謹賀新年。
あけましておめでとうございます。わーーーい。木野ですよ。
新年になると、お雑煮とか、親戚に会ったりだとか、いろいろあると思うんですが。
毎年そういう話をいろんな人から聞いて、いいなあ、と思います。
というのも、親戚の方に会うのはお葬式の時だけですし、お雑煮を食べたこともなければ、お正月を家族でぼんやりまったり過ごすこともないからです。
いつからだったか、ほんと、物心つく前から、父親は母親を毎日のように蔑んでいました。
父は母を罵倒するし、母は父を罵倒します。
ちいさい頃からそれを見ていて、ずっと見ていて、幼心にさみしいなと思っていました。それと同時に、しっかりしなくちゃと思っていました。
なのでそれからは、父と母が喧嘩するごとに仲裁にはいることにしていました。でも大人の背には追いつけないので、喧嘩する二人の視線に入るように机の上に立って、泣きじゃくりながら止めていたのを覚えています。
それでも、喧嘩が止むことはなかったけれど。
そうして、しっかりしなくちゃという自分で決めたルールは、その後十年間守ることになります。
成績は常にトップか、二番でした。
成績を見せたら母は喜んでくれました。先生に褒められたら父も喜んでくれました。私を見て、私に笑ってくれる二人が好きでした。
小学校では地味ないじめに遭っていましたが、上履きを隠されても、工作を壊されても、すれ違いざまに悪口を言われても、作物を潰されても、ものを盗まれても、最初は傷付いたものの、一年も経てばどうでもよくなりました。
いい子にして、先生を味方につけたらいいと気付きました。「いい子」は私を裏切りませんでした。冷めた子どもでした。
中学では、勉強をするだけじゃ意味がないことに気付いて、生徒会に入りました。
ですが、私以外まともに働く子がひとりも居らず、まとめ役は私で、一応「友達の多い人望の厚い子」でしたから、文句も言わずにひとりで働いていました。
それは少なくとも、私のストレスとして溜まっていったようでした。
この頃になると、両親の喧嘩は一層激しいものになりました。
物は投げるし、騒ぐし、叫びます。
手が出ないだけマシかな、と思っていましたが、様子を見る限りそれは時間の問題でした。
それに、試験前にもそういった喧嘩が繰り返されるものですから、仲裁に入るのも一苦労で、叫んで我を失う母を抑えるのも大変でした。
やめてくださいと、土下座をしたこともあります。
どうして両親がそうなってしまったのか、それはもう、二人の性格の不一致としか思えません。
彼らはお互いに、プライドが高く、相手を人間として少しも尊敬していないのです。だから、少しのことで喧嘩に発展するのだと思います。
だんだんと、学校に居るクラスメイトがみんなバカに思えてきました。
みんな幸せそうで、毎日学校に来て、部活をして、帰って、家族でテレビを見て、くだらない話をするのが、当時の私には「ぬるいお湯につかっている人たち」に思えました。
それが「普通」だと思えませんでした。
ある日、帰宅したらまた喧嘩が起きました。私も、それから母も限界だったのだと思います。
その日母は、家を飛び出して、玄関の外で喚き散らしました。
そうしたら隣人の方が出て来て、大丈夫ですかと聞いてきました。
もう、私には、それが屈辱的で。
母を抑えながら、もう、どうしたらいいかわからなくなったのを覚えています。
その時わたしは、両親への「尊敬」を失って、自尊心も壊れて、今まで頑張ってきた自分をも認められなくなったんだろうと思います。
それからは簡単でした。その日から数ヶ月後、頑張っていたことをすべてやめました。
それはそれは楽で、だって、とにかく母のように、喚けばいいのです。狂ったように叫べばいいのです。過呼吸になっても、はいつくばって、泣けばそれでよかったんです。
朝から晩まで、嫌で嫌で仕方がありませんでした。
なにが嫌なのかまったくわかりませんが、朝になると、体が起きることを拒否します。体に異変が起きていました。いろいろな異変がありました。
楽でした。本当に。
学校へ行ってもほとんど会話はしませんでした。明るくて頭のいい「私」は、私ではなくなりました。
そうやって私が「異常」でいる間は、両親もあまり喧嘩しませんでした。
喧嘩しようものなら、私が喚き散らせばよかったんですから。
そうして、一年が経って、高校生になりました。
最初の半年はまともに通っていましたが、一度そうなった精神は簡単にはなおらず、夏が過ぎる頃にはまた「なにかが嫌だ」という生活に追われていました。
とにかくもう、嫌で、嫌で、嫌で、普通が羨ましくて、羨ましくて、羨ましくて、不公平な人生が許せませんでした。
なにぶん、虐待ではないだけギリギリ「家庭」でしたから、諦めることもできず、とにかく幸せな家庭に憧れました。
羨ましくて、どうしようもなかったのです。頑張っても、頑張っても、手に入らなかったものでした。頑張れば金賞も、学年一位も、人望も、友達も得られたけど、それだけが得られずに育ったので。
紆余曲折あり、それが治るころには、母も父も私も、冷え切っていました。
私にとって両親は「成人まで世話をしてくれて、遺産を残してくれる人」でした。
家族が揃っても、会話はなく、そこに誰も居ないかのように、挨拶も、なにもない。
呼びかけても無視で、いくら呼びかけても、返事はありません。
もう喚き散らしたりしないけれど(病気であってべつにもともと喚き散らしたいわけではない)、ああ、失ったのだなと思いました。
話し合いはこれまで何度も何度もしているので、話し合いというものが意味をなさないのは知っています。
大人になったので、今この状況が「どうしようもないこと」なのもわかります。
それでも私は、だれもいないところで「愛されたい」と泣きますし、家族を見ると羨ましいですし、家族団欒をしてみたいです。
それでも私は、親孝行がしたいですし、孫の顔を見せてやりたいと思いますし、お雑煮を食べたいなと思います。
そういうこともあったりするので、お雑煮が食べられる方は本当に、それが「だれかが欲しくても手の届かない幸せ」だというのを頭の片隅にでもおいていただけたらなと思います。
私は「親が居るってこと感謝しなきゃだめだよ??」とかいう、幸せボケのクソ女がよく口にする、だれでも知っているようなことをあたかも善意で注意してくるような言葉がだいきらいなので、「家族でお雑煮たべれるの感謝したほうがいい」とはいいません。
だって、お雑煮たべられても、なにか問題を抱えているかもしれないし、まあとにかく、笑っているあの子の笑顔のうらになにがあるかわからないですからね。
そんな我が家ですが、ごくまれに食卓を囲んで話したりということもあるので、それはとても、嬉しいことだなと思います。
弱っていくヒステリー持ちの母や、自傷癖と痴呆がはじまった父でも、父母ですから、話がかみあわなくても、もういいんです。
もういいや、と、思いながら。
いつか「普通の家庭」のようにわいわいテレビを見たりできたらいいな、と、まだ、夢に描いています。
今年はそんな年になるといいなあ。
親孝行したいです。
暗いはなしでごめんなさい〜〜〜
新年なのにね!!!笑
家族ってなんだろうなあ。