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偽りの笑顔が消せない、


私が先生に告げられた通りに学校を休み始めた頃、学校の方も行動をし始める。


「──ちゃんは友達が大好きですからね」


友達が好きと認識されている私、きっと誰もが私は友達が大好きだと信じている筈だ。


けど、会いたくない。
友達のせいで、私は学校に行けない。

そんなこと、誰にも伝わってない。当時の私は意見を言うことが出来なかったから。


まず、同じクラスの生徒全員から手紙をもらった。仲良い子から関わりない子まで、クラスの子が

「早く元気になってね」
「早く学校こいよ」

私に励ましの言葉を掛けてくれる手紙。

次に、訪問。
毎日日替わりで4人くらいのグループで私の家に「元気ぃ?」と訪れる、それが約一ヶ月間。

そして、クラスのみんなで私に千羽鶴をくれた。



私は偽りの笑顔しか出せなかった。優しさが痛い…痛い痛い。

ごめんね、本当は君たちの優しさがとても痛かった。その時は会いたくなかった。

ごめんね、みんなこんなに優しいのに。最低だ。、

私が悪いよね、
……そんな葛藤。


毎日が、──苦い。


消毒された匂いと霞んだ空気、

学校のストレスから学校に行けなくなった私は、半年間ずっと熱が出続けた。凄い熱な訳ではない37.3度とか微熱辺りの熱が半年間、意味もわからずに出続けた。

親は体調が悪くなったから学校に行けないと思っていた。私もその時は何故学校に行けなくなったのかわからず体調のせいとしていた。

そこから私は病院の日々だ。
月に何度も病院に行った、違う病院を転々と。

同じ検査をされ採血なんてもうどれくらい行っただろう。けどどんなに精密な検査をしても

「体は異常ありません」「成長期の過程ですかねぇ…」

熱が出ている原因がわからない。幼い私は凄く不安になった「私は?なんか謎の病気なの?!」怖かった、死ぬのかなとかずっと思って。お願いだから、私に病名をつけて。安心出来ないから病名をつけて…お願い。毎日の検査に願いながら挑んだ。


病院通いも疲れた頃、
ある医者に言われた一言で私達家族は変わった。

「この子は疲れているんでしょう、学校を休ませていてあげて下さい」


私はただ素直に何故だか嬉しかった。私の両親は例え風邪を引いた時でも休むと文句を言うほど厳しい親だった、そんな両親が先生からの忠告を受け頷き私は学校を長期休める事になった。

嬉しい嬉しい嬉しい。
これで休めれば体調も治るかもしれない、何より学校に行かなくてよくなる!気持ちは舞い上がっていた。


そんな言葉がきっかけで私は学校を一気に3ヶ月休んだ。その時はよかった。


けど、そこから学校コールが始まったんだ。

痛みでは分かち合えない、


痛みでは解決しない。
全てにおいて、解決しない。


学校を不登校になったのは小4の夏、不登校になりたての頃の私は不安定だった。


外に出られなくなった、
外が怖くて家にずっといた。
怖くて怖くて仕方なかったんだ、本当に怖い。


不登校になり始めた子の親は誰しも思うだろう

「早く、学校に行かせるようにしてあげなきゃ」

私は学校に通ってた当時、毎日友達と遊んでいた。家に帰ってきてランドセルを放り投げて「行ってきます!」と毎日遊んでいた。

親から見れば「友達が大好きな子」そんな子が学校に行きたくない筈ない。

伝わらないだろう「友達に会いたくない」なんてこと。


それから毎日の「学校は行かないのか」コールが始まった。毎日毎日学校学校学校学校学校学校学校学校学校学校学校学校学校学校学校学校学校...もうやめて!てぐらい学校の話題ばかり。

朝起きる
「今日学校は?」
もちろん行かない。

お昼
「午後から学校は?」
昼には2回、親二人からの学校行かないかコールの電話。


「今日もまた学校行かなかったのか」
親が帰ってくれば毎日2時間の説教、叩かれぶっ飛ばされビールかけられたり軽く火傷させられたり。虐待?というくらい。



それが毎日だ、約半年。
身体ともにボロボロだった。寝ている事が幸せだった何よりもの。夜、散々説教されて眠りにつく私は夜中にわざと目覚ましをかけ起きる、そして「まだ夜だから寝られる」という幸せを感じていた。些細な幸せ、小さな幸せ。誰にも邪魔されない幸せ。でも次の目覚ましでは朝だ、そしてあのエンドレスが始まる。

今思えば、なんて悲しかっただろう。二度寝がなによりも幸福だったなんて。


これほどまで、
人間同士がわかりあうのは難しい、例え親子でも。


あの時が1番辛かった、
私も…そして両親も。


この当時に、理解してくれる人が居たら救われたかな。


まだ子供だった。
まだ何もしなかった。

けど、少しずつ自らを切った。


ああ、こんなにも…

心が愛しいと泣いた、

2006年12月13日8時59分
もう出会ってから1年4ヶ月。
少し前までは何よりもの支えだったhyちゃん。


私らはナリメで出会い、
それ以上の発展はない。恋人でもない、でも親友とも違う。なんといえばいいかわからないがとても親密だった。でもただお互いが凄く依存しあっている、それは今も変わらない。大切な存在。

彼女は今年結婚した。
薫と出会う前の出来事、彼女から「結婚するん」と報告を受けた、恋人でもないけれどその時は誰よりも愛してた彼女。その“愛してる”は好きの愛してるなのか家族愛なのか友情愛なのか何なのか。自分でも悩みに悩んだ、ナリメだけの関係上。お互いが沈黙の承知で会うという事はしないでいた。彼女は北海道、結婚するとちゃんと報告を受ける前に「結婚するかも」とかを言われ苦しくて何度も会いにいきたいと願った、でも相手は多分私より10歳程年上だろう。それもあり何だか出来なかった。

彼女はいつも、
「彼氏より好き」
「1番だよ」

と毎日メールで告げるから、気持ちの整理もつきやしない。去年薫と会うまでは自分でもわからない感情に苦しみ泣いていた。そして去年の6月辺りに「結婚決まった」と報告を受けた、もうただ泣くしか出来なかった。ばかみたいに3日間泣き続けた、涙が停まらなくて愛里沙に電話をした時もあった。この時に確信した、

「ああ、愛してた」
って、彼女が好きだった。
メールだけの関係、なんの絆もないように見える。周りには理解されにくい、実際会った事もない彼女にこんな強い意思を抱くのは。でも凄い凄い大切な人だった、いつでも側にいてくれた。本当いつでも側にいてくれた。

私は彼女の結婚を気にとメールをやめようかと考えた、でも出来なかった。彼女とメールを打ち切るなんて出来なかった。そして彼女も「結婚しても1番、結婚したくないくらい」と告げてくるから素直に喜んでしまって関係を切れなかった。

でも彼女は男のモノになる。
それは変わらない、私の依存愛とも呼べる恋愛は終わった。けれど暫くは立ち直れなくて毎日泣いてた。女々しい自分に驚くくらいに。


その時現れたのが薫だった、
弱さに甘えたのかもしれない。薫があまりにも優しかったから。

傷を癒してくれた薫、
私を立ち直らせてくれた。
ありがとう。



その彼女とはまだメールをしている、メールだけでこんなに続くのは自分でも驚いている。

もう愛してる気持ちはない。
家族のように大切な存在にかわったから。



薫はコレをみて妬くかもしれない(笑)

けど、彼女がいなければ今のは私はいないと言っても不思議じゃない。


失っていた私の人間の感情を呼び覚ましてくれたのが、彼女でした。

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