病室に入ると、母はいつものようにぼんやりと穏やかな表情でベッドに横になっていた。
救急車で運ばれた時は多少の覚悟はしたが、今はずいぶんと顔色も良くなっている。
ようやく食事が出来るようになったとは言うものの、まだまだ栄養は点滴に頼らざるを得ない。
そんな母の両腕は所々あかく内出血しており、所々青く腫れていたりもする。
そんな母の右手をとり、爪切りをする。
こないだは左手をしたけん、今日は右の爪切りするよ───
耳元で声をかけると『うん』と応える母。
大部屋の一角で、毎日母はどんなことを考えながら過ごしているのだろう。
母の、81年の人生はどんなものだったのだろう。
そんなことを思いながら今度は少し冷たい左手をとり、オレは両手で擦る。
擦りながら母に問う。
もうじき退院できそうだよ。
家に帰ったら何かしたい?
何か食べたいものある?
すると母は、
『もうなにもいらんよー』
そんなこと言わずにさ、わがままのひとつも言ってくれよおふくろさんよー
擦る手が子守唄代わりになったのか、やがて母は寝息をたてはじめる。
母の寝顔を少し眺めてからオレは静かに病室を出た。