試合を見ることを通じて、プレイヤーの競技に対するやり方や考え方を学ぶ。
そしてそれを自分自身に置き換え、自分がもしそのプレイヤーと同じ立場ならどうプレイするか、どうプレイしたいかまでしっかり考えることが
゛見る゛こと、なんやね。
………これに気づくのに10年かかりました。
しかも今さっき気づいたという(^o^=^o^)←
私の中では革命的な大事件ですよ。
かるた向上の足掛かりになりそうです。
かるたから離れてみて、かるたなしでも普通に生活できている自分に気がついた。
同時にひとつのことに固執しすぎていた自分にも気がついた。
たぶん親のいうように少し周りが見えていなかったかもしれない。
そして、思った。
かるたなしでもわたしは生活できる。
でも、そういう生活はきっと味気ないと思う。
スタンスとして
「取りたいときに楽しく取る」
それでいい。
ただ、もっと楽しむためには同時に傷付く勇気も持たなくちゃいけない。
無駄に高いプライドなんてかなぐり捨てちまえ。
ちなみにわたしがかるたにこだわる理由は、私の好きな人たちがわたしがかるたに向き合う姿勢が好きだと言ってくれたから。
素敵だと言ってくれたから。
わたしを認めてくれたから。
だからこそ固執していたのかもしれません。
もっとゆったり構えて競技を楽しむことができる人になりたいなぁ。
コーチに連絡したくなるのをがまんする。
自分のことは自分でしないと。
たぶんわたしは人に報告することで自己分析(現状を客観視)をしているのだと思う 。
それは普通にいいことだと思うんだけど、報告するときに少なからず他の気持ちもまじっているように思う。
報告は今までどおりしていいんだと思う。
だけどどこか他力本願なところがあったり、謎の寂しさがあったり。
だから精神的にもっと一人立ちしないと!
と思うのですよ。
むむむん。
義務感ってね、厄介なんですよ。
個人的にいい作品やいい動きのほとんどは、
伝えたい気持ちやワクワクした気持ち、楽しい気持ちが先にあって、
体があとから勝手に動くように思います。
気持ちが先なんですよね。
でも、義務感って物事が先なんです。
「○○があるから××しなくちゃいけない」
って。
もちろんそれでできてしまうこともあるけど(テストとかの類もこれが多い気がする笑)、
〜しなければならない
〜でなければならない
こういった義務感にとらわれすぎると本来の目的とかその物事の根底にある楽しさを忘れてしまう気がします。
一方で大学のサークル卒業のときに
「好きなことを何歳になっても胸を張って好きだと言える大人になってね」
的なことを書いた手紙を
「ムフフ。あたし今でも先輩のこの手紙、手帳に入れてるんですよ〜」
と2年後の大会でふいに見せられたときのことを思い出します。
恥ずかしさであばばばば(笑)
義務感ではなく、あたりまえを。
楽しさだけでなく、現実を受け止めて傷つく勇気を。
乗り越える強い気持ちを。
写真に頼らない文章が書きたいし、
逆に短文または一枚の写真と短文でバシッと
伝えどころだけドカンと伝えられるような人になりたい。