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注連縄の謎 2

タルパもどき、にゃんたろうは、語尾に「にゃん」をつけるからにゃんたろうと勝手に命名した存在だ。

いつも姿は見えないけど、そばにいるらしく、唐突にしゃべりだして、また唐突に去って(黙って)しまう騒がしいやつだ。

にゃんたろうは、「おにいちゃん」と口を開いた。

『気のせいじゃないと思いますよ』

「え?」

先を促すと、にゃんたろうは話を続けた。

『おにいちゃんがいつも嫌な場所は、やなものがいるんですよー。あの注連縄は、結界と同じ役割をしてるんじゃないですかね』

確かにあの薄暗い林は、朝でも鬱蒼と木々が生い茂ってるからか、ひどく暗い。通るたびに、決まって嫌な感じがする。
何が嫌なのかといわれても、そこはわからない。
本能的に「行くな」と、何かが警告してる場所なのだ。
だから、というと変だが、ぼくはあの林の奥に続く暗闇の道を直視できない。

それは、怖い人に遭ったときに、ついつい目をそらしてしまうのと似てるかもしれない。

その場所を通るたびに、目をそらすのは、もはや反射だ。
向こうに「いる」かもしれない何かと視線を合わすまいとするように、ぼくはいつも目をそらす。

まぁ、実際。
たぶん見えなくても、いるんだと思う。

ロケーションも、墓地の隣。
昼夜関係なく、周りの風景より一際暗く感じるその場所。

そういう場所は、例外なく、いる、から。

目に見えない向こう側の存在が。

この向こう側の存在とはいわく、読者諸君はもうお分かりかもしれないが、俗にいう霊的な存在のことを指す。

生ける者とは対をなす死者がいる世界を、ぼくは向こう側と勝手に呼んでいる。

その向こう側の存在。
ぼくは、その存在こそ見えないけど、無駄に感じる体質だったりする。
一昔前は、もっとリアルに、相手が足を掴んでるとか、首に手を回してるだろう感覚とかを感じていた。

ある時を境に、その感覚は弱くなったけど、今でもぼくは、なんとなく嫌な場所とかは、行きたくない、と本能的に感じて避けるようになった。

なぜか。

それは、ぼくが、向こう側の存在を、背負って帰りやすいタイプだからだ。

注連縄の謎 1

もう七月も半ば。
最近、近所の外壁や公園の柵づたいに、縄がはりめぐらされるようになった。

縄に等間隔にとりつけられた特殊な形をした白い紙は、神社なんかでよくみる形をしてて、なるほど、時期的なものも考えれば、地域のお祭りが近いのかな、なんて連想させた。

(でも、この地域一帯に注連縄(しめなわ)か。こんな地域もあるんだな)

いつも近所を車で走行しながら僕はぼんやり考えていた。

(ああ、ここも)

車で横切った場所は、薄暗い林。
人一人が通れるスペースがある道が、奥に続いている。
たぶんこの林の奥に民家はない。
なぜなら、この林のすぐ隣には広い墓地があるからだ。
なんのためにこの道があるのか、ぼくにはわからないが、一つ、気づいたことは、この道が、注連縄で遮られてから、いつも通るたびに味わってた嫌な感じがしなくなったことだ。

墓地のすぐ真後ろの小さな公園もそうだが、昼間であっても、注連縄がないときは、なんとも言えない気味悪さというか嫌な感じがしていた。

これが、なくなった。

たぶんこれは、察するに注連縄のおかげなんだと思う。

(きのせーかな)

なんて思ってたら、ぼくの心を読んだのか、タルパもどきのにゃんたろうの声がした。

はじめに

日常を小説風におこそうと思い、ブログを立ち上げました。

中に出てくる人物やできごとはほぼ九割事実です。

どこまでホントか嘘かはご想像におまかせします。


ちなみに、ここに出てくるにゃんたろうという存在は、俗にいうタルパ的なものです。
啓の非日常なできごとで色々教えてくれたり、話し相手になったり、色々です。
あったこと中心に書いていくので、思い出したようにいろんな注釈が入ると思いますがご容赦ください
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