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3月11日。14時46分。

地震発生。
 
私は会社に居ました。
 
すぐに終わるって思ったけど
 
終わる気配無し。
 
何処からか避難だ!!って声がして
 
駐車場に避難した。
 
余震があるなか
 
帰宅していいとのこと。
 
子どもが心配だった。
 
普段は20分かかる道のりが
 
1時間半かけて帰宅。
 
子どもとも合流して
 
涙が出るほど嬉しかった。
 
帰宅はしたが
 
電気、ガス、水道全てダメで。
 
井戸水でお湯をわかして
 
ろうそくの灯りでカップラーメンを食べた。
 
不安だった。
 
これからどうなるのだろう…。

3月12日(土)

朝から避難指示。
 
何の情報もなく
 
ただ、避難しろと。
 

ここは原発の避難指示の範疇。 

隣の村に行く様指示が出たが、
 
凄い渋滞。
 
どうしよもないから家に帰った。
 
程なくして近所の人と共に役場の職員に避難して下さいと言われ
 
役場のパトロールカーで町の施設へ。
 
隣の村にバスでピストン輸送してて、
 
最後のバスに乗り込んだ。
 
母を説得した。
 
命の保証がないとか言われたら
 
避難するしかないぢゃん。
 
夕食。おにぎりいっこ。
不安な避難生活が始まった。

3月13日(日)

避難所での食事。
朝食パン半分。
夜カップラーメン半分。おにぎりいっこ。
 
何もすることない。
この日から携帯繋がらない。
 
中国から働きに来てる
6人組と仲良くなった。
祖国とは連絡取れないらしい。
 
不安なんだろうけど明るい彼女たちにちょっと尊敬した。
 
子どもの面倒もみてくれて助かったよ。

3月14日(月)

原発が心配。
 
だけどすることなく散歩したり読書したり。
 
朝のおにぎりが傷んでて食べられない状態だった
 
まじありえない…。

3月15日(火)

もぉ限界…。
 
朝はおにぎりいっこ。
 
2時過ぎて出た食事らしきものが
 
前日からの残りの味噌汁と
おにぎりをおじや風に煮たもの。
 
なんだこれ…
 
お母さんと相談してお母さんの妹に連絡した。
 
携帯の繋がるところで
 
メールしまくった。
 
母の妹の旦那さんが迎えに来て。
 
ほっとしたのと同時に
残って避難してる人たちのことを考えると
 
泣きそうになった。
 
久しぶりに温かい飲みものと
ご飯。
 
ありがたいね
 
おばさん家に来て携帯繋がった。
会社や友達から
沢山メールを貰った。
 
会社に連絡した。
福島工場はまだダメだけど
本社では
工場長はじめ
皆で復旧出来る様に
頑張ってるとのこと。
 
嬉しかった!!
 
頑張ろうと思った(^ω^)
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