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これ見てみました そのA「ROCKY HORROR PICTURE SHOW」

「ロッキーホラーショー」(原題:ROCKY HORROR PICTURE SHOW)
1975年 アメリカ 100分
監督:ジム・シャーマン



マイブームにも入れてるこの作品。

TSUTAYAのジャンルで言うとホラーになってたけど、実際はロックミュージカル。

70年代の「ファントムオブザパラダイス」や「ヘアー」に並ぶ名作だ。

そして今ではカルト映画の代名詞となり
現在でも海外ではレイトショーで何度も上映され続けているという。

その魅力は一般的に観客参加型映画であることだといわれているが、俺はそれ以前にやはり作品自体の秀逸さにあると思う。

元々、ロッキーホラーショー(以下ロッキー)はロンドンで始まった舞台だった。
リチャードオブライエンという舞台俳優が、ある公演の代役を任されたもののすぐに降ろされてしまい

それなら自分で舞台を作ってやる!
と奮起して脚本を書き、曲も書いて舞台監督のジムシャーマンと手を組み作り上げたのだ。

当初はその奇抜な登場人物と不条理な展開で反応はいまいちだったらしいが
ロンドン公演、欧米公演とやっていくうちに一大ムーブメントを起こし、映画化へと駒を進めた。

(ロス公演が決まった時点で映画化も決定していたという話もあるが)

配給の20th Century FOXは主人公(?)フランクンフルター役に当時人気のロックスターを起用しようと提案したが
監督やオブライエンは舞台版と同じくティム・カリーでいくと決定。
結果的には実に正しい選択だと思うが、これによって大分予算が減ったとかいう話だ。


歴史はこれくらいにして本編について、、

基本的なストーリーは
若いカップルが大学時代にお世話になった教授に結婚報告をしに行く途中雨の降る森で車が動かなくなり
仕方ないので近くにあった古い城を訪ねるが
その城の主人は実はトランスセクシャル星から来た宇宙人だったーー

という感じだが、この映画には筋などあって無いが如く。
ストーリーに期待をして見たらラストには呆気に取られてしまうだろう。

そこで!
この映画は何に着眼して見るべきなのか俺の独断と偏見で何点かあげると、

@音楽
A台詞
B美術
Cティムカリー

だろう。


まずオブライエンのメロディックかつロックしてる音楽は痺れる。(オブライエンはリフラフ役で出演)
イギリスをはじめとした各国のアーティストにもファンは多く、「TIME WARP」や「SWEET TRANSVESTITE」は何度もカバーされてる。
俺は個人的には「EDDIE'S TEDDY」が好き。

あと台詞、というかギャグなんだけどすげぇくだらないしベタだけど笑っちゃうんだよねww

あと城の至る所に置いてある骨董品やオブジェは
なまめかしさやおどろおどろしさを増長させるに実に効果的にセッティングされている。
加えて登場人物達の衣装も時代の流行を取り入れてないが故に今見ても古臭く感じない。
(これは意図された訳じゃないらしいが)


とかまあ色々見所はあるんだけど、、

1番俺がおしたいのはやっぱりティムカリーの歌声と妖艶な色気!


クライマックスのミケランジェロのプールでの絡み合いは性別を越えた愛の美しさに
自然に引き込まれる。
そして
その後に
「Mamamaーmamamaー!」
と叫んで飛び出すティムカリーには誰でも心臓をわしづかみにされてしまうだろう。


長々と見所を言ったが
最初に言った通り筋なんかないし
とにかく偏見や色眼鏡の垣根をぶち壊して裸の心で見る映画だと思う。

くれぐれも家族とは一緒にみない方がいい(笑)

これ見てみました その@「沙耶のいる透視図」


「沙耶のいる透視図」 1986年 日本 102分
監督:和泉聖治

南北線の駅にふれあい広場という場所があって、
そこに自由に借りれる図書コーナーがあった。
おそらく駅員たちが
各々持ち寄ったいらない本が
置いてあったんだろう

小説、雑誌、写真集、漫画、会報誌、時刻表
時にはゲームの攻略本なんかもあって
ジャンルはばらばらだったけれど、
登校中電車内で暇だったからよく借りていた。

それである時そこに 
白いカバーに裸で股を開いた女性のイラストが描かれた本が置いてあった。

中学生だった俺は、まあ興味本位でこっそり鞄に入れて
さすがに電車の中で読むのも引けたから学校で読んでみた。


それが「沙耶のいる透視図」だった。


主人公はビニ本(今で言うエロ本)の写真を中心に撮ってるカメラマンで
ある日仕事の仲間・神崎から一人の女性を紹介される。
沙耶。
なんとなく影を背負ったような女で
「私、物を人の前で食べることができないんです。
食べるために生きているようで・・・気持ち悪くって。」
という台詞に象徴されるように独自の世界で生きている。

主人公は沙耶をビニ本のモデルと勘違いして
ホテルに連れ込み写真を撮ろうとするが拒絶される。
その際主人公の車に沙耶はスケッチブックを忘れていくのだが、

このスケッチブックにはペニスばっか描いてあるww 

後日、沙耶が一般のイラストレーターで普通の女の子だと知った
主人公は彼女に異常に興味をそそられ、
やがて彼女の内面に潜む闇にのめり込む。
そして実はかつて沙耶と恋仲であった神崎の狂った過去も関わってきて、、、


みたいなストーリーなんだけど
もう、後半の話の中心はずっとペニスというね。

まあ詳しく言っちゃうと神崎のペニスはケロイドなんだよね。
んで、それは過去に熱湯をかけられてなったっていうんだけど
それを誰が、何のためにやったのかというのがラストまで
沙耶がやったんだとか母親がやったんだとか
愛のしるしなんだとかコロコロ変わっていくんだよね。

最後の方には、もういいよ!って思ってくる。
ちんことかどうでもいいよ!って

でもまあ原作はなんかの賞も獲ってるくらいだから
考えさせられる所もあるね。
結局、ちんこを使えなくするってことはさ
いろんな意味を持ってんだよね。
恋人とのセックスにおけるちんこと
人間の繁栄、子孫を残すという役割におけるちんこってだけでも
随分意味合いが変わってくると思う。

てか俺の主観で言うと
この映画のテーマは

「ちんこをどう使うか?」
だと思う。

この映画のファンの人に怒られそうだけど
ちょっと説明させてくださいな。

主人公はいわゆる一般的な男として登場して、
その視点を提供している。
そしてちんこを快楽としてのセックスに使っている。

その主人公に対し神崎は一見狂っている精神異常者的。
でも、ちんこを快楽につかうだけというのに
疑問を持っている。
(ある意味本質的には主人公より正常)
というか嫌悪さえも抱いているのだと思う。
性欲の為に、本来愛の象徴ともいえるものを悪戯に使用すること
そしてそれを平然とぶら下げている自分に嫌悪をかんじたのだ。

普通の男は神崎のような苦悩もせず
構わずちんこを快楽の奴隷へと卑しめている。
だからおのずと主題はちんこになっていくんだよね。
相反する二人とその間を揺れる繊細な沙耶の存在。

人間は如何に生きるのか?
愛とは何か?ピュアって何だろう?みたいな

ある意味壮大なテーマを描いてるね。

今書いてて改めていい作品なのかも、と思い始めたよww
ミュージシャンの土屋さんも演技うまくないけど
神崎はまり役だし。

伊丹十三の「静かな生活」(原作:大江健三郎)を見たときと
似た感慨があったね。

やっぱりさ、「愛」とか「人間の存在」とか突き詰めると
「純」であるとはなにか?ってところにたどり着くんだよね。

美しくありたい。綺麗でありたい。

俺なんかめちゃくちゃ濁ってんもんなぁ。

もう少し誠実に生きたいと思いますww  
以上
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