レース中の走りはもちろん、F1解説などでもとにかく人を惹きつける魅力にあふれた人である。



ドリフトをモータースポーツに格上げするためにD1グランプリ、そしてドリフトマッスルというシリーズをプロデュースした。

土屋氏のようにプロとして活躍することを夢見る若者や、スポーツとしてドリフトを楽しむ人が出場している。

タイヤを滑らせながら走るドリフト走行で観衆を魅了しドリキン(ドリフト・キング)と呼ばれるレーシングドライバーの土屋圭市氏はこう語る。


クルマに興味を持ったのは親父の影響だね。

親父がハコスカ(日産スカイライン)ファンで、家には高橋国光さんのポスターやカレンダーが貼ってあってさ。

小学生のころはそれを見ながら『俺もハコスカに乗ってこんな風に改造しよう』なんて考えていたよ。

初めてステアリングを握ったのは中学生のとき。

親父が酒を飲んで寝た隙にキーを拝借してね。(笑)

もちろん怖かったけれど、乗ってみたいという衝動を抑えることができなかったんだ。


高校卒業直前に免許を取得し念願のハコスカを購入。

クルマを走らせるのがとにかく楽しく、仕事が終わるとすぐにステアリングを握り、上田(長野県)の駅前を走っていた。


若いころ、土屋は暴走族だと言われることも多かったけれど厳密には違うんだよね。

俺はジーンズにスニーカーで駅前のメインストリートを走っていたんだ。

でもクルマをいじっているやつはみんな暴走族って言われていた時代だし、自分の中で違うと思っていればいいやと考えていた。

駅前を走るのはすぐに飽きちゃって峠に行くようになった。

そのときは『ほかの連中が走れるんだから俺も走れるだろう』という軽い気持ちだった。

そうしたらすぐに事故っちゃってね。(笑)

悔しかったよ。


土屋氏は子どものころから負けず嫌いかと思いきや、どちらかといえば冷めていたという。


かけっこで負けても相手に「すごいね」と言うだけ。

バイクに乗った高校時代も誰かに勝ちたいとは思わなかった。

女の子とデートしたりゲームセンターで遊んでも熱くならない。

でもクルマだけは同世代のやつが自分より速いのが許せなかったし、誰よりも速く走るために死に物狂いで練習した。

それだけ走ればガソリン代はバカにならない。

普通なら休息時間は自分の好きなことを楽しみたいはずなのに、土屋さんは会社が終わったあとも別の仕事をして金を稼いでいた。

峠でもサーキットでも、クルマを走らせるためにはお金がかかるからね。

昼の仕事が終わったらそのまま喫茶店のボーイを午前0時まで。

終わったら次はピンサロのボーイ。

それから走りに行って走り終わったら会社の前で寝る。

シャワーは昼休みに会社で浴びて、仕事が終わればまた喫茶店という生活を続けていたよ。

でもね、それを苦労とは微塵も思わなかった。

走るためには金がいる。

だったらどうやって金を作ればいいか。

それをひとつずつクリアしていっただけなんだよね。

夢を抱いている人は多いと思う。

夢を見るのは勝手だけれど、本気で成し遂げたいなら休息とか言っていないですべてを自分の夢のために投げ出さないと無理だと思うな。

規模を問わず会社に社長はひとりしかいない。

なぜならそこはもっとも努力した人しかたどり着けない場所だからなんだよ。

2番じゃなれない。

これが世の中の仕組みだと思うね。


レーシングドライバーとしてカリスマ的な人気を博し、フランスで行われるル・マン24時間レースでも活躍。

そんな土屋氏の生涯で最も記憶に残っているレースは意外なものだった。


まだアマチュアのころの富士フレッシュマンレースだね。

俺は21歳でレースを始めたんだけれど、当時は峠で敵なしだった。

俺が走っていた碓氷峠は週末になると関東全域から走り屋が集まる場所。

ラリーの全日本チャンピオンも挑んできたけれど負けなかった。

富士フレッシュマンは草レースだし見ていてもみんな遅い。

楽勝だと思って出場したら9位。

それもトップがまったく見えない9位だった。

悔しかったよ。

碓氷峠の王者がなんてザマだってね。

それからはひたすら峠を走りこんでレースに出たし、自分でクルマの調整も行った。

碓氷峠にはコーナーが184あってそのすべてが体に染み込んだ。

これはプロになってからも役立った。

このコーナーは碓氷峠の何番目と同じだ、鈴鹿のS字はあそこが長くなった感じだってね。

またマシン調整でも足回りのバネレートを300g変えただけでわかるようになった。

こんなわずかな差をわかるドライバーはプロでもいないし、それができたからマシン開発にも関われたんだよね。

全日本GT選手権やル・マンで勝つのはもちろん嬉しいけれど、26年間の現役生活の1レースでしかない。

でも富士フレッシュマンでの9位という記憶はいまでもはっきり残っているし、一生消えることはないだろうね。

この苦い結果があったからこそプロになってからもあんなみじめな思いはご免だと頑張れたんだろうな。

あそこで中途半端に勝っていたら調子に乗って遊びまくり、いまごろは消えていたかもしれないよ。


イベント会場ではプロを目指す若者とも気さくに話すそうだ。


でもどうすればなれるか、なるためには何が必要かは自分で考えないとダメなんだよね。

好きなことで食いたいなら犠牲にすべきこともある。

本気で考えているやつらにはこっちも真剣にアドバイスするよ。


アマチュア時代の屈辱をバネにプロの世界で戦ってきた土屋氏は、レーシングドライバーとして多くのプロを見てきて、プロとアマチュアとでは何が違うと考えているのだろう。


大前提として自分がいるフィールドで金をもらえるかどうか。

でもこれだけではプロとしてのスタートラインに立っただけで、一流のプロからは見向きもされない。

スポーツでもビジネスでも変わらないと思うけれど、一流から認められないとプロとは呼べないだろうね。

認められるというのは『頑張ったね』『すごいね』と言われることだけじゃない。

レースの世界だと、周りから『こいつが何をやっても必ず抜ける』と思われているうちは何も言われない。

でも互角に戦うようになるにしたがって相手は文句を言ってくる。

俺もある日、星野一義さんや長谷見昌弘さんのピットに呼び出されてね。

『そこに座れ。』

『お前、残り10周で何やった。』

って。

こっちはビビっちゃって

『すみません、まったく覚えていません。』

でも戻ってきたら高橋国光さんが『君もやっと一流の人から認められたね』って笑っていたんだ。

また、環境が整った中でいい仕事をするのは誰でもできるもの。

条件が悪くても目の前にあるものを使って結果を出すのがプロ。

俺がヨコハマタイヤで戦っていたころは絶対性能でブリヂストンにかなわなかった。

あっちは30周もつのに俺のは25周しかもたないんだから。

そこをどうやれば対等に戦えるか考え、実践できるのがプロなんだよ。


レーシングドライバーとしてひたすらストイックに生きてきた土屋氏。

しかし本人にそんな意識はさらさらなかった。

クルマが好きで、レースの世界にずっといたい。

そのためには何をすればいいかを考えただけ。

好きなことに時間制限なんてない。

だから24時間をレースのために使っただけだという。


そのぶん嫌われたし敵も多かったね。

スポンサーからゴルフに誘われても『ゴルフで運転は上手くならない』って断っちゃうんだから。

でも好きなことをやり続けるってそんなものだと思う。

現役を退いたいまは犬の散歩をしている時間が楽しかったりするけれど、クルマに乗れる仕事が来ないかなっていつでも思っているよ。

たぶん俺からクルマを取り上げたら死んじゃうだろうね。(笑)



土屋圭市

1956年1月30日生まれ。

長野県出身。

77年、富士フレッシュマンレースに参戦。

85年には全日本ツーリングカー選手権(グループA)にADVANカローラ(AE86)で参戦、最終戦のインターテックで優勝。

91年には日産スカイラインGT-Rを操り日本中を沸かす。

94年からはル・マン24時間レースに参戦し95年にクラス優勝、99年に総合2位。

世界中に“ドリキン”の名を知らしめた。

2003年引退。

その後はSUPER GTのチーム監督やアドバイザーを務めるほか、競技ドリフト『ドリフトマッスル』のプロデュースなど活動は多岐にわたる。