*R15 空想世界『人外×少年』
神々の住む神聖な山〈ルシウス・マグローテ〉のすぐ麓に栄える町〈ナギア〉はその清浄な気と温暖な気候のおかげで作物や果実がよく実り、それを売る事で生計を立てている商業の町であった。
町外れに住む少年――ユズルもまた、その一人だ。今は亡き両親が残してくれた薬屋と豊富な知識で贅沢とは言えないが普通に生きていけるだけの収入を得ている。今日もまた、首都へ薬を売りに行ってきたばかりらしく、大きな荷物を店先のベンチに下ろし、額に浮いた汗を拭った。
「あらあらユズル、おかえりなさい、今日は随分と早かったのね?」
「あ、シーラさん」
豊満な胸を盛大に揺らしながら大きな樽を転がしていたのは、町でミルク屋を営むシーラ。三人の息子を持つシーラは、まだ小さいユズルにとって母親代わりのような存在で、いつもこうして声をかけてくれるのだ。
「今日はいつもより人が多くて、四刻で全て売り切れちゃったんです」
「あらまあ! 良かったじゃないの! それなりに纏まったお金が入ったんじゃないのかい?」
「はい! 全部で二万ジールでした。おかげで今日は冬用のブランケットと靴が買えました」
そう嬉しそうに鞄から出したのは、あまり上質とは言えないごわついた茶色いブランケットに、新品には見えない擦れた黒い靴。それを見たシーラは顔をしかめると、樽から離れユズルの小さな体を抱き締めた。
「わっぷ! し、シーラさっ」
牛のような乳房に顔が埋まり、慌てて呼吸をする為上を向くと、切れ長の瞳を揺らしたシーラと目が合い、ユズルはハッ、と息を呑んだ。
「ああっ、ユズル……なんでアンタがこんなっ」
震える声に、頬に落ちた雫。ユズルは何故シーラがこれ程辛そうにしているのかがわからなく、しかし、これは自分のせいだとわかるユズルは、何も言えずにシーラの甘く柔らかな服を握った。
ユズルが見せたブランケットと靴は、どう見繕ってもせいぜい五〇〇ジール程度の安物だ。恐らくは、安物の粗悪品を高値で売りつけられたのだろう。
警戒心もなく、薬作り以外には全く無知で世間知らずなユズルはよくこうして騙され金を巻き上げられているのだ。
シーラや他の村人にも心配され、よく見極めるように、気を付けるようにと言われるが、人を疑う事を知らないユズルにはそれは無茶な話なのである。
「そうだ、今日家に晩ご飯食べに来な! 私の自慢のミルク料理作ってあげるわよ!」
「え、でも……」
「遠慮するんでないよお! 出来たら家の双子を迎えに寄越すから、楽しみにしてな!」
「……ありがとう、シーラさんっ」
目元を赤くし、はにかむように笑うユズルはどんなに大人顔負けに薬の知識に優れていようと、まだ成人の儀式もしていない子供なのだと痛感する。
せめてユズルに寄り添い、ユズルを守り、大切に愛する誰かがいれば。どうか、この優しいか弱い少年を守って下さいと、神々に祈るようにシーラは白い霧に包まれた山を見つめた――。
***
シーラと別れ自宅に入ると、嗅ぎ慣れた薬草の香りに頬が緩んだ。
「ただいま、お父さん、お母さん」
暖炉の上に置かれた両親の写真に笑顔で言えば、買ってきたブランケットをベッドに、靴をベッドの下に置きすぐに壁一面に作られた棚に向かった。
「あのね、今、首都近くの街から人が沢山来てるみたいでね、薬が全部売れたんだよ!」
迷う手つきはそこにはなかった。次々に棚から薬草を取り出して行くと、擂り鉢の隣に積んでいく。
「だから、明日も売りに行ってくる。まだまだ冬に向けて買う物があるんだ。今ね、首都や近郊の街では風邪が流行ってるらしいから、風邪薬と喉の薬、それから……」
乾燥したクズカサ草を持つ手が机に落ちると、同時にユズルの元気な声も止んだ。俯いたその表情は柔らかな黒髪によって見えないが、肩は弱々しく震えている。
「っ……ぇっ、えぅ」
静寂に響いたのは、微かな嗚咽。しかし、それ以上大きくなる事はなく、目をブカブカな服の袖で乱暴に拭うと、再び手を動かし、黙々と作業を続けた。
そこにさっきのような明るい話し声はなかった――。
どれ程時間が経っただろうか。気付けば手元が薄暗く、窓の外を見れば暗闇に包まれていた。
「……ふう」
息を吐き、机の端に置かれていた古びたランプに火を灯すと、軽く伸びて凝った肩を揉んだ。
「……っ、ぃッ」
刹那、腹部に鈍い痛みが走り息を詰めた。揺らめくオレンジ色に照らされた室内。痛みと苦しさは徐々にその強さを増し、ユズルは慌ててブカブカのシャツを捲った。
「――ッッ!?」
左側の下腹部付近に浮かぶ、黒い、模様。その周りは赤く脈打ち、酷く不気味だ。その未知の恐怖に苦痛は増し、凄まじい激痛に立ってなどいられなく、ユズルの小さな体は薄汚れた床へと派手に倒れ作りかけの薬を撒き散らした。
「ぐッ、ぐうゥッ、あッ、あ゙あうッッ!!」
死んでしまいそうな苦痛の中、ユズルは微かに声を聞いた。それは、どこから聞こえてくるのか、何を言っているのか――わからない。
「ぁッ、ぎッうッ、あ゙……おと、さ……お母、さんッ」
両親の顔が、脳裏に浮かぶ。光を失った瞳から涙がボロリと溢れると、ゆっくりと瞼が下がっていった。
「ユズル!」
「ユズル!」
重なる声。それはさっき聞こえたものではなく、よく知った声。
朦朧とする意識の中、抱き上げられ額と頬、そして腹部を撫でられたのを感じたのを最後に、ユズルの意識は完全に途切れた。
***
夢を見ていた。
まだユズルが幼く、両親が傍で笑っていてくれていた頃の夢だ。
ユズルは両親に挟まれたベッドの中で幸せそうに甘え、父親の左手の甲をしきりに撫でていた。そんなユズルに、両親は温かな眼差しを向け、そしてユズルと同じ黒髪黒眼の父親が不意に口を開く。
「ユズルも大きくなれば、きっと体の何処かに“印”が浮かぶよ」
「本当? 僕も、お父さんみたいな綺麗な模様が出る?」
「ああ、きっと」
「……嬉しい。綺麗だもん。なんか、お花みたいだ」
「印は神々に選ばれた者のしるし。ユズルは優しい子だもの。必ず、神々の祝福と加護が与えられるわ」
「僕を、守ってくれるの?」
「そうだよ。だから、私達に何かあっても、きっとその印に宿る――……」
夢は黒く染まり、幸せは終わりを告げた。
「……んー」
瞼を上げれば、そこは見慣れない白く美しい天井。しばらく瞬きを繰り返し視界を慣らすと、ゆっくりと起き上がり辺りを見回した。
「わ」
白く広い部屋の中央にユズルは寝かされていた。しかし驚いたのはそこではない。
「なんでっ、服っ」
細く肋が浮いた貧相な肢体を隠すものは何もなく、その慣れない開放感に慌てて体を隠すように丸めた。ユズルを中心に丸く囲むようにして散りばめられている青い花には見覚えがあり、ユズルは恐る恐る体を浮かす。――刹那。
「その陣から出てはいけないよ」
部屋に響いたのは男の優しい声。それは、入り口から聞こえ、見れば白髪の背の高い男を筆頭に、白いフードを被った数人が部屋に入ってきた。その手には複雑な細工が施された剣が握られている。
ユズルはその刀に怯え、涙の浮いた瞳は縋るように先程の男を見つめていた。男はそれに気が付き、持っていた白い剣を背に隠すように持つと、目を細め微笑む。
「おめでとう、ユズル・アリア」
「……え?」
不意に紡がれた祝福の言葉に、思わず首を傾げた。
「君はその純潔な精神と肉体を神に認められたのだよ」
「え?」
「下腹部に浮かぶ印をごらん」
「……あ!」
気を失う前、ランプの明かりの元で見た酷く不気味に脈打つ模様が、今はハッキリと肌に刻まれていた。触れても凹凸はなく、周りの肌と同じでサラサラとしている。
「それは神々の加護と慈愛により刻まれた、神々の祝福。君だけの印だ」
「い、ん? 祝福?」
混乱する脳は男の言っている意味を上手く処理出来なく、しかし、印、神々という単語に、さっきの夢を思い出す。夢の中の両親は、確か似たような事を言っていた。
「……君は、ナギアに住んでいるのに印の事を知らないのかい?」
「…………」
「まあいい。詳しい事は後で話してあげよう。まずは、君の中に生まれた神を解放してさしあげなくてはいけない」
「僕の、中に?」
剣を上げ目を瞑ると、周りの人間も似たように剣を抜き中央――ユズルに向ける。刹那、空気が変わった。
周りを囲む全ての人間が聞き取れない程の早さで呪文を詠唱していく。窓もない室内に風が吹き、青い花弁が宙を舞い、そしてユズルの髪を揺らした。
「っ、いたッ」
下腹部に感じた痛みに、心臓が跳ねた。脳が、体が、心が記憶した気を失う前のあの激痛。それがまたくるのかと、ユズルは恐怖した。
「やッ、痛いッ、痛いッ、やだ止めて!」
「落ち着きなさい、ユズル。力を抜いて、印に感覚を集中させるんだ」
「やだッ、やだッ、痛いィッッ!!」
風が強くなると同時に、痛みも増し瞳から零れた涙が次々と舞う。仰向けに倒れ、不意に印を見れば、そこは盛り上がり、光が漏れ何かが出ようとしているのが感覚でわかった。
その想像を絶する恐怖に、ユズルは喉の奥から擦るような悲鳴を上げた。だが、それは自分の耳には届かず、気付けば体が弓なりに浮遊し、風がユズルを中心に巻き上がっている。その気流に花弁が舞い、見ている者はその神秘的な光景に息を呑んだ。
「――来る」
男は目を細め、呟いた。
「あッ、あ゙ぁああ゙ああァァ゙あ゙ッ、――ッッ!!」
全身が大きく痙攣した瞬間、光がいっそう強まり、その場にいた者全てが目を瞑り暴風に体を浮かせた。
男もまた例外ではなく、壁に叩きつけられた衝撃で一瞬、意識を飛ばしたが、風と光が収まっている事に気付き、慌てて体を起こす。
「――お、おおっ!」
全ての者が息を呑んだ。
ハラリ、ハラリと舞う花弁の中、気を失っているのかクタリと脱力するユズルを抱き締める者がいた。
しなやかで逞しい体に、癖のある美しい白銀の髪。その美貌は見る者全ての呼吸を凍らせ、同時に男の茫洋たる雰囲気に、痛い程の威圧感を感じた。
「おお、神よ……貴方様の名を知る権利を我々にお与え下さいませっ」
男は些か興奮に頬を染め頭を垂らしながら懇願した。それを見たフードの者達も慌てて膝を付き同じく頭を垂らす。
「――クラウス」
呟いた甘いテノールは、耳を通じ脳を震わせた。中には声を聞いただけで射精した者達もいて、男も例外ではない。しかし濡れて不愉快な筈の股関を気にせず立ち上がり、二人に近付くと持っていた剣を持ち上げ十字を切る。
「神に愛されしか弱き人の子に加護と慈愛の契約を。少年の全てを受け止め命の共有を」
「――ユズル」
「……、ン」
重なる唇が熱く、何かが自分の中流れ込んでくるのをユズルは感じた。だが疲労感に瞼が上がる事はなく、口内に入る柔らかな何かを赤子のように吸い、その甘さに安堵感を覚えた。
さっきとは打って変わり、穏やかな寝顔を見せるユズルの頬を撫で、男――クラウスは小さく微笑んだ。
end
2011.9.27
追記に蛇足→→→