事故だったりで若くして亡くなる人もいる。そんなひとたちはその分の不幸に値するほどの幸運を手にしていたのかと考えると、そうとも言い切れない
幸福度という言葉もあるが、そもそもそんなもの測れるもんじゃないし同じ現象でも人によっても度合いが違いすぎる
ただ言えることは「ある程度の幸せ」というものは、日々わけが分かっていなくとも「なんとなく頑張って」いないと手に入らない
みんなが当たり前のようにもっているもの(先天的なもの以外の人それぞれのステータス)は、なんとなく、だけども「とりあえず」がむしゃらに頑張っているからなのだと
まぁだからなんだと言われればそれまで(本当はそれまでではないとも思っているが長くなるので省略)だが
調子のいい悪い、人のいいとこ悪いとことかもそうだが、測れるもんでもないよねって話。天は二物を与えることもあれば逆もまた然り。
まぁ後者は特に人(第3者)からの視点だしね
ただそういうの考えるの面白いよね
俺は不慮の事故のくだり読んだときパッと浮かんだね。
この場合、
「死ぬこと」を不幸=運要素のマイナス
「生きること」を幸福=運要素のプラス
としているなら、自殺はどうなんだろう?
もしプラスマイナスがゼロで調整されるなら、「死ぬこと」っていうのはどんなにプラス要素を足しても調整できないほどのマイナスなわけだ。
不慮の事故=本人が望んでいない死亡する事故
だとするなら、理解できるね。本人が望んでない。ってとこが自殺と違うところだね。
結果的にはどちらも死亡してしまうわけだけど。
もしも、「死ぬこと」自体をマイナス要素だとするなら自殺者は例えば自殺方法が首つりだったら「幸運にもロープが切れて」助かるって事がおきるわけだ。
調整が本当に起きているとするなら、その際使用した運のプラス要素はとてつもない量になるよね、なぜなら「死ぬこと」っていうのは運のマイナス要素の極値なわけだから。
しかし、助かったところでそれまでにその人がいくら運のマイナス要素ばかり入手してきた人であったとしても、その後もマイナス要素ばかり入手しそうな気がするね。
それほどまでに「死ぬこと」は運のマイナス要素として高い数値を持っていると俺は思うんだよね。
だから「死ぬこと」自体は運のマイナス要素ではないと俺は思うんだ。
死にたい、死にたいと思っている人が、でも自殺には踏み切れなくて不慮の事故で亡くなった。とするなら、それは本人にとって不幸ではないだろうし(第三者視点からすれば、あの人は不幸だなぁ。となるが)
という個人的な見解であった。
確かに面白いなぁ〜〜。
俺が中学の頃は、
「衛星から大規模なレーザーを北極か南極に(水位が増す方)照射して溶かせば人類は滅びる!やったぜ!」
とか意味不明な事を考えていたなぁ〜。
この記事の内容は現実的だけど、俺のは妄想レベルだわwww
思えば、そのころから妄想が好きだったんかな〜。
今は、世界が滅ばないかな〜、あ〜死にたいなぁ〜。
って考えから、
まぁ死ぬにしても「その時」が来るまで適当に生きるか〜。
って考えまで上がって(?)きたね。
めちゃくちゃポジティブって域には辿りつけないし、辿りつこうとも思ってないけど、某氏から言われた何気ない一言
「人生でやってる事なんて死ぬまでの暇つぶしよ」
っていうのが結構俺の気を楽にしているよ。
っていう長文。
気分を害してしまったのならすまぬ。
気づいた時には時間が空いちゃってたから「今更返事するのは変かな」と思いそのままにしてただけだ。意図的にコメント避けてたわけではない